2012年5月に戸板康二の旧宅が取り壊されたのを確認する。戸板邸の白木蓮の花のこと。


先月にふいに、Twitter で戸板康二の旧宅の取り壊しが始まったことを知った。近所に住む方による情報であった。いつかこの日が来るとは思っていたけれども、とうとう戸板康二の家がこの世からなくなってしまったのかと胸にぽっかり大きな穴だった。初めて戸板康二邸の前に立ったときは、質素だけどいかにも戸板康二の文人の香気が横溢する品のあるたたずまいに感動したものだった。表札の「戸板康二」の四文字に見とれるばかりだった。庭先には、戸板さんの自慢だった木蓮の木が健在であった。と、戸板邸が取り壊されたことを知ったのは5月9日だったのだけれども、以来、自分の目で確認に行かねばと思い続けていたところで、5月25日の夕刻にようやく実現。洗足駅で下車して、小雨がパラつくなか、歩を進めると、品川区荏原7丁目の戸板康二の家があった場所は見事に更地になっていた。「土地分譲中」の幟が立っていた。しばらく茫然とたたずんだあと、洗足駅に戻り、渋谷駅行きのバスが停車していたので突発的に乗りこんで、なんとなく渋谷へ。東急バスのこの路線を戸板康二は愛用していた。家はなくなってしまった一方、この路線は健在なのだなあと急に嬉しくなって、上機嫌にバスに揺られた。洗足駅からの細い道をクネクネと駒沢通りに出て、祐天寺、村野藤吾設計の旧千代田生命本社ビル・現目黒区庁舎を通り過ぎると、右手に政岡の銅像がある正覚寺が見える。

 


『芝居名所一幕見 舞台のなかの東京』(白水社、昭和28年12月25日発行)に掲載の祐天寺の「かさね塚」と正覚寺の政岡像の写真。「かさね塚」は、羽左衛門、梅幸、延寿太夫が廃曲になっていた清元の『かさね』すなわち『色彩間刈豆』を大正の当たり狂言にしたという縁で大正15年に建立。政岡像は、伊達騒動の実説の浅岡の三澤初子の墓のある正覚寺に篤志家たちが昭和9年に建立。戸板さんは《うちかけを着て、左手を懐剣の柄にかけた三澤初子が、銅像としては、歌舞伎の乳人政岡の姿で立っているのは、はなはだ愉快である。》と書いている。政岡像のモデルは六代目梅幸とのこと。戸板さんが《偶然ではあるが、祐天寺が「千代萩」の政岡の墓のある鬼子母神の正覚寺と、数丁をへだてた所にあるのも面白い。》が書いている二つの「芝居名所」のいずれにも六代目梅幸が絡んでいるというのもまたおもしろい。昭和28年の戸板さんの真似をして、十年以上前、わたしも正覚寺の政岡像を見に行ったことがあった。そのあと、祐天寺の「かさね塚」を見に行ったのだった。洗足・渋谷間の東急バスの「芝居名所一幕見」。


中目黒から代官山、並木橋を渡り明治通りに出て、渋谷駅にいたる。と、洗足からバスに揺られて渋谷に到着したところで、なんとなく東横ホール跡地の東急百貨店東横西館の9階の食堂街に行ってみたくなった。東横西館は8階まではエスカレーターが直通しているけれども、8階から9階へゆくためには別のエスカレーターに乗る必要がある。と、そんな劇場があった頃を彷彿とさせる装置(というほどでもないけど)にウキウキ、9階の食堂街は天井が平面ではないところがかつてここが吹き抜けだった名残りであり、10階(美容院がある)への階段は一部かつて劇場で使用していた階段が使われていて、その曲線が嬉しい。その階段のところにトイレがあるのは、東横ホールの頃とまったく変わらない。……などと、戸板康二の家のあった洗足からバスで渋谷に到着し、まっさきに東横ホールの跡地にやってきて、なにかと臨場感たっぷり。東横ホールのほんのわずかの残骸(らしきもの)に大喜びだった。ちょうど時分どきだったので、立田野の支店で夕食を食べて、時折天井を見上げて、しばし東横ホールに思いを馳せるのだった。

 


東横ホール1階席平面図、『東急會館』(東京急行電鐵株式会社、昭和29年11月15日発行)より。と、この図と東急百貨店のウェブサイトにある東横西館9階フロアマップとを対照させて(http://www.tokyu-dept.co.jp/toyoko/map/pdf/9f.pdf)、このあたりに劇場専用食堂があったのだなとか、この方角で着席すると舞台の正面をのぞむ方向だなとか、今後も折に触れ立ち寄り、勝手な思い込みで東横ホールに思いを馳せてみたいなと思うのだった。現在渋谷駅はダイナミックな新開発の真っ最中だから、そう遠くない未来にこの西館の建物もなくなってしまうかもしれない。



先月、戸板康二邸が取り壊されたことを確認したのだったが、当日は胸にぽっかり大きな穴があいてしまい、写真撮影をする気持ちの余裕がなかったので、6月10日日曜日の夕刻、葉山で松本竣介展を見た帰りに、のちの記録のために、品川区荏原7丁目に立ち寄った。日中はとてもよいお天気だったのに、夕方になるとにわかに雨がパラついてきて、先月に出かけたときとまったくおなじ天候となってしまった。きれいな夕焼け空の下の戸板康二邸跡地を撮影する計画は果たせなかった。

 


洗足駅の改札を出て、品川区荏原7丁目へと直進し、緩やかな坂道をのぼって、とある路地を右折すると、左前方に戸板康二邸の跡地がある。右の邸宅から大きな木が道路に影をつくる。とても素敵なたたずまい。

 


戸板康二の家のあった地所はものの見事に更地となってしまった。せめて「戸板康二」の表札が保存されていることを祈るばかり。

 


敷地のなかに足を踏み入れ、先ほどその下を通った樹木を見つめる。しみじみ見事な樹木。いつごろからここにある樹木なのだろう。戸板さんにとってもおなじみに違いなかった樹木とその木漏れ日。

 


迷ったけれども、記録のためにここに載せておきたい。かつてここに戸板康二邸があったころの風景。Google マップから採取した画像。ある年の晩秋の戸板邸。昭和15年4月に当世子夫人と所帯をもってから、1993年1月に亡くなるまで、戸板康二は終生ここの住人だった。戸板康二その人を体現するような、質素で品のあるたたずまいの住宅だった。

 


「戸板康二」の表札がまばゆいばかり。戸板邸で特徴的なのはこの大きなポスト。毎日のように寄贈雑誌や書籍をはじめとする、たくさんの郵便物が届いたことだろう。旧荏原区小山町六〇四番地、現品川区荏原七丁目。

 


などと、Google マップに残っている今のうちに! とせっせと戸板邸の画像を保存しているときに、この門の左の塀の在りし姿をみて、万感胸に迫るものがあった。



なぜならば、戸板邸の地所が更地になった現在、たぶん唯一見ることができる戸板邸の名残りが、この塀に残る戸板邸を剥がした跡だから。



戸板康二の庭にあった白木蓮というと、矢野誠一著『戸板康二の歳月』(文藝春秋・1996年6月→ちくま文庫・2008年9月)に以下のくだりがある(文庫p110-111)。

 たまたま『季題体験』の書評を、私が「日本経済新聞」に、江國滋が「週刊文春」に書くことになったのだが、期せずしてふたりがともに引用した部分がある。

  私の家の小さな庭に、大した花木はないが、たったひとつ、門の脇 の白木蓮だけ

  は、花ざかりのころ、二百メートルも先から 見え、車でその季節に帰って来た時

  は、「右側の白い木蓮の家」と私はうれしそうに、目じるしを告げるのである。

 というくだりで、この「うれしそうに、目じるしを告げる」というのが、滋味あふれた戸板康二の俳句ごころというものだろう。
 この『季題体験』の「木蓮」の項には、句帖にあるという、

   木 蓮 の 花 の う た げ と な り に け り

   木 蓮 を む ざ ん に 散 ら す 雨 と な り

 が載っていて、「あとの句のように、花満開のあいだは、降らないでもらいたい、風が強く吹かないでもらいたいと、ひたすら念じる」とある。

 このあと、1994年3月27日日曜日に、矢野さんが文藝春秋の関根徹氏とともに洗足の戸板家を訪問するくだりがある。戸板康二の蔵書から欲しい本を取りにくるようにという夫人の厚意であった。

……私たちが本を頂戴にあがった三月二十七日は、純白九弁の大花が枝全体に群れ咲いて、清浄な高い香りを発していた。「これからは、ひとりでこの木蓮の花をながめることになってしまって」とつぶやいた夫人のうしろ姿をながめながら、戸板康二のおだやかな暮しのなかの句境を垣間見せてもらったような気がした。

というふうに、戸板邸の白木蓮のくだりが締めくくられている。

 


現在、Google マップに残っている、在りし日の戸板邸の画像。車で帰宅するときは、中原街道からこの路地に入るというコースだったから、帰宅時はいつもこの角度で戸板さんはわが家を望んだことだろう。《花ざかりのころ、二百メートルも先から見え、車でその季節に帰って来た時は、「右側の白い木蓮の家」と私はうれしそうに、目じるしを告げるのである。》。

 


そんなこんなで、戸板さんの庭の白い木蓮の花を想像しながら、更地となった戸板さんが終世住んだ場所を眺めるのである。

 


駅にもどる途中の洗足の邸宅街では、戸板康二邸とおなじように、更地になっている地所をいくつも散見した。そして、洗足いちょう通りにでると、あじさいが満開だった。小雨パラつくなか、なかなかの風情だった。

 


駅前に戻り、戸板邸を偲ぶ会ということで、ひさしぶりに「トラットリアトリノ」でワインを飲んだ。ふたたび外に出ると、すっかり夜が更けていた。すっかりご機嫌。また折に触れて、洗足の駅前でワインを飲んで、戸板さんに思いを馳せたいなと思うのだった。



矢野誠一さんが『戸板康二の歳月』を上梓したのは、1996年6月だった。「ちくま文庫版あとがき」によると、戸板康二の他界した1993年の秋頃に、当時『文學界』編集長だった重松卓に、戸板康二の『久保田万太郎』のスタイルを踏襲した戸板康二伝を書くことをすすめられ、重松氏の異動先の『別冊文藝春秋』210号から214号まで全5回連載されたものに加筆して刊行されたとのこと。矢野さんは、現在、『悲劇喜劇』で『小幡欣治の歳月』を連載している(小幡欣治追悼号の2011年5月号に連載開始)。現在連載の真っ最中だけれども、単行本になるのがひたすら待ち遠しい!


さてさて、『戸板康二の歳月』から十数年の歳月を経た『小幡欣治の歳月』には、1994年3月27日日曜日に、戸板康二の蔵書を贈られたときのことがもうちょっと詳しく書かれていて、「おっ」だった(連載第11回・「悲劇喜劇」2012年3月号)。「昨年の秋も深まろうとする十月なかば過ぎ」に、小幡欣治の長男から電話があり、小幡の仕事場だった恵比寿の書斎を整理するにあたって、「使えそうな本があったら持っていていただきたい」という連絡を受ける。そして、矢野さんは17年前のあの日のことを思い出す。

 一九九四年の三月二十七日は日曜日で、朝から晴れあがった春の訪れを感じさせてくれる日だった。その前年一月二十三日に急逝した戸板康二家を、当時文藝春秋の編集者だった関根徹と洗足に訪れている。蔵書を整理するので、ほしいものがあったら取りにくるようにとの、当世子夫人からのお招きによるものだった。
 戸板康二の蔵書は、生前すでにその一部が戸板女子短大の図書館に寄贈されて、「戸板康二文庫」なるコーナーが設置されていた。書籍だけで一万八〇四冊にのぼるという。そのとき寄贈されなかった、つまり最後まで手もとに置かれていた演劇関係の資料がだいぶ残っているので、「使えるものがあったら、そばに置いてほしい」という有難いおはなしだった。戸板康二にはもう四十年以上前になるが、「これは僕が持っているよりも、君に差しあげたほうが役に立つと思うから」と、一九四六年九月から四九年五月まで十五号出た「新演藝」なる仙花紙使用の寄席演藝専門誌を頂戴して、大いに活用させていただいている。
 二階の書庫におさめられた膨大な書籍のなかから、私がいただいたのは、花柳章太郎の随筆、『きもの』(二見書房)、『紅皿かけ皿』(双雅房)、『役者馬鹿』(三月書房)、『藝談集 雪下駄』(開明社)、『女難花火』(雲井書店)、『技道遍路』(二見書房)、『なたねふぐ』(演劇新派社)、『がくや絣』(美和書店)、『わたしのたんす』(三月書房)と『花柳章太郎句抄』(有樂書房)。それに河合武雄『随筆女形』(双雅房)。これは限定五百部のうち「2」と奥付に捺してある。さらに「限定特製本四〇〇冊之内本書ハ第三二六番」とある、喜多村緑郎『わが藝談』(和敬書店)の全部で十二冊だった。
 ついでに記せば、関根徹は『中村歌右衛門写真集』と、『定本武智歌舞伎 武智鐡二全集』を、関根徹に託した阿部建二は『黙阿彌全集』を、それぞれ頂戴に及んでいる。ちょっとほしかった『内田百間全集』には、すでに先約がいたらしい。
 当世子夫人のお手を煩わせた宅配便が到着し、頂戴した蔵書にあらためて目を通していて気がついた。花柳章太郎の著作の扉に、達筆で持句がしたためられているのはともかくとして、『藝談集 雪下駄』には、「戸板兄 傍白著」と読める墨痕が、『女難花火』には、「戸板康二様 恵存 章太郎」とはっきり記されている。さらに『がくや絣』には「呈上 戸板先生 章太郎」とあり、「特製四百三拾部の内第著者用番外番本」と「著者用番外」の文字だけ朱で書きこまれている『わたしのたんす』には、文化使節として中国へ行った戸板康二の土産「中国剪紙」を用いた「章太郎自染」の張られた扉に「初刷(一)戸板兄惠存 花」と、「花」が花押風に描かれている。
 いずれ折を見て、この四冊は戸板女子短大図書館の「戸板文庫」におさめなければなるまい。

 1994年3月末の庭の白木蓮の満開の日の、矢野さんと戸板さんの蔵書のくだりは、『戸板康二の歳月』の初読時からとても印象的だった。後日に夫人から宅配便で配達されたのだなあ。

 


矢野さんが戸板蔵書の寄贈を受けたちょうど十年後となる2004年3月末、わたしはさる用件で、当世子さんからお葉書を頂戴したのだった。そのときの葉書には、庭の木蓮の写真が印刷してあった。当世子さんの《門のそばの白木蓮もすっかり散ってしまいました。満開の時は、本当にきれいでした。》という言葉が添えられてある。

 


ふたたび、Google マップに保存されている戸板康二邸の在りし日の画像を再掲して、戸板康二の歳月に思いを馳せたい。枯れ葉散る戸板邸。木蓮の花が満開のときの戸板邸の写真が欲しかったという悔いが残る。「有形文化財」にでも指定されていれば別だけど、私人の家の写真を勝手に撮影するという行為はどうも気が進まず、自分の手で戸板邸の写真を撮ったことは一度もなかったのだった。よって、わたしの手元の画像は白木蓮の戸板邸ではなくて、枯葉の戸板邸。