戸板康二の明治製菓宣伝部時代:『チョコレートと兵隊』にまつわるメモ。


先日、神保町シアターの高峰秀子特集で、長年の懸案だった『チョコレートと兵隊』を見ることができた。とにかくも、やっと実見できた喜びが第一。その記念に、以下、『チョコレートと兵隊』の覚書とともに、戸板康二の明治製菓宣伝部時代にちょいと思いを馳せてみたい。

戸板康二は明治製菓宣伝部に入社したのは、昭和14年4月。『句会で会った人』(富士見書房、昭和62年7月20日)所収「大森の良夜会」の第2回のところに、以下のくだりがある(初出:『俳句研究』昭和61年2月号)。

 私の入社する前年に、東宝映画が作った「チョコレートと兵隊」という作品があった。これは大陸に行っていた桐生の兵士が、日本にいるひとり息子のために、慰問袋にはいって来たチョコレートの包装紙を明菓に送り返し、抽選で何かの商品を送ってくれとたのんで来たので、朝日の特ダネになった。見出しは映画と同じで、火野葦平の「麦と兵隊」「土と兵隊」という当時のベストセラーの題名をもじったものだ。
 これが映画化されて、大変な評判になり、競争していた森永がくやしがったという余談もあるが、この映画を持って、戦傷兵の病院をまわって映写するための車までこしらえ、宣伝部の一隅にその映写技師と運転手の席も設けられていた。

佐藤武演出の東宝映画、『チョコレートと兵隊』の封切は昭和13年11月30日。大阪朝日新聞の新聞広告には、11月30日に梅田映画劇場、東宝敷島劇場、新世界東宝劇場、大阪地下劇場、京都宝塚劇場、神戸阪急会館で「六日迄上映」とある。以後、順次全国で上映、日劇では12月11日を初日に同月21日まで、滝沢英輔『武道千一夜』と益田義信演出のレヴュウ『タバコ・レビュウ』とともに上演されている。『明治製菓四十年小史』(明治製菓株式会社、昭和33年10月)所収の年譜では、映画の完成日は11月10日とされている。


映画のもととなったエピソードが「東京朝日新聞」の社会面に大きく掲載されたのは、昭和13年9月8日朝刊だった。その美談記事では、明治製菓の社名こそ出ていなかったが「チョコレートと兵隊」という言葉はすでに記事の見出しに使用されている。戸板康二の書くとおりに、それは「麦と兵隊」や「土と兵隊」のもじりなのだけど、オスカー・シュトラウスの『チョコレートの兵隊』というオペレッタもあることだし、もともと「チョコレート」と「兵隊」という言葉は意外にも、互いに結構なじみやすい単語だったのかも。明治製菓の社名が出ていないこの記事では、《製菓会社の宣伝部長も十七歳の長男を持つ年齢になつて、宣伝といふ仕事が辛くなりましたと涙を溜めて……》というふうに内田誠がその名こそ出ていないもののしっかり登場している。明治製菓宣伝部は全国的な反響を巻き起こしたこの美談記事を好機とし、内田誠宣伝部長と東宝映画とがタッグを組み、エピソードをふくらませてホームドラマとして映画化したわけだけれども、そもそも明治製菓側が東京朝日新聞に提供した「美談」だったという可能性もありそう。ま、いずれにせよ、『チョコレートと兵隊』という映画は、ニュース映画と製菓会社の宣伝の融合という点で、戦前日本映画の「資料」としてかなり興味深い代物なのだった。

 


札幌東宝映画劇場のプログラム《東宝ニュース》(昭和14年1月15日発行)の次週予告の『チョコレートと兵隊』。ちなみにこの週にこの館で上映されていたのは、伝次郎の丹下左膳の悪名高い東宝版『丹下左膳大会』(演出は前篇が渡辺邦男、後篇が山本薩夫)と伏見修『軍港の乙女達』(堤真佐子主演)。

 


『明治製菓40年小史』(明治製菓株式会社、昭和33年10月9日)より、《百点賞付のチョコレート》。東京朝日新聞の記事では《ほんの思ひつきの懸賞宣伝が生んだ意外な結果》と紹介されていた「百点賞付チョコレート」がむすぶ父性愛、
昭和11年7月、チョコレートのレーベルを利用しての百点賞付売出しが開始されたが、この百点賞をめぐっての、前線と銃後をむすぶ父性愛の記事が朝日新聞に掲載されると、この佳話は「チョコレートと兵隊」として映画やレコードにより全国に紹介され明治チョコレートはいっそうの人気を呼んだこともあった。
というふうに、同書では解説されている。

 


《本社社屋前の発声映画自動車》、同じく『明治製菓40年小史』より。上掲の戸板康二の文章にある「この映画を持って、戦傷兵の病院をまわって映写するための車」とは、この車のことかな? 『明治製菓40年小史』によると、この「発声映画自動車」の完成は昭和13年7月。《当社は早くから有力映画会社とタイアップして、映画作品の製作、および社品の宣伝に力を入れてきたのであるが、昭和13年7月には、当社みずから発声映画自動車を完成し、優秀な機動力を利用しての宣伝活動に新機軸をひらいた。》という。

 


『チョコレートと兵隊』については、『明治製菓40年小史』では映画とレコードの紹介にとどまっているけれども、昭和14年6月5日には紙芝居として発行されている(作・画ともにクレジットなしだが、作は国分一太郎とのこと。発行は日本教育紙芝居協会)。鈴木常勝著『戦争の時代ですよ! 若者たちと見る国策紙芝居の世界』(大修館書店、2009年6月)に、『チョコレートと兵隊』の紙芝居が全図版紹介されていて、この画像はカラー口絵に掲載のラスト(21枚目)の図版。《「本当にやさしいお父さんでしたよねえ。でも、今は靖国神社にいるのですよ。お前たちもお父さんに負けないように立派な人になるのですよ」》。桐生に住む母と子供ふたりが渡良瀬川に立つ。映画でも印象的に映し出されていたワーレントラスの鉄橋が丁寧に描きこまれている。

 


と、『チョコレートと兵隊』の紙芝居のことをふと思い出したところで、なんというグッドタイミング、昭和館(http://www.showakan.go.jp/)にて特別企画展《昭和の紙芝居~戦中・戦後の娯楽と教育》の開催が始まり、イソイソと出かけてきた(会期は3月17日から5月13日まで)。加太こうじの名著『紙芝居昭和史』(立風書房・昭和46年7月→岩波現代文庫)が立体化したような展示に大興奮! 展覧会場には表紙と奥付、中身が2枚の計4枚展示されていた『チョコレートと兵隊』の紙芝居が、図録には前述の、鈴木常勝著『戦争の時代ですよ! 若者たちと見る国策紙芝居の世界』と同じく、全図版紹介されているが、前者はモノクロ図版だったのに対し、後者ではすべてカラーなので資料的価値が増している。

 

というふうに、昭和13年9月に東京朝日新聞に紹介された「チョコレートと兵隊」の美談は、昭和13年11月に映画完成、翌月12月にタイヘイ・ビクター両社にてレコード化、昭和14年6月には「国策紙芝居」として発行されたという次第だった。『チョコレートと兵隊』を実際に見てみると、子供たちに大人気の紙芝居屋(横山運平)が印象的に登場する。子供たちが桐生の原っぱで目をランランと輝かせて凝視するのは、そのものずばり「国策紙芝居」であった。『チョコレートと兵隊』に思いを馳せるということは、国策宣伝に思いを馳せるということでもあり、その重要な道具のひとつが紙芝居だった。加太こうじ著『紙芝居昭和史』にも、『チョコレートと兵隊』の紙芝居がしっかり登場。

 教育紙芝居研究会は、教育関係の松永健哉と、劇作家青江舜二郎と、唯物論研究会関係の宗教学者佐木秋夫によって設立された。昭和十二年七月の日中戦争にともなう慰問袋を兵隊さんに送ろうという運動に一役買って、明治製菓を後援者にした『チョコレートと兵隊』という印刷紙芝居を作ったのが、教育紙芝居研究会のきっかけになったといわれている。

とのことで、以後、教育紙芝居協会は国策宣伝の紙芝居を作って印刷して販売する会社として続いてゆく。また、日中戦争後の昭和12年年末に誕生した紙芝居会社である大日本画劇株式会社には、森永と明治の製菓会社も株主として一枚加わっていたという。


とかなんとか、『チョコレートと兵隊』から話はとめどなく広がってゆくのだけれど、戸板康二が明治製菓宣伝部に入社する前年の昭和13年に始まった『チョコレートと兵隊』について概観してみると、戸板康二が明治製菓で「宣伝」の仕事に従事していた昭和14年4月から昭和18年6月という年月は、まさに「国策宣伝」と表裏一体の時期だったのだなあということを生々しく実感するのである。



戸板康二の明治製菓宣伝部時代の思い出として、「ちょっといい話」シリーズにも、『チョコレートと兵隊』は以下のように登場している(『新ちょっといい話』)。

 大陸で戦争がはじまったばかりのころ、慰問袋が前線に送られると、中にはいっているチョコレートの包み紙のマークを二十集めると何、五十集めると何といったふうに、景品と引きかえになるのを、一兵士が知った。
 桐生にいる自分の子供のために、その兵士は、部隊の仲間にたのんで、包み紙を貰い、それを明治製菓の本社に送って来た。
 この話を聞いた朝日新聞が、父性愛の美談として記事にし、見出しを、「チョコレートと兵隊」とした。
 火野葦平さんの「麦と兵隊」を、もじったわけである。
 さっそく、東宝がこの話を映画にすることになり、桐生にロケーションに行った。
 その兵士の息子は、眉目秀麗な少年であった。映画に出る少年よりも美しかった。
 ロケについて行った映画記者が、まちがえて、子役でない少年をとりまいて、インタビューをはじめた。
 宣伝部員だったぼくは、某日、「チョコレートと兵隊」のフィルムを持って、下田の海軍病院に慰問に行った。
 映画がおわると、院長が、患者たちのまだいる時に、挨拶した。
「本日は森永製菓の方々の御好意で」とはじまったから、舞台に飛び上って、「明治製菓です」というと、
「もとい、明治製菓の方々の……」

  映画でも紙芝居でも、チョコレートの包み紙は前線の父からいったん桐生の少年にどっさりと届いて、それを少年が明治製菓に送っていたが、新聞記事では、父が直接明治製菓に「子供に送ってやってくれ」というふうに包み紙を送ったとのことである。内田誠が『チョコレートと兵隊』について綴った、『東宝映画』昭和13年11月上旬号に掲載の「秋風帖」と題された文章によると、新聞記事になった齋藤一等兵以前にも何度か、同じような前線からの手紙があったという。明治チョコレートの百点賞のキャンペーンが始まったのは昭和11年7月、まさに事変と時を同じくしていたのだった。

 

『東宝映画』昭和13年11月上旬号、内田誠「秋風帖」のページに掲載の写真、《齋藤家の門口で前右から未亡人、智恵子さん、和夫君、御母堂、後列、物語を演出する佐藤武、内田誠氏、製作者氷室徹平、近所の蔭山薬店主人、未亡人の弟さん》。

  我々は好く晴れた秋の初の日曜に、桐生の齋藤氏の遺族を訪問した。同行は東宝映画の佐藤武、氷室徹平、石川秋子の諸氏であつた。
 桐生新宿といふ町は、をりからの秋の日のやうに、静かな広い通りだつた。そのはづれには、市をかこむ山々が、間近にみえてゐた。通りの両側の、悉くが一抱えもありそうな巨石のなたむだ溝には速い流れが音をたてゝゐた。瓦屋根の古風な一軒の床屋の角に、「戦死者齋藤辰次郎宅入口」といふ立札があつた。我々はなほそこから奥へ、二曲りほどして、齋藤氏の一の前に立つた。

というふうに、秋のはじめに明治製菓と東宝映画の関係者が桐生を訪問している。昭和13年9月8日に東京朝日新聞に「チョコレートと兵隊」と題した記事が載ってすぐさま映画化が決定した様子が如実に伺える。

 


同じく、内田誠「秋風帖」のページに記載の写真、《相生の故齋藤一等兵の家》。映画化に際しては、「齋藤」が「齋木」となったりの変更がほどこさおれつつも、一家の住まいは映画でも桐生に設定されていて、その渡良瀬川の河岸とワーレントラスの鉄橋が映っているのが嬉しかった。一家の住まいはセットだけれど、家の近所を歩いているシーンなどはロケ撮影、以前に桐生の町を歩いたときの小川によく似た風景が映って、懐かしかった。セットも上の写真の民家そのまんまのムードだった。

 


同じく、内田誠「秋風帖」のページに記載の写真、《自転車の稽古をする和夫さんと眺めてゐる佐藤監督》。戸板康二が「ちょっといい話」で「眉目秀麗な少年」と書いていた齋藤一等兵の長男和夫君と佐藤武監督。『チョコレートと兵隊』は昭和13年年末より全国で順次封切られて、年が明けて、『東宝映画』昭和14年1月下旬号では、演出(東宝では1950年代まで「監督」ではなくて「演出」と表記)を担当した新人監督佐藤武に、彼が松竹在籍時に師事していた島津保次郎と五所平之助が映画の感想を伝えるという趣旨の座談会が掲載されている。出征前夜にお父さんの藤原釜足が一人で起きて煙草を吸っている場面を褒める島津保次郎。それから、

子供の鏡台を直してやるなんてのもいいね。天窓を直す時、一寸芝居をするんですね。あゝいふのは、平易にやればやるほどくるよ。玩具箱を出して、チヨコレートの袋をみせる、あそこいらは巧いよ、断然!

というふうに、後輩をたてる島津保次郎。

 

その後の『東宝映画』でも、昭和14年6月下旬号が脚本を担当した鈴木紀子の「お裁縫箱のチヨコレート」、同年8月上旬号に明治製菓の本社勤めの社員役を演じた霧立のぼるの「凉風ひとゝき」、同年9月上旬号にお母さん役を演じた沢村貞子の「子供の頃」……というふうに、明治製菓の広告と同じページに『チョコレートと兵隊』の関係者によるエッセイが掲載されている。

 

『映画評論』昭和14年1月1日発行(第21巻第1号)。『チョコレートと兵隊』のシナリオが全文掲載されているこの号は、山中貞雄追悼記事の掲載号でもある。山中貞雄の戦病死は昭和13年9月17日、「チョコレートと兵隊」の記事が東京朝日新聞に載った直後のことだった。「チョコレートの兵隊」のお父さんも山中貞雄も、事変を引き金に応召され命を奪われて、残された者はたいへんな悲しみを味わったという点でまったくおなじ。ちなみに、山中貞雄追悼コーナーでは、山中貞雄の遺稿として「気まゝ者の日記」(初出:『映画評論』第17巻9月号)の転載のあとに、大塚恭一「山中貞雄を想ふ」、宮川雅青「山中氏を想ふ」、岩田専太郎「山中貞雄君」、筈見恒夫「山中貞雄の純粋性(講演草稿)」が掲載。山中の遺文は『山中貞雄作品集 全一巻』(実業之日本社、1998年10月)、追悼文は千葉伸夫編『監督山中貞雄』(実業之日本社、1998年10月)にすべて翻刻されている。

 


『映画評論』昭和14年1月号の口絵に掲載の、『チョコレートと兵隊』のスチール。右から、高峰秀子(印刷屋の娘・茂子)、若葉きよ子(齋木達郎の娘・千代子)、藤原釜足(齋木達郎)、小高まさる(齋木達郎の息子・一朗)。齋木一等兵の妻、子供たちのお母さんを演じたのは沢村貞子で、私生活そのまんまに夫婦役を演じた釜足と沢村貞子。二人とも小市民の夫婦をたいへん好演していて、少年役の小高まさる、映画に花を添える高峰秀子等々、役者の顔ぶれもなかなかよかった。わたし的には、明治製菓専務役の汐見洋とタイピスト役の霧立のぼるが嬉しかった! 明治製菓本社ビルでのロケがなかったのは残念。

 


その『映画評論』昭和14年1月号では、当時の多くの雑誌と同じように、森永製菓と明治製菓の広告合戦が見られるのも嬉しいところ。



当時の映画評の一例として、『映画朝日』第16巻第2号(昭和14年2月1日発行)の「試写室雑話」より全文抜書き。

 貧しい職工が出征して、戦地から家郷の子供にチヨコレートの包み紙を送つた――といふ東朝のニユースを脚色した、所謂際物映画である。新人佐藤武の演出は、幼稚で稚拙だが、虫の喰つてゐない水蜜桃のやうな甘さと新鮮さと素直さがある。主人公出征前夜の光景を描くに、深夜起き出でゝ、壊れた玩具を修繕する主人公を点出したあたり、ホロリとさせられた。そこに妙な誇張がなく、妙な技巧をこらさず、新人の素直な息吹きを感じさせる。よいペーソスだ。と、一応賞めて置くが、後半チヨコレート会社の重役や美しいタイピストを点出して、いやにセンチに事件を運ぶなんて、浪花節ぢやあるまいし、下手なつくり事は見苦しい。主演の藤原釜足は、何時ものやうなチヨコチヨコ動きたがる三枚目でなく、神妙につとめて、恐らく彼のスクリーン入り以来の好技を示した。どんな役者だつて使いやうによつては生きるものだ。
 それにしても十三年度の東宝は、芸術的にも興行的にも成功したのはこの作と『綴方教室』の二本きり、後は東京発声やエノケンやロッパや前進座による他力である。製作企画の無能をさらけ出したものだ。

 


『映画朝日』第15巻第10号(昭和13年10月1日発行)の見返しに掲載の「明治キヤラメル」の広告。《この絵は(東宝映画)高峯秀子さんの作品です》とある。『チョコレートと兵隊』の撮影と同時期の明治製菓の広告。『私の渡世日記』によると、高峰秀子は11歳から13歳の時期にライオン歯磨と明治製菓の広告に登場、明治製菓の広告写真撮影の際には、当時宣伝部にいた藤本真澄青年が宣伝写真の撮影現場にちょくちょく居合わせていたという。藤本真澄が明治製菓宣伝部嘱託を退き、森岩雄の誘いで P.C.L. に入るのは昭和11年の暮れのこと。