『書物展望』昭和16年7月号の河竹繁俊「藤木秀吉氏のこと」のこと。藤木秀吉と演劇博物館と戸板康二。


「日本の古本屋」にアクセスするたびにいつもなんとなく検索したりしなかったりする固有名詞がいくつかあって、そのなかのひとつに「藤木秀吉」がある。そして、不覚にも今まで知らなかった文献に遭遇したときはびっくりするあまりに、号数をメモして後日に図書館でチェックすればよいところを、突発的に購入手続きに入ってしまうことが多い。と、そんなこんなで先日届いたのが、河竹繁俊の「藤木秀吉さんのこと」という文章が掲載されている『書物展望』であった。

 


『書物展望』昭和16年7月1日発行・第11巻第7号(通巻121号)。表紙:蔵書票(アイロス・コルプ)蔵書印(静嘉堂文庫)。


こうして雑誌がまるごと一冊手元に届くと、通勤前の喫茶店やら昼休みのコーヒーショップやらで、隅から隅まで記事を読んだり広告を眺めたりする時間がたのしい。なしにろ『書物展望』なので、「おっ」というところは盛りだくさん。この号では、とりわけ生田葵(生田葵山)の「明治時代の劇評家」に興味津々だった。明治36年、團十郎が『清正誠忠録』のときに初めて歌舞伎座二階左桟敷で劇評家の人びととともに観劇したときのことが生々しく回想されている。一番左寄りの舞台に近い席に三木竹二、他に松居松葉、杉贋阿弥、伊原青々園、岡鬼太郎、岡本綺堂、幸堂得知、伊坂梅雪といった顔ぶれで、末席に正宗白鳥と肩をそろえる生田葵山。

……私が初めて接した其時の劇評家の態度に就ては、もつと語りたいものがある。それは劇評家達の意気が、全く舞台を厭してゐたことであつて、桟敷の先頭に座す森氏は、舞台の上で演ぜられる毒饅頭の舞台面で、権十郎の扮する片桐且元の所作が、気に入らなかつたのか、それとも間違つたことを為したのか、傍若無人に大声を挙げて笑つた。その笑声は舞台の上に迄も響き、團十郎の清正迄も、劇評家達のゐる桟敷を見上げたものである。しかも森氏は平然として隣席の猶も権十郎の挙止を批判する言を稍声高に語つてゐた。
 開幕中に大きな笑声を立てたのは森氏のみであつたが、他の劇評家達にしても、開幕中に俳優の挙止を、【るる】声高に非難して語り合うのを耳にした。一般の見物客もあるのにと、私はいくら劇評であるにしても、不謹慎の態度のやうに感ぜられて不愉快であつた。しかし温厚な伊原青々園氏や綺堂氏や、思慮緻密な岡鬼太郎氏に、そんな態度を示す筈はなく、気焔の高い他の人達であるのを書き添へて置く。

ついでに、朝日新聞の劇評家だった饗庭篁村は、《いつも劇評家達と一緒になつて芝居見物をしなかった。自身が明治文学の大先輩であるとの誇りからか、それとも朝日新聞社の方で篁村氏に礼を尽したものか、劇場側から招待されずに、朝日新聞社で買つた切符で平土間に夫人と共に見物するのが恒例であつた》とのことで、たいへん興味深かった。


生田葵山の「明治時代の劇評家」は、綺堂の思い出を綴ったもので、その初対面がここで回想されている團十郎が『清正誠忠録』に出演した明治36年の歌舞伎座の招待席でのことだったわけだけれど、その興行は近代歌舞伎史のターニングポイントである、明治36年3月16日初日、4月9日千秋楽の歌舞伎座興行であり、同年2月18日に他界した菊五郎の三人の遺子、丑之助が六代目菊五郎に栄三郎が六代目梅幸に、栄造が六代目栄三郎になった興行である……ということに気づいたとたんに、頭のなかは綺堂の『明治劇談 ランプの下にて』でいっぱい。取り急ぎ、金森和子編『歌舞伎座百年史』(1993年7月発行)を参照してみたら、この興行で三木竹二の不興をこうむった権十郎については、菊五郎の通夜の晩に井上竹次郎の案で、三月興行から権十郎を一座に入れて菊五郎の穴を埋めることになったが、結局千秋楽の日に発病し最後の舞台になってしまったことのことで(翌明治37年3月27日に他界)、権十郎が精彩を欠いていたのはいたしかたがなかったのであった。

 


《市川権十郎「幡隋長兵衛」水野十郎左衛門(明治二十四年六月歌舞伎座)》、犬丸治編『歌舞伎座を彩った名優たち 遠藤為春座談』(雄山閣、2010年5月)より。ずばりこの写真のことを、戸板さんはのちに三世河原崎権十郎に向かって「水野の一人立ちの写真があって、いい顔してますね。」と言っている(『銀座百点』第274号・1977年9月号の「銀座サロン」)。明治の歌舞伎にほんのちょっとだけ思いを馳せると、とたんに戸板さんと遠藤為春の対談を読みたくなる。それにしても、2年前に本書が上梓されたことはなんとありがたいことだろう! この本を手にしたときまっさきにうっとりだったのは、この権十郎のくだりだった。翁曰く「とにかく一番先に好きになる人」、そして「大へんに紺足袋が似合う人」。

 

……などなど、「明治時代の劇評家」に長々としみじみしてしまうのだけれど、戸板さんがのちに「学恩の大先輩」と呼んだ藤木秀吉が没したのは昭和14年4月28日。形見として、藤木氏遺愛の『歌舞伎新報』と『歌舞伎』の合本を贈られて以降、戸板青年はこれらの資料を隅から隅まで読み込んでおり、その最初の結実が、昭和16年3月発行の串田孫一主宰の『冬夏』の鴎外特集号に寄稿した「鴎外と竹二と」だった。河竹繁俊の「藤木秀吉さんのこと」が『書物展望』に載る少し前のこと。戸板康二と藤木秀吉の交友というと、どうしても三木竹二のことを思い出すのだった。藤木秀吉目当てに買った『書物展望』を機に、明治36年の『歌舞伎』を繰ったのも奇縁だった気がする。

 


鏑木清方による「対面」のスケッチ、『歌舞伎』第35号(明治36年4月1日発行)に掲載の川尻清潭の「曾我対面の型」に付された挿絵。66歳の團十郎が初役で工藤、丑之助改め菊五郎が五郎、栄三郎改め梅幸が十郎。権十郎は朝比奈を演じている。金森和子編『歌舞伎座百年史』には、《この演目は、明治の名優と次の世代の名優とのバトンタッチを象徴する。「ハテ、誰やらに似たわ似たわ」と團十郎の工藤が十郎五郎を見る時、その目に涙が光っていたといわれる。そうして、この時の演出が現行『対面』の型と定まった。》というふうに記されている。



さてさて、そもそもの目当ての河竹繁俊の「藤木秀吉氏のこと」は今まで知らなかった己の不明を恥じたくなるような、興趣の尽きることのない文献であった。河竹繁俊と戸板康二といえば、まっさきに思い出すのが、二人の初対面は藤木秀吉の通夜の日で、河竹繁俊は「あなたが戸板さんですか」と言ったというエピソードであるが、そもそも、河竹繁俊と藤木秀吉の交友はいつからはじまったのか。河竹繁俊は以下のように書いている。

 坪内逍遥博士の古稀記念に計画された演劇博物館ができてからであつた。同館の後援会が組織されて、特殊の芝居興行や講演会などが催されるやうになつた。その後援会の会員に藤木さんは加はれたのだと思ふ。だから、初めてお目にかかつたのは、昭和四五年の頃であつたに相違ない。その頃は牛込の新小川町辺に住んでゐた。
 ある時、演博館に来訪されて、明治初年の歌舞伎役者の写真を多数に寄贈して下さつた。例の手札形の、多くは褪色してゐる、あの役者の写真である。同氏に分かる限りは、裏面に解説までして下さつたを、たしか百七八十枚くらゐだつたと思ふ。ガランドウのやうな演博館では、早速それを陳列して、同氏に謝意を申し送つた。
 すると、これも夏の初め頃のことだつたやうに思ふが、御夫婦で来観された。その時、ちやうど逍遥先生がお見えになつてゐたので、お二人を御紹介した。先生も、さういい篤志家と知つて、快く逢はれた上、御厚志を感謝された。藤木さんは、はからずも逍遥先生にお逢ひして、お礼を言はれて恐れ入ると、とても悦んでゐた。
 そんなわけで、逍遥先生がおなくなりのあとも、時々来館されたり、追悼会とか逍遥記念祭などには、モーニングに身をかためて臨席された。早大の大島庶務部長も、同じ古河鉱業にゐたことがあるので、同席されてヤアヤアといふやうなこともあつた。……

……という次第で、河竹繁俊と藤木秀吉の交友は早稲田の演博がとりもつ縁なのであった。上記文中にある「同館の後援会が組織」されたとき、館報として『演劇博物館』が創刊された(演劇博物館後援会・昭和4年1月27日発行)。その第3号(昭和4年7月7日発行)に掲載の「後援会々員名簿」で、藤木秀吉が「特別賛助会員」として名を連ねているのを見ることができ、河竹の回想と合致する。昭和4年9月26日発行の『演劇博物館』第4号では、来る10月1日より演劇図書の閲覧が開始されることが大々的に報じられており、「寄贈図書、物品報告」欄にさっそく藤木秀吉の名前を見ることができ、このとき藤木さんが寄贈したのは「俳優写真帳 三冊・一二四」なる資料。これぞまさしく、上掲の河竹繁俊の言う「明治初年の歌舞伎役者の写真」なのだった。

 


《開館式における坪内逍遥の挨拶》、『演劇博物館五十年』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、昭和53年10月27日)口絵写真より。演博の開会式は昭和3年10月27日、爽やかな秋晴れのもと、午後1時から建物前の広場で開館式が開催され、約600人が参列。逍遥の演説は一時間にも及び、逍遥のすんだ声の名演説はマイクの設備などなかったのに隅々まで響き渡ったという。

 

演博の初代館長は金子馬治であったが、演博の竣工間際に病気になり、急遽、河竹繁俊が副館長となり、館長の代理として開館式にのぞんだ。その後、河竹は昭和9年10月29日に館長に就任、昭和35年3月に定年により退任するまで、長らく演博の顔だった。そんな演博の船出のもっとも最初期に、藤木秀吉は後援者として名を連ねていたわけで、「古本」と「演劇」が趣味の藤木秀吉にとって、なにはともあれ、演博の誕生はこの上ない歓びだったのは確実。


そして、戸板康二と河竹繁俊が出会ったのは、藤木秀吉の通夜の日のこと。『演劇学』第9号《河竹繁俊博士追悼号》(昭和43年7月30日発行)に寄せた「ある夜の先生」(→『夜ふけのカルタ』に「九段の一夜」として収録)は、

 河竹繁俊先生には、昭和十四年の四月にはじめてお目にかかった。
 ぼくが学生時代、自由にその書斎に出入りして、所蔵の演劇書を読ませてもらった藤木秀吉氏が急逝した時、弔問に来られたのである。藤木さんと先生との交友については、何も知らない。ぼくが玄関の受付をしているところにはいって来られて、「あ、君が戸板さんですか」といわれた。

という一節で始まる。この「あ、君が戸板さんですか」という河竹の言葉は、藤木秀吉から戸板青年のことをかねてより聞いていたことを伺わせて微笑ましい。『三田文学』の書き手として昭和10年にすでに世に出ていた将来有望の戸板青年の存在は、藤木さんにとっても誇らしいものだったのかも……と、十年以上もの間ずっと、わたしは思い込んでいたのだけれども、河竹繁俊の「藤木秀吉氏のこと」では、上に抜き書きした箇所の直後に、

遺稿集を編輯された戸板康二さんを紹介してよこされて、慶應出身ではあるが、歌舞伎研究のために便宜を計つてやつてくれとあつて、戸板氏にお目にかかつたのも、藤木さんからのお話であつた。

と続き、なにやら、藤木氏の通夜の前に、すでに戸板康二と河竹繁俊がすでに対面していたともとれるような感じなのだった。その一方で、戸板康二は「藤木さんと先生との交友については、何も知らない。」と突き放す書き方をしている。河竹繁俊のことを語る際に便宜上、そういうことにしたのか、あるいは、河竹の思い違いで、戸板さんの言うとおりに、本当に二人は藤木氏の通夜で対面したのか。一方、『わが交遊記』(三月書房、昭和55年8月)の「河竹繁俊」の項(初出:「歴史と人物」昭和54年12月)には以下のように記されている。

 繁俊博士に初めてお目にかかったのは、父と親しい大先輩で大変世話になった藤木秀吉氏の通夜の時、玄関の受付にぼくがすわっている所に、弔問に見えたのである。
 その直後、早稲田の演劇博物館(略して演博)に行って、廊下を歩いていたら、館長室から博士が出て来られ、ぼくに「小田内さんでしたね」といった。
 人ちがいである。ぼくはちがいます、先夜藤木さんの家でお会いした戸板でございますといったのだが、博士はドギマギされ、「とにかくこっちへいらっしゃい」と誘われた。 学校を出たばかり、サラリーマンになりたての若い者を、館長室に案内して下さったのは、人ちがいの賜物かもしれないが、それからずっと、何かにつけて、目をかけていただいた。
 小田内通久という名前を、その後演劇学会の名簿で見たが、その小田内通久さんとまちがわれたのかどうかは、ハッキリしない。

戸板康二と河竹繁俊の出会いが藤木秀吉の通夜の晩であったかどうかについては疑問が残りつつも、戸板康二と河竹繁俊の出会いは藤木秀吉を媒介にしていた、ということは確実なわけで、戸板康二と河竹繁俊の交友は藤木秀吉がとりもつ縁といえる。藤木秀吉と河竹繁俊、河竹繁俊と戸板康二、その三者の交友の舞台装置は演博だった。

 


『柳屋』第38号《緊縮の巻》(昭和4年11月15日発行)。表紙:宮尾しげを。三好米吉が経営していた「柳屋書店」、のち「柳屋画廊」の販売目録。昭和5年5月に藤木秀吉は、この柳屋で藤木秀吉は子規の短冊を買ってホクホクしている(『武蔵屋本考 その他』所収「子規の短冊」)。藤木秀吉の遺稿集の編纂をその初七日の日に戸板青年に依頼した友人の茂野吉之助ともども、藤木秀吉は子規の崇拝者で、柳屋の常連だった。と、その販売目録の『柳屋』は単なる目録ではない誌面が「モダン大阪」という観点で見どころたっぷり。そして、この昭和4年の号では1頁分、演博の広告が掲載されていて「演劇博物館の為めに此の頁を提供」というふうに書かれている。演博開館一周年の頃、藤木秀吉が演博になじみ始めたのとまさに同時期の『柳屋』。演博と柳屋が大好きだった藤木秀吉を象徴するような感じがして、嬉しい。