洗足駅前でワインを飲んで、駅前のポストと谷口理容室に思いを馳せる。


土曜日、日没後にひさしぶりに東急目黒線に乗って洗足駅で下車。明日はいよいよ夏休み最終日、せめてもの気晴らしにワインを飲んでゆくことにする。戸板さん自身が、「品川区と私」(初出:『東京人』1992年11月号→『六段の子守唄』所収)という最晩年の文章に、

 芝三田四国町に生まれたので、品川の海はごく近くにあったわけだが、昭和十五年に世帯を持って、荏原区小山町に住んだので、品川から遠くなっていた。
 ところが、市区改正で、品川区に編入されたので、自分のところ番地に、品川がのることになってしまったのである。
 ただし、住宅街と商店街とが交錯するうちの周辺では、荏原、小山、旗の台の町名が、だんだら編に並走するのでややこしい。そのため、誰でも尋ねられると、私鉄東急最寄りの駅名で答えるようだ。私は「洗足の住人です」という。

と端的に記しているとおりに、明治製菓入社2年目の春の昭和15年に所帯を持って、1993年1月に他界するまで、戸板康二は終生「洗足の住人」だった……という次第で、たまに日没時に東急目黒線に乗る機会があると、途中下車してワインを飲んでゆくのが、ここ数年のおたのしみなのだった。



洗足駅前には2軒のイタリア料理のお店があって、2軒とも居心地がよくて料理もおいしくて、2軒ともそれぞれにとてもよいお店。今日はこちらのお店となった。

 


洗足駅は現在地下で、地上に改札口がある小さな駅。急行はとまらないので、注意しないといけない。取り急ぎ、『東京急行50年史』(昭和48年4月)を参照すると、洗足駅は目蒲線の開通と同時に大正12年3月開業、昭和7年、田園都市会社が最初に販売した分譲地が洗足駅の周辺だったというから、昭和15年に戸板さんが世帯を持ったのは、田園都市会社の典型的な「郊外住宅地」だったわけだ。そして、昭和42年8月22日、環状7号線との立体交差工事が完了し、以降、洗足駅は地下駅となった。

 


昭和42年8月の地下化以前の洗足駅前の写真として、昭和35年12月5日、荻田二郎氏撮影の洗足駅前の写真、宮田道一著『東急の駅 今昔・昭和の面影』JTBキャンブックス(JTBパブリッシング、2008年9月)より。目蒲線が目黒線となり、駅舎はすっかり新しくなってしまったけれども、駅のまん前の十字路の果物店が健在であることに、今気づいた! 戸板さんのお見舞いにゆく人がここでなにか果物を買ったこともあったかもしれない。今度洗足に行ったときに何か買って帰ろうかなと思う。それから、この昭和35年12月の写真で嬉しいのが、自転車に乗る羅宇屋さんの背後の改札口間近のところに古びたポストが写っているということ。戸板さんの書簡類を見ると、「目黒局」の消印のものが多い。このポストに投函していたのだなあと思うと、ジーンと胸がいっぱい。

 あれは、昭和三六年の夏だったとおもう。私は一年ほど前から、見馴れぬ町に隠れ住んでいた。ある女性(宮城まり子・本名本目真理子)の家に潜りこんでいたのだ。ある夕方、目蒲線洗足駅の前のポストに手紙を出しに行った。そこまで百メートルはなかった。ポストの口に手紙が入りかかったとき、私の手の甲をじわりと抑える手があった。驚いて振り返ると、戸板さんが立っていた。
「はてな、これは」
 という顔つきで、その視線を足もとにも感じた。私はシャツにズボン、素足に下駄という服装だったことを、そのときの戸板さんの視線とともにおもい出した。
「や、や」
 ここで戸板探偵に会おうとは、という気分でぎこちなく挨拶して別れた。

と、これは、吉行淳之介の「洗足駅前のポスト」という文章(『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』所収)の一節。この写真は、まさしくその頃の洗足駅前の風景。ちなみに、このときのことを戸板さんは二十年のちに、「いい男いい女」(初出:「新潟日報」昭和57年11月→『おととしの恋人』所収)という文章に、

 ある時期、吉行氏はぼくの住んでいる町にいた。ある日、ポストに郵便を出しに行くと、そこに立っている人物が何ともいい男だと思ったので、顔をとっくりと確かめたら、吉行氏であった。
 むろん知人であるが、その瞬間、くやしいほど、男前だと思ったのを、忘れない。

と、吉行淳之介曰く「その内容は、探偵の眼を隠してポイントをずらして」書いている。ちなみに、『あの人この人』所収「十返肇のアンテナ」によると、《十返さんには節度があって、たとえば吉行淳之介さんが「闇のなかの祝祭」を書く前に、その主題であるこの作家の恋ものがたりをはじめからつぶさに知っていながら、決して口に出さなかった》という。

 


などと、前置きが長くなってしまった。洗足駅の改札を出た先にポストがあったら嬉しかったのだけれど、残念ながら、今はここにはないようだ。本当に残念。吉行淳之介の文章には、《目黒のほうを向いた改札口を出て、右側は大田区で、私の住んでいたのは大田区北千束二丁目である。こんどしらべたことだが、改札口を出て斜め右に四、五百メートル歩くと品川区荏原七丁目で、戸板さんの住居のあるところだ。改札口を出て左側は目黒区になり、百メートルくらいのところに、皇太子妃の実家小和田邸がある。》というふうに、位置関係が説明がされている。写真のいちょう通りは、その「改札口を出て左側」の目黒区のいちょう並木。この並木道は古くから洗足駅前のおなじみの風景だった。矢野誠一著『戸板康二の歳月』によると、亡くなる前日の1993年1月22日、「はち巻岡田」における会食では《ちょうど皇太子の婚約が発表されたすぐあととあって、皇室関係の話題もあった》とのことだから、戸板さんの亡くなったのは、ふだんはいたって静かな洗足駅前が騒然としていた真っ最中の時期だったということになる。

 


このいちょう並木がはじまるあたりに、戸板さんが長らく行きつけにしていた「谷口理容室」がつい最近まで古色蒼然とした姿を残していて、洗足駅を下車するたびに、その店先を眺めるのをたのしみにしていたものだったけれど、2008年1月に洗足駅を下車したとき、あとかたもなく消えてしまっていた。2007年に閉店したものと思われる。


とかなんとか、在りし日の戸板さんに思いを馳せてワインを飲むのはいつも最高の極楽。残り少ない夏休みを惜しみつつ、夜は更けていった。