続・藤木秀吉と演劇博物館と戸板康二。

 

戸板康二が編集した藤木秀吉の遺稿集『武蔵屋本考 その他』は、一周忌の昭和15年4月28日に刊行され、藤木秀吉が蒐集にのめりこんでいた遺愛の「武蔵屋本」とともに、演博に寄贈された。

 


藤木秀吉著・戸板康二編『武蔵屋本考 その他』(非売品、昭和15年4月28日)。現在演博の図書室で閲覧できる本書は、戸板康二が寄贈したもの。「昭和十五年五月十四日」の日付印が押されている。わたしが初めて『武蔵屋本考』を手にしたのは演博の図書室だった。静かな図書室で戸板康二の寄贈書と気づいたときの感激は今でもとっても鮮烈。ちなみに「武蔵屋本」の方はためしに『津国女夫池』を閲覧したら、昭和15年5月22日の印が押されてあった。藤木秀吉が神保町の大野書店で、コレクション最後の1冊である『津国女夫池』を買ったのは昭和13年7月29日のこと。葉山へ避暑に行っていた戸板康二にまっさきにハガキで知らせた藤木さんだった。その現物かな、どうかな。

 

この時期の演博では、機関誌的なものとして、『季刊 演劇博物館』(財団法人国劇向上会発行)が刊行されていて(昭和11年7月15日創刊、昭和16年12月25日発行の第15号まで)、その第13号(昭和15年5月16日発行)の「受贈図書(本年一月以降四月末日まで」のところに、《武蔵屋本傾城半魂香外百六十冊・武蔵屋本模倣本平家女護島外九冊・名作三十六撰絵本太閤記外七十四冊(藤木秀吉氏愛蔵書)》という記入がある。注目なのは、その寄贈者として「戸板康二氏殿」と記載されているということ。藤木さんの「武蔵屋本」コレクションは、戸板康二の手を通して、演博に寄贈されたことを伺わせる。通夜の晩に戸板青年が藤木氏をよく知る河竹館長に対面したあと、寄贈の手続きが進んでいったと思われる。苦心のコレクションが演博に寄贈されることは、藤木さんにとって一番嬉しかったのはは明らかだったから、「藤木の小父さん、もって瞑すべし」であった。『季刊 演劇博物館』は昭和15年は1冊のみ、ちょうど1年後に発刊の第14号(昭和16年5月16日発行)の「受贈図書(自昭和十五年四月 至昭和十六年三月)」に、《武蔵屋本その他》と《武蔵屋本二四五冊》が記載されている。前者は「戸板康二殿」、後者は「藤木家」が寄贈者となっている。

 


《小村雪岱氏遺作舞台美術資料展》、『演劇博物館五十年』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、昭和53年10月27日)口絵写真より。昭和15年10月17日に急逝した小村雪岱の遺作展が昭和16年1月10日より、さっそく演博で開催されている。明治製菓宣伝部員の戸板康二は雪岱の亡くなる4日前に、『スヰート』の紀元二六〇〇年の表紙画を受け取りにいったばかりだった。同年年末、『春泥』第4号(春泥社、昭和15年12月30日)の雪岱追悼号の編集の手伝いをしたたばかりの戸板康二。年が明けて、さっそくの演博の雪岱展。戸板康二も半ば関係者の心持ちで観覧していたに違いない展覧会。さらに、1月31日には演博で座談会が開催されていて(久保田万太郎、安部豊、池田大伍以下計13名出席)、その速記が『国民演劇』第1巻第2号(昭和16年4月1日発行)に掲載されている。

 

 

『演劇博物館五十年』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、昭和53年10月27日)には、当時の館長・倉橋健による序に、

当初は逍遥の個人的コレクションや図書を基に発足した博物館も、河竹繁俊、飯島小平両館長時代の施設の拡充にもかかわらず、現在では既に手狭な感がないでもない。これほどまでに収集品がふえたのも、ひとえに学内関係者や一般篤志家の理解ある援助の賜物と感謝している。

というくだりがある。『演劇博物館五十年』は、メインである「ものがたり―演劇博物館五十年」に合わせて、「コレクション―資料に因むエピソード」もすこぶる面白い読み物になっている。「一般篤志家」であるところの藤木秀吉の名は、「コレクション―資料に因むエピソード」の「十五万を越す写真資料」の項の導入に大々的に登場している(執筆:林京平)。

 昭和十四年頃にはちがいなのだが誌名はさだかではない。藤木秀吉という人が「武蔵野屋本のことども」という一文をよせている。武蔵屋本というのは、明治二十二年十月から二十九年一月まで、三十七巻五十六篇の近松作品と、四巻のその他の浄瑠璃を翻刻した叢書のことである。丸善の店員であった早矢仕が翻刻に当った。『近松世話浄瑠璃』(明治二十五年、二巻)『近松時代浄瑠璃』(明治二十八~九年、三巻)とにまとめられたのがこの浄瑠璃本であった。
 藤木氏は、この意義或る出版物が世上からほとんど姿を消したことを残念に思うと同時に、その一部合綴本を逍遥が愛蔵し、逍遥から当館へ寄贈され、演博の図書室でみることのできた感慨をのべている。しかもこの本には逍遥が朱や鉛筆で誤りを正したり、時には短い感想などを書き入れてあるという。その書き入れを検討していくと、逍遥が後年おこした近松研究会のテキストとして用いたものであることを発見し、武蔵屋本ひいては早矢仕民治の努力が実ったことのよろこびがつづられている。この文を通して藤木氏が古書の愛好家であること、近松の愛好家であること、そして逍遥に深く傾倒している一人であることが知られる。
 前置きが少々長くなったが、実はこの藤木秀吉氏は、昭和四年頃、明治期の名優の扮装写真多数を寄贈された一人である。傾倒していた逍遥の記念博物館であるというのでいち早く資料を提供したのであろう。これらの写真は名刺判と手札判の中間くらいの大きさで、厚紙の台紙にはられている。浅草馬車道の内田九一、新富町の塙芳埜、木挽町の鹿島清兵衛(玄鹿館)、新富町の森山写真館、浅草公園の松林堂今津、浅草寺本堂前の入山銀治郎らの写真師たちの撮影したものである。ブロマイドのはしりである。今は大分黄変したりぼけたりしているが、明治期の芝翫・仲蔵・団十郎・菊五郎・左団次・団蔵・中村宗十郎・尾上多見蔵らから、当時若手の家橘(十五代目羽左衛門)高麗蔵(七世幸四郎)福助(五世歌右衛門)栄三郎(六世梅幸)らの舞台姿を見ることができる。

というふうに、詳しく記録されている。さらに嬉しいことには、「コレクション―資料に因むエピソード」の終盤には、

古典から現代劇に至るまで幅広い活躍をしている劇評家の一人に戸板康二氏がいる。戸板氏は手許に集まった舞台の記録写真を時折まとめて寄贈してくれている。館に戸板コレクションとでもいうべき写真ケースが固定した。

というふうに、戸板康二の名前も現在形で登場しているのだった。藤木秀吉と戸板康二の交流の象徴としての演博、ということを思って、胸が熱くなる。

 


ついでに、『演劇博物館五十年史』の「コレクション―資料に因むエピソード」で紹介されている、藤木秀吉が《逍遥が愛蔵し、逍遥から当館へ寄贈され、演博の図書室でみることのできた感慨》を綴ったくだりを、藤木秀吉の「武蔵屋本のことども」(初出:『学鐙』第42巻第11号・昭和13年11月20日発行)より抜き書き。

 黒色の布表紙に、題箋を貼り付けて、「近松浄瑠璃」と手記した見窄らしい一巻が、早稲田の演劇博物館に蔵されてゐる。内容は「曽根崎心中」以下十九篇の武蔵屋本を合綴したものであるが、扉に坪内雄蔵寄贈と記されて、明かに逍遥博士の手沢本であることが分かる。文中には随処に朱筆または鉛筆の書入があつて、仮名書に漢字を傍記し、妥当でない翻字を修正し、科白に鍵を付し、句読を打ち、傍線を引き、或は短い感想や、批評を記入してある。「言々流動」「……し得て妙」等の字句が至る処に見出さるゝ。中にも書入の多いのは、「槍権三重帷子」の一篇で、「不自然」「突然去る」「露骨」「分らぬ充分」「筆の才が利きすぎる」等の文字が読まるゝ。試みにこの篇が真先に取扱はれてゐる近松研究会に於ける博士の所説を読むと、「この作に不自然の嫌あるは否み難し」「年齢の一週りもちがふ男女の密通といふことは誰が目に見らるゝ不自然にて」「哀れなれども不自然なり」等の不自然論が繰返へされて、その不自然の三字に圏点が打つてあり、それから川船の條りで船頭の言葉が態とらしくて、近松が平生の技倆にも似ないとて「こゝらは筆任せの走り書きなるべし」とある等、この巻の書入と吻合するものがあつて、研究会に於ける博士のテキストがこの一巻であつたことは疑ふ余地が無い。惜しむにも余りあることは、この本は改装の際、心なき取扱者によつて頭部が裁断されて、特に多い上方の空間を利用した書入が、殆ど読み難くなつてゐることである。しかし乍ら、近松研究の萌芽であるばかりでなく、日本文学が科学的に取扱はれた嚆矢であるとへ云はるゝこの研究会で、逍遥博士に用ゐられたといふことは、武蔵屋本の輝かしき功績であつて、疵物ではあるが、この一巻が世に遺つてゐるだけで、民治瞑していゝわけである。

この当時の『学鐙』の編集長は、戸板康二を『三田文学』に推挙したとされる水木京太であった。戸板康二と水木京太の間で、藤木秀吉の話題が出たこともあったに違いない。

 

最後に、『演劇博物館五十年』のコラム欄の、戸板康二の文章を全文抜き書き。

 演劇博物館には、学生のころからよく行った。河竹繁俊先生が、慶応の帽子をかぶっている学生に、愛想よく声をかけて下さったのを忘れない。当時の先生は、まだ髪が黒々として居られた。
 日本演劇社に勤めるようになってからは、いろいろな用事があって、おたずねした。渥美清太郎さんと同行して、展示品の解説を、たった一人で聴いたりした。渥美さんは、坪内逍遥先生を心の師と仰いでいたから、演博は格段の思い出と、様々な感慨があったようにも見受けられた。
 演劇年鑑の編集会議を、館長室で催したこともある。『女優の愛と死』を書く時には、秘蔵の資料を見せていただき、ノートに筆写した。回想することが多い。
 先年ストラットフォードの小さな博物館を見学した時、東京の演博を、なつかしむ気持があった。そんな心象もあり得るのだろう。

演博の開館当初にはじまった河竹博士と藤木の交流は、藤木さんの死後は戸板康二が引き継いだ格好となり、その交流は戦時下から敗戦を経て、戦後へと続いてゆくのだった。

 


《演劇博物館歩廊にて(昭和24年)》、河竹繁俊『ずいひつ 牛歩七十年』(新樹社、昭和35年4月28日)より。『演劇学』第9号《河竹繁俊博士追悼号》(昭和43年7月30日発行)に寄せた「ある夜の先生」(→『夜ふけのカルタ』に「九段の一夜」として収録)にある、《「演博」の館長だった時代の先生が、なつかしく思い出される。ぼくが自分の仕事のために、博物館の本を見に行ったりして、廊下で偶然会うと、「やァいらっしゃい」と声をかけられるのだった。》というくだりがイキイキと実感できる、とてもいい写真。