鶴見の総持寺で戸板康二夫妻のお墓参りをしたあと、京急と東急に乗って、洗足へ。

 

戸板康二の夫人の当世子さんが今年6月末に亡くなられたことを、さる方から教えれらたのは8月中旬だった。


5月上旬に洗足の戸板康二邸が取り壊されたことを知り、同月下旬に更地になった地所を確認にゆき、6月10日に後日の記録のために再訪、6月14日付けの『戸板康二ノート』に「2012年5月に戸板康二の旧宅が取り壊されたのを確認する。戸板邸の白木蓮の花のこと。」と題して、のちのために記録に残したのだったけれども、訃報に接してまっさきに思ったことは、洗足の戸板邸がこの世から消えてしまってからほどなくして、夫人は他界されたのだなあ……ということだった。昭和15年4月に戸板康二は当世子さんと所帯を持ち、現・品川区荏原7丁目に居を構え、1993年1月に戸板さんが急逝するまで夫妻は終生洗足の住人だった。夫妻は50年以上の歳月を洗足の住人として過ごしたのだった。今年の5月と6月は、戸板邸が取り壊され、戸板当世子さんが他界されたというわけで、ひとつの区切りというかなんというか、とにかくも感慨深いの一語に尽きる。来年1月23日は戸板康二の没後20年である。


と、訃報に接したのは、暑いまっ盛りの8月中旬の当世子夫人の四十九日が済んでいるの頃のことだった。涼しくなったら、ぜひとも戸板夫妻の眠る鶴見の総持寺にお墓参りに行きたいなと思った。そして、季節はめぐり、いつのまにかすっかり涼しくなって、寒いくらいである。寒くなりすぎる前に、戸板夫妻のお墓参りに行かなくては!


と、そんなこんなで、10月14日日曜日。太田記念美術館で《生誕120年記念 月岡芳年》の前期展示を見物したあとの昼下がり、品川から京浜急行に乗って、鶴見に向かった。戸板康二のお墓参りは今回で3回目。鶴見へはいつも JR で出かけていたけれど、今回は気分を変えて、京急で行ってみることにした。と、特に深い考えもなく、思いつきで京急に乗ったのだったけど、電車が品川を出発し、『芝居名所一幕見 舞台のなかの東京』でおなじみの「八つ山下」の鉄橋を車窓からのぞんで、いきなり大興奮。そのあとも、東海道品川宿、鈴ヶ森……と、京急の急行ならではのダイナミックな駅の通過に爽快になりつつ、「芝居名所一幕見」気分を満喫。京急川崎で各駅停車に乗り換えて、京急鶴見で下車。横浜までは京急と JR はほぼ並行して走っている。京急鶴見を下車すると、まん前に JR の鶴見駅がある。新しい駅ビルがそびえ立っている。

 


絵葉書《京浜湘南電鉄沿線案内図》。京浜電鉄品川駅の近代建築を起点とした沿線案内が目にたのしい。戦前は、京急鶴見と花月園前の間に「総持寺駅」があった(昭和19年11月廃止)。

 

 

前回のお墓参りのことは、2011年1月23日付けの『戸板康二ノート』に「5年ぶりに戸板康二のお墓参り。鶴見線に乗ったあと、総持寺へ。」と題して記録している。今回は気分を変えて、京急に乗って鶴見にやってきた次第であった。京急鶴見駅を下車して、JR の線路に向かい線路を乗り越えて、おなじみの JR 鶴見駅前に出た。

 



前回のお墓参りのときにたいへん胸躍らせた鶴見線の駅舎の近代建築を歩道橋の上から眺める。現・JR 鶴見線は大正15年3月に「鶴見臨港鉄道」として発足し、昭和18年7月に買収国有化されて「鶴見線」となった。モダン都市の一側面としての工場街を運行する鶴見線。昭和9年竣工の鶴見駅の駅舎も典型的な流線型となっていて、だいぶ改修をほどこされているけれども、そのモダン建築は今も健在。流線型!

 


もとは私鉄だった名残りで、鶴見駅では現在も鶴見線は改札が別であり、線路も JR の脇の高架線で、別の線路である。鶴見駅を出た鶴見線はしばらく JR と並行の高架を走る。この高架沿いの道を十分ほど歩くと、右側に総持寺の入口がある。総持寺の入口の少し先をゆくと、鶴見線の高架は跨線橋となり、JR の広大な線路と並行する京急の線路を越えて、京浜国道沿いの「国道駅」に到着する。国道駅を出ると、電車は『煉瓦女工』でおなじみの鶴見川を渡る。

 


鶴見駅の駅舎とおんなじように、この高架も開通当初のものがそのまま残っていて、近代建築の見物という点でたいへん興味深いのだった。

 


「川崎市制拾周年記念」の金子常光画の鳥瞰図《工場は川崎へ》(川崎市役所発行、昭和9年7月1日)には、鶴見線沿線風景も描かれている(ちなみに、鶴見線の上部に見える総持寺駅発の鉄道は「鶴見臨港鉄道軌道線」。大正14年6月開通、昭和12年12月廃止)。鶴見駅と国道駅の間にかつて「本山(ほんざん)駅」があった(昭和5年10月開設、昭和17年12月廃止)。本山駅のあった場所は総持寺の入口の向かいの場所にほど近いところに位置している。その鶴見・本山間の高架、すなわち、総持寺に向かう道筋の鶴見線の高架がしっかりとこの絵図に描きこまれているのが嬉しい。

 


つまり、鶴見駅から総持寺にゆくということは、鶴見線の高架沿いを歩くということなのだ……と、場末感のただよう鶴見線の高架がしみじみ目にたのしい。

 


と、鶴見線の高架沿いをテクテク歩いて跨線橋が近づいてくると、ようやく、総持寺の入口にたどりつく。とにかく広大すぎる総持寺。

 


この入口はまさしく序の口。戸板康二のお墓への道のりはまだまだ果てしなく続くのであった。

 

 

総持寺の敷地に入り、緩やかな上り坂をのぼりつつ、墓地をめざして歩いてゆく。いくつかの巨大な仏閣に圧倒され、途中、長い廊下を横切る瞬間がそこはかとなくたのしい。墓地の敷地も広大で、3回目だというのに今回も少し道に迷ってしまい、やっとのことで「戸板家」到着。無事に着いてよかった!

 


お花を供えて、さあ、お墓参り。

 


墓石の「戸板康二 平成五年一月二十三日没 行年七十七」の文字の隣りに、19年の歳月を経て、「戸板當世子 平成二十四年六月三十日没 行年九十二」の文字が刻まれたのだった。

 


墓石の右側面には、戸板善内から始まる戸板家の人びとの名前が戒名とともに刻まれている。戸板康二の祖母・戸板関子の父、すなわち戸板康二の曾祖父の戸板善内は明治2年10月10日没(享年29)。戸板関子の夫で戸板家に入籍した母方の祖父の戸板芳三郎(大正11年5月26日没)。戸板関子の母・戸板喜代は大正7年7月23日没。そして、戸板関子(昭和4年1月14日没)。

 


「戸板家之墓」の右手前に、戸板善内・喜代の墓がある。戸板学園の『創立三十年記念誌』(昭和6年12月20日発行)に掲載の戸板関子の略歴は以下のようにはじまる。

 女史は明治二年四月十九日、その屋敷である仙台市北五番町に呱々の声を上げた。
 不幸にもその年十月、父戸板善内氏は当歳の女史とその母きよ子女史を残して他界されたのであった。善内氏は仙台藩中屈指の学者として衆望を一身に負う若き漢学者で当時其の死を惜まれた。祖父一左衛門氏も又天文学者として著名であり、関流の印可状を受けた数学者であった。元来戸板家は代々藩学者として伊達家に仕えて来たのである。将来戸板関子女史が明治、大正、昭和の聖代を通じ、一身を教育の為に捧げられてきたのも偶然ではない。

戸板善内死後、母一人に育てられた戸板関子は向学心に富み、独立不羈なお嬢さんであった。いったんは仙台で教職についたものの、明治20年に上京し、語学を修めようと外国人が校長だったフェリス女学院に入学。その後、麻生英和学院、東京女学館で教鞭をとり、明治26年に牧師の武田芳三郎と結婚し、故郷の母を迎えていったんは家庭に入る。しかし、一度夫と離れて戸板姓に戻り教育に邁進、明治35年2月22日、戸板裁縫学校の創立にいたる。夫とはその後和解し、武田芳三郎が戸板家に入籍した。

 


「戸板家之墓」の左手前には、そんな戸板関子の業績を讃える碑がある。戸板康二の父・山口三郎は戸板関子の長女ひさと結婚するときに、長男を戸板の籍に入れる約束がされ、戸板康二は両親のもとを離れることなく、戸籍だけ戸板関子の養子であった。戸板康二の夫人・戸板当世子が2012年6月30日に他界したことで、戸板家は絶えたということになる。

 


と、戸板家のお墓参りが滞りなく終了し、しばし、墓地を散策。総持寺には伊井蓉峰のお墓があって、戸板康二のあとは演劇つながりということで、ぜひとも伊井蓉峰のお墓にも行ってみたいのだったが、いよいよ雲行きがあやしくなってきた。そういえば、初めてお墓参りをしたときは、偶然長谷川時雨のお墓の前を通りかかって嬉しかったな、そうだ、偶然通りかかったといえば、内田嘉吉のお墓も初めて行ったときからいつもおなじみなのだった。

 

 


というわけで、伊井蓉峰は次回にまわすことにして、内田家の墓を見にいったところで、今日のところは退散する。

 


お寺の出口が視界に入ったころに、雨がポツポツ降りだした。せっかくここまで来たので、鶴見線の跨線橋の近くまで行ってみようと、そのまま高架沿いを橋に向かって歩いてゆく。



総持寺を出たそのすぐ先の高架上にかつて「本山駅」という駅があった。昭和17年12月に廃止された戦前の駅だけれども、高架をじっくり観察してみると、ホームのはしっこにあった階段があったと思しき箇所が斜めになっていて、駅の残骸が残っている! と興奮。

 


現在は物置のような空地のようなスペースになっている本山駅の跡地。ほかにもなにか駅の残骸がないかしらと、横浜方向に歩を進めると、駅の端っこだった場所にかすかに駅の残骸が伺えるような気がする!

 


と、本山駅の跡地に興奮したところで、ほどなくして、鶴見線の高架は跨線橋となり、さらに興奮。鶴見線は JR の線路と京急の線路の上を渡り、海に向かう。次の駅は「国道駅」。JR と京急の線路に沿うようにして第一京浜が通っているのだったが、その第一京浜の上にあるのが「国道駅」。この適当なネーミングが前々からなんだか好きだ。

 


大正15年3月に弁天橋・浜川崎を本線として開通した鶴見線が、鶴見駅まで延びたのは昭和5年10月、国道駅も本山駅も同時に開設されたので、この跨線橋が出来たのもその頃のこと。昭和9年12月竣工の鶴見駅の駅舎、昭和5年10月開通の高架と跨線橋。近代建築見物という点でそれぞれにたいへん興味深いのであった。

 


それにしても、松本竣介や藤牧義夫に見せてあげたいような見事な跨線橋である。鶴見線が通らないかしらと、つい後ろを向いてみたり。

 


鶴見線の跨線橋の先をしばらくゆくと、前方に歩道橋が見えてくる。この写真の東海道線の上の歩道橋を渡った先に京急の花月園前駅がある。

 


その京急花月園駅に至る歩道橋の手前に、JR の線路とそれに並行する京急の線路を渡る長い踏切がある。

 


距離が長いだけでなく、待ち時間も長い。開かずの踏切であった。ひっきりなしに電車が通る。

 


やっとのことで踏切が開いた! 今にもサイレンが鳴りそうで恐ろしいので、イソイソと向こう側へと渡る。JR の線路と京急の線路とを一気に渡らねばならぬ。と言いつつも、鶴見線の跨線橋が名残惜しくて、踏切の途中でしばし見つめてしまう。しみじみ琴線に触れる都市風景!

 


踏切を渡り、第一京浜の方までなんとなく歩いてみたあとで、花月園からふたたび京急に乗る。近代演劇史にもゆかりの深い平岡権八郎の父・平岡廣高により開業された花月園遊園地。その隣りの駅は生麦事件でおなじみの生麦である。京急は味わい深い駅名が多い。戸板さんではないけれども、鈴ヶ森という駅名も残しておいてほしかったなア!


 

京急蒲田で下車して、蒲田駅まで徒歩数分。前に一度、蒲田撮影所に思いを馳せるべく下車したことがあった。小津安二郎たちがたむろしていた明治製菓の売店があった場所の前をたまたま通りかかって、大いによろこぶ。戸板康二在りし日は「目蒲線」だった路線は、2000年に「多摩川線」と「目黒線」の2つに分かれてしまった。まずは、蒲田発の多摩川線に乗る。そして、多摩川で目黒線に乗り換えて、洗足へ向かう。戸板康二夫妻のお墓参りの帰り道は、洗足の戸板邸の跡地に行ってみたいなと前々から思っていた。そして、駅前でワインを飲みたいなと思っていた。と、そんなわけで、蒲田からまずは多摩川線に乗ったのだったが、蒲田の次の駅は、『神霊矢口渡』でおなじみの矢口渡! 行きの京急とおんなじように、気分は一気に『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』で、大喜びだった。

 


『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』(白水社・昭和28年12月25日)の「矢口渡」に掲載の「現在の矢口渡」。《矢口の渡は、多摩川水域の移動があったから、昔の位置を正確に知るよしもなく、すでに今は渡船もなくなったので、何の風情もない。》、《多摩川のほとりに、今日は砂利をさらう船が出ていた。この異様なメカニズムは、余りにも悲劇の女性とは無縁なものであった。》というふうに戸板さんは書いているけれども、この写真を今見ると、十分風情たっぷりな感じがする。

 


矢口渡は新田義貞の子義興が戦死した場所。義興をまつった新田神社、その従者をまつった十騎社があり、芝居では憎らしい頓兵衛をまつった地蔵堂もこの近くにあるという。というわけで、『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』には「頓兵衛地蔵」の写真も一緒に掲載されている。子どもたちの姿が微笑ましい。地蔵の奥に目蒲線の線路が写っているのも嬉しい。

 

その頓兵衛地蔵は、東京急行目蒲線の、下丸子と武蔵新田の間、線路の東側に位置している。

  椎の木かげにある地蔵堂は、子供の遊び場。本尊をはじめ、戸外に立っている石像もみな顔が欠けて、目鼻もわからない有様。土地の口碑によると、道行く人が頓兵衛の悪行をにくんで、石をぶつけたために、顔が欠け、火でとろけたようになるので、古来「とろけ地蔵」と呼ばれているとか。淫行菩薩をタワシでこする信仰に通じるものであろうか。

というわけで、無意識のうちに頓兵衛地蔵のところを通りかかっていたのだろうなあ。今度「多摩川線」に乗るときは、下丸子と武蔵新田の間で目をこらしてみたい。

 


午後5時過ぎに洗足駅に到着。5月にとり壊されたという戸板邸跡地はどうなっているかなと散歩がてら、品川区荏原7丁目のその地所に行ってみると、

 




6月14日付けの『戸板康二ノート』に「2012年5月に戸板康二の旧宅が取り壊されたのを確認する。戸板邸の白木蓮の花のこと。 」と題して記録したときと同じく更地のまま。「土地分譲中」の幟は消えていた。

 

 


駅前のイタリア料理店に入り、ワインを飲んでから、家に帰る。最後にグラッパを飲んだ。洗足のいちょう並木が色づいてくるのは一ヵ月くらい先かな。