演博の《不滅の俳優 池部良の世界展》を見て、『スヰート』の池部鈞と戸板康二の歳月をおもう。

 

演博の長い夏休みが終わると、名実ともに秋だなアと毎年思う。と、手帖に大きく「演博」とメモしていた9月22日土曜日、わーいわーいと演博に出かけて、図書室にて懸案の資料の閲覧を済ませたあと、前日にはじまったばかりの《不滅の俳優 池部良の世界展》を見物。実のところ、図書室に出かけたついでにほんの軽い気持ちで見物に訪れたのだったけれども、いざ展示会場に足を踏み入れてみると、一室のみの小規模な会場ながらも、さすがは演博のツボを押さえた洗練された展示に感嘆しっぱなしだった。

 


早稲田大学演劇博物館にて開催の《不滅の俳優 池部良の世界展》のチラシ。会期は2012年9月21日(金)から11月25日(日)まで。市川崑『暁の追跡』(昭和25年10月封切・新東宝)の写真が使われている。

 


展示会場で無料配布されているオールカラーの小冊子(全8ページ)。こちらの表紙は、展覧会のタイトルの由来となった鈴木英夫『不滅の熱球』(昭和30年3月封切・東宝)。竹本幹夫館長「ご挨拶」、山根貞男「万年青年 色気と知性――池部良さんを悼む」(朝日新聞2010年10月21日夕刊の再録)、志村三代子「『不滅の俳優 池部良の世界展』開催にあたって」、上田学「演劇博物館コレクションにおける池部良資料の重要性」を収録。



池部良は大正7年2月、池部鈞と岡本一平の妹の篁子の息子として大森で誕生したのだったが、順路でさっそくガラスケース越しに目の当たりにすることになる、その幼年期に撮影された記念写真の台紙に大森の写真館の名前が刻印されていて、生資料ならではの迫力にクラクラだった。同時期のいわゆる「馬込文士村」がなんとはなしに彷彿としてくる。池部良の父・池部鈞といえば、わたしのなかでは長らく、明治製菓の戦前の宣伝誌『スヰート』に広告漫画を寄稿している人物としてずっと気になっている存在だった。昭和14年4月から昭和18年2月に宣伝部が縮小されるまで、明治製菓の宣伝部に在籍していた戸板康二は、『思い出す顔』(講談社、1984年11月)の「『スヰート』と『三田文学』」で、

 ぼくが「スヰート」を担当するようになって、毎号かならず頂いたものに、瀧口修造氏の夫人の綾子さんの童話、池部鈞氏の漫画で描いた広告があった。
 池部さんの場合、御自身が来ることもあったが、そうでない時は、長男がクルクルと巻いてゴム輪をかけた画用紙を持って、宣伝部のカウンターの向うでていねいに挨拶する。この金ボタンの大学生が、まもなく映画俳優の池部良になるわけだ。

というふうに回想している。池部良は、昭和14年に東宝に移っていた島津保次郎による丹羽文雄原作『闘魚』で映画俳優としてデビュウした。封切は昭和16年7月なので、まさに戸板康二の明治製菓時代と同時期。

 

明治製菓の戦前の宣伝誌『スヰート』に登場する漫画の書き手としては、昭和7年頃から小山内宏、小川武、志村和男の名前を見るようになり、池部鈞は昭和13年頃から頻繁に登場するようになり、戸板康二が明治製菓に入社した昭和14年以降はほぼ毎号掲載されている。

 


たとえば、『スヰート』第13巻第2号(昭和13年2月10日発行)に掲載の池部鈞による漫画記事。1ページに1枚の広告漫画が印刷されているスタイル。池部良青年が明治製菓宣伝部に父の使いで持参したのは、こんな感じの漫画が描かれている「クルクルと巻いてゴム輪をかけた画用紙」であった。

 


池部鈞『すぐ出来る漫画の描き方』(崇文堂出版部、昭和6年11月10日)。池部鈞の『スヰート』への登場は昭和13年頃だけれど、明治製菓との関係は、その以前から新聞広告において始まっていて、昭和6年発行のこの本にすでにサンプルして「明治キヤラメル」の広告が使われている。
【追記(2013年1月27日):「都新聞」では池部鈞のサイン入りの明治製菓の広告は昭和6年5月4日の紙面に初登場。同年6月21日の紙面に『すぐ出来る漫画の描き方』に掲載の下掲の漫画広告が掲載されている。】



と、その『すぐ出来る漫画の描き方』に掲載されている「明治ミルクキヤラメル」。《他の広告と肩を並べ雑魚寝をするのですから、余程眼立たないと効果は少い様です。其には線描きの白ツポイ絵が宜い時と、黒ツポク塗り潰した方が宜い時とありますが、隣へ組みこまれた広告一つで、どうにもなるのですから、定まつた事は云へません。要するに、新聞の広告漫画は、簡単明瞭と云ふ事が第一です。》。

 


池部鈞の明治製菓との関係は、同じ大森の住人であった内田誠宣伝部長との縁によるものであり、「大森」という土地を媒介にしていた。幼年時代の池部良の記念写真の台紙で、池部鈞と内田誠が居住していた「大森」を体感したような気になって、もうそれだけで万感胸に迫るものがあった。池部良は『続 そよ風ときにはつむじ風』(毎日新聞社、1992年11月10日)所収の「男の約束」という文章で、父の使いで内田誠宣伝部長の家に「明治製菓に頼まれた宣伝用の絵」を届けたというエピソードを紹介している。池部良はきちんと「宣伝部長の内田さん」の固有名詞を出してくれていて、初めてこの文章に出会ったときの感激といったらなかった。

 「起きろ。良」とおやじに布団を剥がされ、叩き起こされた。寝入りばなだから、寝呆け眼、半信半疑で「へえ」と間抜けな返事をしたら、
「明日の朝、使いに行ってくれ」と言う。

という書き出しで、

 「それだ。明治製菓に頼まれた宣伝用の絵だ。こいつを宣伝部長の内田さんの家に届けてくれ。宣伝用の絵だと高を括らないでもないが、男ってえのは、一旦、約束したことは、たとえ親が目の前で溺れ死にそうになっても、守らなくちゃいけねえもんだ。俺は内田さんに、締め切り日は絶対に守ると約束した。明日が、締め切り日なんだ。明日の朝、学校の行きがけに原稿の絵を届ける。いいな。よく覚えておけ。よし、早く寝ろ。」

という次第で、《「池上通り沿いだが大森駅に近いところだ。内田さんのおやじさんかおじいさんは、元台湾総督だとか、だったから立派な屋敷に住んでいる。すぐ解る家だと思う」》、《「いいか。内田さんが出て来られたら、父は締め切り日に間に合うよう、一生懸命描きました、と確り伝えておけ。とにかく、誠心誠意って奴で、挨拶して、原稿を渡すんだ。行け」》と言われて、無事に内田誠邸にたどりつくも、宣伝部長は不在、お手伝いのお婆さんに絵を渡したあと学校へ行った池部青年。そして、このあと、

 後で、おふくろに聞いたのだが、僕が、おやじの原稿を持って学校へ出かけた、すぐに、内田さんが人力車に乗って訪ねて来られた。
「まあ、明治製菓の内田さんでいらっしゃいますか。主人、たった、今、外出致しましたが」とおふくろが腰を深く折って挨拶したら「実は、池部先生にお願いした宣伝用の絵、既に締め切りから十日も過ぎておりますので、お身体でも悪くしていらっしゃるのじゃないかと思いまして。先生は男の約束は、神様と仏様の握手のようなもので、絶対ですということで、些か心配になりまして」と言われた。

というふうにオチがついている。もちろん創作交じりには違いないけれども、内田誠が「人力車に乗って」やってきたとサラリと書いているあたりがなかなか実感的。昭和8年に紀伊國屋出版部の『行動』の編集者となり、大森の文士を頻繁に訪問していた野口冨士男は、円タクが全盛期であった当時でも大森は道路がどこも狭かったからいつまでも人力車が活躍していたと回想している(『暗い夜の私』所収「浮きつつ遠く」)。

 


長谷川りん二郎《バラ》(1937)、『洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵』(求龍堂、2008年6月10日)より。『スヰート』第14巻第5号(昭和14年11月25日発行)の表紙絵。内田誠が私費で購入したと推測される作品、昭和30年代前半に洲之内徹のもとに渡り、広く知られるようになった。と、戸板康二が明治製菓宣伝部に入社した昭和14年の『スヰート』の表紙を飾った長谷川りん二郎の《バラ》をめぐる物語には前々から愛着たっぷりで、初めて現物を見たのは2009年5月、宮城県美術館での《洲之内徹コレクション》展でのこと。この絵を見るために仙台に行ったといっても過言ではなかった(その後、2010年4月、平塚市美術館の《長谷川りん二郎展》で再会している。)。

 


池部鈞《曲芸》(1937頃)、同じく『洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵』より。2009年5月、宮城県美術館で初めて長谷川りん二郎の《バラ》に対面したとき、そのすぐ近くに展示されていた池部鈞のこの油彩も大好きだった。長谷川りん二郎と池部鈞、1930年代東京の内田誠のパトロン的な芸術家との交友の残骸が、ひっそりと洲之内コレクションなかに今も息づいているような気がした。

 

池部鈞(いけべ・ひとし)は明治19年3月3日生まれ、昭和44年12月17日没。東京生まれで東京美術学校洋画科を卒業し、京城日報、国民新聞の漫画記者を勤めた。大正5年に石井柏亭と『トバヱ』を創刊、『漫画』『漫画ボーイ』の創刊にも参加する……と、これは『日本近代文学大事典』(講談社刊)を引いたものだけれど、この項を執筆した石井潤によると、《自伝的な漫画漫文『僕の学生時代』(大七 磯部甲陽堂)は傑作である。》とのことで、池部良の生れる年に出たこの本が欲しいなア! 石井潤は《油絵でも市井の人物、生活を扱い独特の滑稽味ある作品を描き……》とも書いている。上掲の《曲芸》を見て、うなずくことしきり。

 


市川崑『恋人』(昭和26年3月封切・新東宝)のタイトルバック。池部良と久慈あさみの主演映画で、タイトルバックは池部鈞。たぶん唯一の親子「共演」映画で、初めてフィルムセンター見たときは、ワオ! 池部鈞! と大感激だったなあと懐かしい。映画でもっとも印象的なシークエンスのひとつであるスケート場をモチーフにしたタイトル画。

 

 

と、幼年時代の記念写真の台紙の大森の写真館の刻印だけですでに大興奮の《不滅の俳優 池部良の世界展》であったけれども、昭和16年の映画デビュウ作の『闘魚』を監督した島津保次郎の十七回忌の法要写真(裏に池部良の筆跡で「昭和三一年九月一一日 故島津先生 法要会 施主となって」と記入されているとのこと)、とその法要と同年の唯一の小津映画出演となった『早春』(昭和31年1月封切)のオリジナルポスターの展示にもいざ目の当たりにすると、日本映画に夢中になった当初に大好きだった島津保次郎と小津安二郎をおもって、予想外に胸がキューンとなるものがあった。


映画人であったと同時に文人でもあった池部良。後半生は文筆家としても生涯現役だった池部良。2010年10月8日に他界した池部良は、わたしにとっては、毎号読んでいる『四季の味』と『銀座百点』に連載している随筆家としてずっと目にする名前であった。生原稿が展示されていて、そのブルーブラックの万年筆の筆跡にうっとりだった。そして、たいへん感動したのが、昭和26年2月の六代目歌右衛門襲名直前の六代目芝翫との記念写真。

 一九五一年二月、敗戦から復興を遂げた歌舞伎座の楽屋に、六世歌右衛門襲名を控えた中村芝翫丈(『籠釣瓶花街酔醒』の八ツ橋の扮装)を訪問した折の記念写真。『幕間』一九五一年三月号でも紹介されましたが、館蔵品には特に「六代目中村芝翫」との署名が認められます。池部氏は亡くなる直前に書かれた随筆「銀座八丁おもいで草紙・歌舞伎座」(『銀座百点』二〇一〇年一〇月号)に思い出を綴りました。

というふうに、『演劇博物館 107号』(2012年9月21日発行)の展覧会紹介欄に解説されている。その『銀座百点』に歌右衛門の思い出を寄せた随筆の生原稿と校正が、歌右衛門の写真の下のガラスケースに展示されていて、万感胸に迫るものがあった。演博の一室で見ることで、それこそ万感胸に迫る展示だった。

 


『演劇界』昭和26年2月号のグラビアページの先頭を飾る歌右衛門の八ツ橋。昭和26年1月に新開場した歌舞伎座。1月3日に開場式が午後1時と午後5時の2回に分けて開催されて、1月興業は5日初日29日千秋楽。『歌舞伎座百年史』には、《この興行では、第二部の『籠釣瓶』で吉右衛門の次郎左衛門を相手に演じた芝翫の八ツ橋が最大の話題となり、作家正宗白鳥も「これで歌舞伎の寿命が延びた」と讃えたと言われている。》というふうに記述されている。新開場の歌舞伎座の歌右衛門襲名直前の八ツ橋は、戦後昭和歌舞伎に君臨した歌右衛門その人を象徴しているような圧倒的なオーラ。

 


《中村芝翫 楽屋にて「籠釣瓶」(殺し)の八ツ橋の出を待つところ》、『劇評』昭和26年2月号のグラビア「吉右衛門劇団を背負う五人」より。

 


『銀座百点』第671号(2010年10月1日発行)より、池部良「銀座八丁おもいで草紙 歌舞伎座」(イラスト:村上豊)。歌右衛門は、

……歌舞伎十八番の演目を映画俳優の勉強のつもりで、秋の早い日、平土間の席を取って楽しみながら、知識の吸収のつもりで舞台に目を凝らしていたら、暗い中廓から出てきて“助六”が見得を切った。
 しわのある声で、僕の耳に息を吹き込む人がいる。和服を着た小柄な爺さんで、「今、舞台から池部さまをお見かけしたから、すぐ楽屋にお連れしてちょうだいとお嬢さんがおっしゃるんですが、ぜひとも楽屋にお出でいただけるとありがたく存じます」と言う。
「お嬢さんって、だれ?」「はい、中村歌右衛門でございます」と、淡々と返事された。こんな座席で行く行かないともめても致し方がない。
 小柄な爺さんに案内されて、歌右衛門丈の楽屋前に行ったら、歌右衛門丈がのれんを分けて現れた。花魁の姿だった。艶やかだ。
 歌右衛門丈は、僕の手に両手を包み、にっと笑い、「歌右衛門でございます」とおっしゃった。
 丈を訪れたのはこれ一回だったが、この場面が強烈な印象となって残っている。そのせいで歌舞伎座が思い出の建物になった。

というふうに結びのエピソードとして登場している。もちろん創作交じりで、新開場の歌舞伎座で八ツ橋を演じた頃の記念写真にまつわる直接のエピソードではないのだけれども、それでもやはり、池部良の「絶筆」が歌右衛門のエピソードだったことはとても嬉しいことだ。戸板康二が歌右衛門に写真を送ったら、その礼状に「いつも舞台からお眼にかかっておりますが」と返事が来たというエピソードを思い出して、にんまり。いつも舞台から目を光らしている成駒屋!

 

 

という次第で、池部良展で出会った歌右衛門の生写真と『銀座百点』の生原稿の余韻はそれはそれは深いもので、池部良の見事な生涯とあいまって、たいへん感動した時間だった。2010年10月8日に他界した池部良、その三回忌のタイミングで素敵な展覧会に出会えたことがとても嬉しい。会期は11月25日までで、展覧会はもうしばらく続く。これを機に『映画俳優 池部良』(ワイズ出版)を読んで、あらためてまた見にゆけならいいなと思う。

 


季刊『四季の味』第63号・冬(第16巻第3号)。表紙は蕪酢。池部良は『銀座百点』とともに『四季の味』の連載も抱えたまま、2010年10月8日に他界。文筆家として「生涯現役」を貫いた。2010年6月発売の夏号の池部良「頬落記」は第52回。テーマは「そうめん」。他界の前月の9月発売の秋号は休載で(旧稿が転載されている)、2010年12月発売のこの冬号で、池部良追悼特集が組まれていて、林真理子、白井佳夫、関容子の3氏がそれぞれに、映画人、エッセイスト、東京っ子の面影をしのぶ心のこもった文章を寄稿している。