小池朝雄の一周忌本『断想』のこと。戸板康二を通して、新劇人・小池朝雄に思いを馳せる。


シネマヴェーラの中島貞夫特集で初めて見た『現代やくざ 血桜三兄弟』(昭和46年11月封切・東映)がとっても面白かった! 思わず2回見に行ってしまった! 前々からかっこいいとは思っていたけれども、それにしても小池朝雄のなんとかっこいいこと! 実にいい役者だなア! とにかくも「!」を連発せずにはいられないくらいにかっこいい! と、、頭のなかが小池朝雄のことでいっぱいになっていたところで、ふと思い出したのだった。小池朝雄の一周忌の追悼本に戸板康二の文章が収録(再録)されていたことを!

 


小池朝雄『断想』(小池朝雄文集編集委員委員会編集・発行、非売品、1986年3月23日)。全73ページの小冊子で、「断想」のロゴ入りの白い封筒に入れられている。シンプルな造本で、口絵2枚(昭和37年劇団雲創立公演「真夏の夜の夢」のボトム/昭和36年文学座「ジュリアス・シーザー」のブルータス)のあと、1「この役・あの役」、2「芝居の周辺」、3「家族」という章立てで、小池朝雄自身の「断想」を収録したあと、4「小池朝雄論から」に戸板康二(『パリ繁昌記』プログラムより・1962年1月)と矢野誠一(雑誌『悲劇喜劇』1978年1月号より)の文章を併録するという構成。全73ページの小ぶりな、とても素敵な本。丹精を尽くした編集に心が洗われる。小池朝雄その人の徳を思わずにはいられない。「謹呈」の短冊には、夫人名義で《おりおりに 朝雄が書きましたものから幾篇かもう一度読んでやっていただければ うれしうございます/転載をお許しくださった諸先生に お礼申し上げます》と書かれてあって、ジンとなる。

 

というわけで、このたび初めてじっくりと、小池朝雄の『断想』を読みふけった次第であった。裏表紙には、

昭和六年生れ
二十五年文学座研究所へ
三十八年劇団雲創立同人
五十一年劇団昴に改組
六十年三月二十三日没
享年五四

と、きわめて簡潔にその略歴が紹介されているとおりに、終生、小池朝雄は典型的な戦後日本の「新劇人」であった。本書に収録の「『新劇俳優』という肩書き」(雑誌『新劇』第308号・1978年12月)で小池朝雄自身は、

新劇俳優。この肩書きの、新劇、という字は外した方がいいのではないか、と時々思う。テレビやフィルムの撮影、商業演劇の舞台がごちゃまぜになって、どうにも動きのとれなくなった時にそう思う。金を目当ての、馬車馬のような働きを後ろめたく思うその免罪符に、新劇、という肩書きをぶら下げてる、という人もいるけど、それでも私は、この肩書きをかついでいようと思う。思えば遠く来たもんだ……、というふうには決して思えない。昭和二十五年から今日まで、劇団から劇団へ、私の身辺は全く慌しかったし、俳優として歩いた私の足跡はあまりにも狭い場所をどうどうめぐりしているように見える。ただそこに、岸田・岩田・久保田三先生にはじまり、いまの福田恆存氏に続いている私のセリフ修業の轍の跡は、はっきり見る事が出来る。これ等の氏にめぐり会えた事で、迷うことなくその道標べの指す道を歩いて来られた事を、私はなによりも幸運と考えているし、私の演技のすべてが、こうした作家の戯曲かたら生れ、そのセリフによって育って来た事を考えると、私の肩書きは、やはり新劇俳優しかないのだと思う。

と書いている。新劇俳優を志した小池朝雄が文学座を選んだのは、《その頃読み散らしていた小説の中で『末枯れ』とか『寂しければ』など、気に入りの作家久保田万太郎さんのおられるところだったから》とのことで(p51)、『断想』を繰って、ますます小池朝雄が好きになった。新劇の小池朝雄の舞台を見ることはできなかったけれど、映画における小池朝雄の朗々としたセリフ、姿勢のよさ、キビキビとした所作など、そのあちらこちらに「新劇人」としての彼を見出すことができる気がする、というか、映画の小池朝雄に見とれつつも、ふと「新劇人」としての彼に無理やり思いを馳せることはいつもとてもたのしい。

 


《「ジュリアス・シーザー」シェイクスピア作、福田恆存訳・演出》、『文学座五十年史』(文学座、1987年4月29日)より。左より、芥川比呂志(キャシアス)・北村和夫(シーザー)・小池朝雄(ブルータス)。昭和36年9月から10月にかけて、《創立25周年記念のアトリエ公開公演》として上演された公演より。『断想』に再録された戸板康二による小池朝雄論の冒頭は、

「シーザー」のブルータスにおける小池朝雄は、彼一代の“顔”をしていた。空間に目をすえ、思い入れを凝結させた小池君の立ち姿は、彫刻を見たとでもいうような印象の残したのである。

という一節ではじまる。この文章は昭和37年1月の文学座の『パリ繁昌記』の上演プログラムに掲載されたものなので、この当時もっとも戸板さんの印象に強く残っていた小池朝雄の姿がブルータスだった。

 


というわけで、同じく『文学座五十年史』より、《「パリ繁昌記」中村光夫作・長岡輝子演出》。左より、小池朝雄・伊藤幸子・川辺久造・宮口精二・近藤準・高橋昌也・芥川比呂志。新劇のパンフレットを古書展で見かけるたびに、「キリがないしなあ……」とスルーしてしまうことが多いのだけれど、「キリがないしなあ……」と言いどおしの戸板さんの断簡零墨の類を蒐集するという点においても、好きな映画俳優の新劇人としての姿に思いを馳せるという点においても、できるかぎり手元に蒐集したい気になってきた。

 


《『ジュリアス・シーザー』のキャシアス役 左は小池朝雄(S36・9)》、『写真集 芥川比呂志』(牧羊社、1987年11月)より。芥川比呂志はいつもとってもフォトジェニック。戸板さんにとって、新劇役者の最大の贔屓役者はなんといっても芥川比呂志だったから、戸板さんにとっての小池朝雄というと、どうしても芥川比呂志とセットで記憶に残っていたのかもしれない。久保田万太郎をきっかけに文学座を志した小池朝雄は、昭和30年に福田恆存の翻訳による『ハムレット』に出会ったことで、一生「福田シェイクスピア」に心酔していたという。結果的に芥川とは袂を分かったかたちとなったけれども、そのことを含めて、新劇役者のそれぞれの歩いた道がそれぞれに興味深いのだった。


『断想』には、昭和36年9月の『ジュリアス・シーザー』公演時の「『ジュリアス・シーザー』のブルータスのこと」と題する文章が収録されている。

 福田さんは稽古の初日に、僕らを前にして開口一番こう言われた。
 「シーザーの場合、公演を通じて“演劇とは何か?”という、極めて素朴な問いを自問自答しよう」。これは僕にはちょっとショックだった。新劇の公演には常に持ち出されていなくてはならないはずのこの大テーマというよりは、やはり素朴な問題を僕らは時々忘れているのではないだろうか? どんな劇を上演する時でもその劇が僕らの「理想としている劇」と一体どんなつながりがあるのか、その距離と関係を一々問いただしてみるべきではないだろうか。
 シェイクスピアの作品はセリフ劇である。ことばが総てだ。更にこの人間劇は独特の高い調子を持っている。我々が日常使っていない高さと張りでセリフが語られなければならない。だからといって会話は会話であるし、すべてが代議士のへたな演説の様になってしまてもまずい、一番困るところだ。もとより文学座は言葉を大切にするところから生まれた劇団である。岸田、久保田、岩田三先生から直接薫陶を受けた先輩の技術を僕らがはっきり受け継いでいることを明らかにするつもりだ。先輩といえば芥川さんが、今回はキャシアスの役で出演する。芥川さんは、十一年前僕が文学座付属演劇研究所の生徒になった時の主任教師、直接には芥川さんに手をとり足をとりされて一人前になった僕らであり、そして彼を一番近くの目標においてきた。もちろん、福田さんのシェイクスピアのセリフにかけてすでに定評をつくっている芥川さんだ。真似にならないよう同じ舞台で語るのはつらいところである。

と、思わず長々と抜き書きしてしまったけれども、新劇人・小池朝雄の真摯な姿に心が洗われるのだった。

 


金神徹三『写真集 楽屋の顔』(日本カメラ社、昭和50年12月1日)に掲載の小池朝雄の写真。やっぱり、しみじみいい顔だなア!


わたしは実は『刑事コロンボ』を見たことがないのだけれど、たぶん、終生中村雅楽探偵シリーズを書き続けた戸板さんは、コロンボのファンだったのではないかなと思う。事実、中村雅楽シリーズに『コロンボという犬』という一篇があるのだった。初出は昭和56年11月号の『小説現代』。


戸板さんは、小池朝雄の映画をそんなに見ていないのは確実だけれど、注目なのは戸板さんが同人に加わっていた「新演劇人クラブ・マールイ」にて、なんと『仁義なき戦い』が上演されていること! もちろん金子信雄のプロデュースで、昭和49年10月24日から11月2日まで紀伊国屋ホールで上演、深作欣二と福田善之の共同演出、出演者は金子信雄が山守なのはまあ当然として、広能が室田日出男! 親分が成田三樹夫!! と、びっくりな舞台である(参考文献:杉作J太郎・植地毅『仁義なき戦い 浪漫アルバム』徳間書店・1998年5月)。小池朝雄が出演していたらどんなに嬉しかっただろう! と、思わずにはいられない。