演博の AV ブースへ戸板康二の音声資料を聴きにゆくの記。

早稲田大学演劇博物館の AV ブースへ戸板康二の音声資料を聴きに行かねばと思い続けて、幾年月、AVブースは月曜日から金曜日のみ利用可能、たまの平日休日の際は他の用事でなかなか時間がとれず、出かける機会が巡ってこないままに次第に忘れていって、幾年月……であったが、つい最近、戸板康二の未聴の音源を何本か立て続けに聴いて、しみじみ音声資料というものはいいものだなあと思った。文章に書かれるまでもないちょっとした挿話が含蓄に富んでいたり、本に書いてあることと同じ内容を話していても、そのことを語る修飾語が本とは異なっていたりと生の声で聴かねば絶対にわからない微妙なニュアンスというものがあって、それがたまらないのだった。というようなことを思っているうちに、演博所蔵の戸板康二の音声資料のことを突然思い出して、こうしてはいられない、今すぐに休みをとって聴きに行かねばとメラメラと思った、まさにそのとき、

第77回逍遙祭『坪内逍遙と澤田正二郎』
日時:2014年5月26日(月)14時45分~16時15分(開場14時15分)
会場:早稲田大学 小野記念講堂(定員200名)
参加:入場無料・予約不要
<第1部>
演じられた坪内逍遙・澤田正二郎
*映像上映「澤田正二郎物語」ほか
【解説】羽鳥隆英(演劇博物館助手)
<第2部>
はるかなる師弟 逍遙・澤正と新国劇
【お話】笠原章(劇団若獅子代表)
【聞き手】児玉竜一(演劇博物館副館長)

の開催告知を目にして、キャー! 絶対に行く! というわけで、この日に休みを取ることとし、この「第77回逍遙祭」に出かける前に長年の念願だった演博所蔵の音源を聴きにゆくことに決めた。そして当日、おそるおそる初めて足を踏み入れた演博のAVブース(演博の正面の演博に向かって左側の建物「6号館」の3階)では無事に目当ての音声を聴けて、おそるおそる初めて足を踏み入れた小野記念講堂では『坪内逍遙と澤田正二郎』を無事に聴講できて、午前から午後まで、早稲田大学構内では近代演劇がらみで大満喫だった。演博で今秋開催の企画展《寄らば斬るぞ――新国劇と剣劇の世界》(2014年10月1日~翌年2月4日)がますます楽しみ。それにしても、「新国劇」と聞いただけでいつもむやみやたらに胸が熱くなる、どうしてこんなに胸が熱くなるのだろう、新国劇!

 

 

 

 

新国劇が70周年記念公演を終えて解散した際に書かれた「新国劇・英断」(毎日新聞・昭和62年9月→『忘れじの美女』)に、戸板康二は《創立者の沢田正二郎は晩年の「原田甲斐」しか知らないが、島田正吾、辰巳柳太郎の二人は、二十代から見ている。》と書いている。昭和4年3月4日が澤田が死んだとき暁星中学1年だった戸板康二は、かろうじて澤田正二郎に間に合っているのだった。ということで、澤田他界の翌月に早くも刊行されている竹田敏彦編著『新國劇 澤田正二郎 舞臺の面影』(かがみ社、昭和4年4月10日)より、村上浪六原作、額田六福・真山青果脚色『原田甲斐』の写真。歌舞伎の仁木弾正より、むしろ伊丹万作の『赤西蠣太』における千恵蔵を思い出させる感じ。

 



戸板少年が見た澤田正二郎の原田甲斐はこのときの興行かどうかは詳らかではないけれども、『原田甲斐』が上演されている昭和2年11月新橋演舞場興行、新國劇澤田正二郎一座絵本筋書。13日初日30日千秋楽、毎夕4時半開演。菊池寛作『入れ札』、岡本綺堂作『長井村の一夜(西南戦争聞書の内)』、『原田甲斐』という狂言立てで、澤田の役は国定忠次、西郷隆盛、原田甲斐。

 



ついでに、『新國劇 澤田正二郎 舞臺の面影』より、《慈父としての澤田氏》として掲載されている写真。涙が出るほど、いい写真!

 



さらにについでに、会場で机龍之助の話題が出ていたのを記念して、『新國劇』第15号(昭和13年1月1日)より、辰巳柳太郎の机龍之助。若い!

 



そして、『百人の舞台俳優』(淡交社、昭和44年5月13日)の「辰巳柳太郎」の項の吉田千秋撮影の写真。この本で戸板さんが辰巳の役として選んだのは机龍之助であった。キャー! かっこいい! などと辰巳の写真に興奮しつつ、《新国劇では、つねに辰巳と島田をならべて考えなければならないのが宿命であるが、辰巳の場合は、沢田正二郎の当り狂言を継承して、のちのその役のこわいろを沢正でなく、辰巳で人が使うようになった。そういう点では、辰巳は劇団の伝統を背負って立っている俳優だともいえよう。》という書き出しの戸板さんの文章を読むにつけ、ますます今秋の演博の展覧会が楽しみなのだった。新国劇!



さて、ここから先は、このたび晴れて聴くことができた戸板康二の音声資料のメモ。早稲田大学演劇博物館 AV 資料データベース(http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakuav/)で「戸板康二」と検索すると、とりあえず2件の音声資料がヒットする。


請求番号:CT1-358
題名:河竹繁俊博士追悼講演
※昭和43年4月20日土曜日の午後1時から3時まで小野記念講堂で開催の河竹繁俊追悼講演を収録したカセットテープ。
【A面 62分】思い出、黙阿弥に関する業績
〈講演〉竹内薫兵(思い出)、〈講演〉戸板康二(黙阿弥に関する業績)
【B面 30分】父を語る・師を語る
〈座談〉利倉幸一、郡司正勝、河竹俊雄(登志夫)、〈総司会〉印南高一


昭和42年11月15日に他界した河竹繁俊の追悼講演を収録したカセットテープ。A面には河竹家の親戚である医学博士・竹内薫兵(養父が黙阿弥の長女の糸女といとこ同士)と戸板康二による講演が収録されていて、「私的」と「公的」の両面からの河竹繁俊がそれぞれ30分の持ち時間で語られている。繁俊氏とは会えば和やかに話す間柄で短歌という共通の趣味もあった竹内薫兵の穏やかな語り口にすっかり和んでしまい、坪内逍遥の印象が語られるくだりでとりわけジーンとなった。下町の大商家のご主人風で、構えたところがなくてごく淡々とおしゃべりしていて、誰でも親炙するであろう印象だった逍遥。と、そんな逍遥にお眼鏡にかなって逍遥の仲立ちで黙阿弥の家を継いだ河竹繁俊は開館当初から演博の顔だった。その追悼講演の音源がこうして大切に保存されていて、今も演博で聴くことができる、その逍遥のいた時代から現在までつながる演博の存在そのものに感動なのだった。

 

と、胸が熱くなったところで、続いて、戸板康二の講演。これまでラジオの座談等を何本か聴いたことはあれども、一人で30分もの間しゃべり続けている戸板康二を聴くのは初めてなので、もうそれだけで大興奮。ちょっと早口気味で頭のよさのようなものがみなぎった理知的な語り口に陶然……。テーマは「黙阿弥に関する業績」ということで、代表的な業績として、『河竹黙阿弥』の伝記執筆と『黙阿弥全集』の編纂が挙げられており、黙阿弥の人柄が繁俊氏に似ているところがあるということ、その几帳面さや用心深さが『河竹黙阿弥』でも黙阿弥の美点として強調されている印象を受ける……といったことが語られている。『銀座百点』昭和35年12月号所載の「演劇合評会」のゲストに訪れた折に河竹繁俊が養子にゆく前の他ではあまり書かれていない事情が明かされた際に戸板康二も同席していたことと合わせて、繁俊氏が養子に行った経緯が戸板さんの口で説明され、聴衆の興味をひきつけるであろう「ちょっといい話」的話術がさすが、のような気がする。

 

黙阿弥が没する前年の明治25年に黙阿弥の「上総市兵衛」の本読みを聞いて感銘を受けた逍遥は自身の本読みにも取り入れて、やがて文藝協会の朗読法へと継承されていったこと、明治期の著作権が確立されていない時期ゆえの珍事件の例がいくつか挙げられたあとで、黙阿弥の著作権裁判の法廷の場に鑑定人として出廷した逍遥が河竹家から信任を得、黙阿弥の家を継承する人物の推薦を引き受けた格好の逍遥、やがて繁俊氏に白羽の矢が立ち、明治44年に河竹家に入籍、その同年の明治44年、帝劇開場の年に第1回公演『ハムレット』を上演した文藝協会の会員でもあった繁俊氏はその分裂を機に書斎の人となり、黙阿弥23回忌に際しての伝記執筆に取り組んだこと等が語られている。すなわち、黙阿弥と繁俊を語るということは坪内逍遥、ひいては早稲田を語ることでもあるのだということを、早稲田の地で三田出身の戸板康二は明晰に早稲田の聴衆の前に示してみせているのだった。先の竹内薫兵の話と合わせて、河竹繁俊のみならず坪内逍遥の存在の大きさがとりわけ深い印象として残る。

 



『演劇學』第9号《河竹繁俊博士追悼号》(早稲田大学演劇学会、昭和43年7月30日)。演博のカセットテープに保存されている「河竹繁俊博士追悼講演」は昭和43年4月20日に小野記念講堂で開催されているのだったが、その約3か月後に発行されている追悼文集。編集後記に《四月下旬刊行の予定でしたが、今回の本誌の性格上どうしても頂きたかった玉稿もあり、締切りを二ヶ月ちかく延ばしました。》とあるから、当初は追悼講演に間に合わせる予定だったのかもしれない。


講演の締めくくりとして、戸板さんの個人的な回想として、この『演劇學』に寄せた「ある夜の先生」(→『夜ふけのカルタ』に「九段の一夜」として収録)でおなじみのエピソードが披露されていて、戸板さんの生の話声で聴くと、これがまた格別。まず、繁俊博士と初めて会ったときのエピソードとして、『演劇學』《河竹繁俊博士追悼号》では、

 繁俊博士に初めてお目にかかったのは、父と親しい大先輩で大変世話になった藤木秀吉氏の通夜の時、玄関の受付にぼくがすわっている所に、弔問に見えたのである。
 その直後、早稲田の演劇博物館(略して演博)に行って、廊下を歩いていたら、館長室から博士が出て来られ、ぼくに「小田内さんでしたね」といった。
 人ちがいである。ぼくはちがいます、先夜藤木さんの家でお会いした戸板でございますといったのだが、博士はドギマギされ、「とにかくこっちへいらっしゃ」と誘われた。
 学校を出たばかり、サラリーマンになりたての若い者を、館長室に案内して下さったのは、人ちがいの賜物かもしれないが、それからずっと、何かにつけて、目をかけていただいた。
 小田内通久という名前を、その後演劇学会の名簿で見たが、その小田内通久さんとまちがえられたのかどうかは、ハッキリしない。

というふうに書かれいるくだり。藤木秀吉と河竹繁俊については、2年前に「藤木秀吉と演劇博物館と戸板康二」として2回にわたって(前篇/後篇)メモしたことがあり、このあたりの事情は極私的に大注目(耳)であった。講演では、繁俊博士と初めて会ったときのことは「ある方からほかの場所で会ったときに紹介された」というふうに語られていて、これがたぶん藤木秀吉の通夜でのことを指しているのだろう。そして、2度目に会ったときに人違いをされたエピソードが、仮に「О(オー)さん」としておきましょうと、講演では実名が伏せられて披露され、このときは目上の偉い先生に「戸板です」と訂正するのがはばかれてそのまま「Оさん」で通してしまい、3度目に会ったときに、あのとき先生人違いをされましたねと初めて指摘することができたというふうに語っていて、上掲の追悼文と細部が異なる。以降、河竹博士とお目にかかるたびに最初にまず「戸板さんですね」と言ってクスッと確認されるのがお決まりとなったという。この「クスッ」というのが、戸板さんの生で聴くからことのニュアンス、聴いていてまさしく「クスッ」と頬が緩む。

 

それから、講演の最後でも『演劇學』《河竹繁俊博士追悼号》でも最後にとっておきとして披露されているのが、河竹繁俊がとても酔っぱらった夜のエピソード。『演劇學』《河竹繁俊博士追悼号》では、

 ぼくに「ある夜の先生の回想」がある。
「牛歩七十年」所収の口絵に、先生とともに酒席にいるぼくの写真が出ている。アルスの「演劇グラフ」が出来る前の増刊の打ち合わせ会で、たしか九段の阿家が会場だったと思う。
 写真では社長の北原鉄雄氏が、先生とぼくのうしろから、二人の肩に手をかけている。ぼくの脇に登志夫さんがいる。編集部員の村山吉郎さんがいる。みんな御機嫌である。登志夫さんが同席して安心だったせいか、先生はその夜めずらしく大酔された。
「何だ、戸板。こら、しっかりしろ」というような調子で次から次へと杯をさされ、ぼくはいささか閉口した。久保田先生も献酬が早かったが、それとほとんど同じピッチで、さしつさされつ時をすごし、先生は玉山崩れて、車で登志夫さんと帰られた。
 その直後に折口信夫先生に、「河竹先生と飲みましてね」と前置きして、こんな風だったと話した。すると、折口先生は「それはいいことを聞いた。河竹さんが、そんな酔い方をするというのは、うれしいね」といった。改めて河竹先生を見直したとでもいいたいような口調であった。

というふうに書かれている。講演とでも「玉山崩る」という言葉が使われていて、ふたたび頬が緩む。ちょっとだけ注目だったのが戸板康二が折口信夫を「オリグチ」と濁って発音していたこと。「オリクチ」と濁らないのが正解とはいえ、戸板さんの頃はそんなに厳密ではなかったのかも。講演では、折口の発言が「河竹さんにそんなことがあるのかねえー」というふうになっていて、この直接話法はもしかしたら声色? とたいへん注目(耳)だった。講演では折口が「膝を叩いてよろこんだ」という言葉が使われていて、折口と戸板さんとの和やかな座談の場をより鮮明に髣髴とさせて、嬉しい。それまで折口にとっては、河竹繁俊は実はちょっとばかし気ぶっせいな人だったのだ。

 

ちなみに、『演劇学』河竹繁俊博士追悼号の約十年後、『わが交遊記』の「わが先人」(初出「歴史と人物」昭和53年1月から54年12月まで)の「河竹繁俊」の項では、「九段の一夜」のことは、

 アルスの『演劇グラフ』という雑誌ができた時、九段の阿家という家で、北原社長、村山編集長から招かれた。劇作家の野口達二君も、若い社員としてその席にいた。
 河竹さんは登志夫さんと二人で出席したが、帰りに同行してくれるたのもしい息子さんがいるので安心したのだろう、めずらしく酔って、大声で、「戸板、こっちへ来い」と叫んで腕を組もうとしたりされた。たのしい一夕であった。
 二三日して、折口信夫先生にその話をしたら、「うれしいことを聞いた、河竹さんて、そんな人なのかね」と顔をほころばせた。そんな河竹さんを折口先生は、知らなかったのである。

というふうに披露されている。戸板さんだって、その夜まで「そんな河竹さん」を知らなかったのだった。

 



その「九段の一夜」の写真、河竹繁俊『ずいひつ 牛歩七十年』(新樹社、昭和35年4月28日)より。早稲田大学教授並びに演博館長を定年退職した翌月に刊行された随筆集で、昭和35年4月29日に赤坂プリンスホテルに於いて開催された古稀を祝う会で参会の人びとに配られた。講演でも戸板さんは『牛歩七十年』の写真が載ってます、と紹介していた。河竹繁俊と戸板康二の後ろで手をかけているのがアルス社社長の北原鉄雄。河竹登志夫がお父さんそっくり。

 



『回想の戦中戦後』(青蛙房、昭和54年6月25日)の口絵にある「九段の一夜」の写真。《先生は髪を美しく老いさせていたが、温厚篤実という言葉どおりのお人柄で、ニコッと笑う顔には、一種いわれぬ魅力があった。》という戸板さんの文章をイキイキと実感させる写真。この写真は繁俊博士の泥酔前かな。

 

B面に収録の、利倉幸一と郡司正勝と河竹登志夫の座談会もたいへん満喫。雑司ヶ谷に住んでいた頃に王子電車に乗って面影橋から歩いていつも演博を訪れていた、往復5銭で勉強に来ていたということを語る利倉幸一の声を演博の地で聴いて、しょっぱなからジーン。「戸板君」と呼ぶ利倉幸一。戸板康二を君付けで呼ぶ人の声を生で聴けるということに、ふたたびジーン。郡司正勝の飄々とした語り口もすばらしく、繁俊先生にお風呂に入りに来いと言われて、恐縮しながら入浴……のくだりにいいな、いいななどと、微笑しっぱなしの30分間だった。


……などと細かく書いてゆくとキリがないのだけれども、当初は戸板康二だけが目当てで聴くことになった「河竹繁俊博士追悼講演」のカセットテープは、とにかくも隅から隅まで大満喫だった。逍遥の誕生日の5月22日の近い日に毎年催されているという「逍遥祭」の催しを聴きに行く前というタイミングで接するという、偶然のような必然のようなめぐりあわせにしみじみ。「河竹繁俊博士追悼講演」全体を通して一番強く心に残ったのは坪内逍遥その人であった。そして、十五代目羽左衛門と同じ日に河竹登志夫が亡くなって、今年の5月はちょうど1年。ずいぶん遠いところまで来てしまったものだと思う。あらためて襟を正して『作者の家』に対峙しようと思った。

 

 

請求番号:CT1-351
題名:四千両小判梅葉 名優の面影
【A面 54分】四千両小判梅葉:第5幕熊谷堤(駅)唐九龍・別れの場.<朗読>河竹繁俊(1954年9月30日収録)
【B面 43分】名優の面影<出席>七世尾上梅幸、二世尾上松緑、七世中村福助、戸板康二、遠藤為春(NHK第1放送、昭和32年3月3日午後12時15分から午後1時放送)


2本目に聴いたカセットテープ。A面には、昭和29年9月30日に収録された河竹繁俊博士の黙阿弥の本読みが収録されている。先に聴いた戸板康二の講演にあった、明治25年に黙阿弥の本読みを聴いて感銘を受けた逍遥が自身の朗読法にも取り入れ、それが文藝協会へと継承されていったというくだりを思い出しながら、しずしずと耳を傾けたのだった……と言いたいところであったが、時間が押していたので早送りして、B面の「名優の面影」を大急ぎで聴いた。

 

目当ての昭和32年3月3日のお昼に放送のNHK第1放送の番組『名優の面影』は、戸板康二と遠藤為春と合わせて、七代目梅幸と二代目松録、のちの七代目芝翫が出演していて、なんとぜいたくな! よくぞ保存されていたと感涙ものだった。わたしにとっても、たぶん今まで聴いた戸板康二のもっとも古い音声資料になるかと思う。番組の内容は NHK の音のライブラリーに保存されているレコードを聴きながらおしゃべりをしましょうというもので、

  1.  勧進帳(七代目幸四郎と十五代目羽左衛門の山伏問答)
  2.  熊谷陣屋の物語(七代目中車)
  3.  昭和22年11月、戦後初の忠臣蔵の通し上演の『六段目』の舞台中継(六代目菊五郎の勘平)
  4. 河内山の舞台中継(晩年の初代吉右衛門の河内山と初代吉之丞の北村大膳)
  5. 番町皿屋敷(二代目左團次と二代目松蔦)
  6. 白浪五人男(日本駄右衛門:七代目幸四郎、弁天小僧菊之助:十五代目羽左衛門、赤星十三郎:十六代目羽左衛門、忠信利平:六代目梅幸、南郷力丸:十三代目勘弥)

以上6つの音源を、「團菊爺い」であるところの遠藤為春を交えて、梅幸、松緑、のちの芝翫による六代目菊五郎や初代吉右衛門の思い出を戸板康二を聴き手に聴けるという、一言で言うと夢のようなカセットテープであった(何度でも聴きたい……)。時間はわずかであったものの遠藤為春と戸板康二という組み合わせは、犬丸治編『歌舞伎座を彩った名優たち 遠藤為春座談』(雄山閣、2010年5月31日)の音声版という趣きで嬉しく、梅幸、松緑、芝翫それぞれのお話がそれぞれににんまり。菊吉がいなくなってまだ十年もたっていない時期の放送番組。帰宅後、この番組の放送された昭和32年3月の歌舞伎座興行は菊五郎劇団に海老蔵が参加した公演で、昼の部(11時半開演)が『一谷嫩軍記』、『島の千歳』、『弁天娘女男白浪』、夜の部(5時開演)が『天衣紛上野初花』の通しで中幕に『羽根の禿』と『鳥羽絵』という狂言立てで、2日初日、27日千秋楽、3月3日に放送の「名優の面影」で紹介された音源はこの月の演目と3つ重なっていることがわかって一興だった。

 


 


『劇評』第8巻第4号(昭和32年3月18日発行)に掲載の舞台写真。無官太夫敦盛:七代目尾上梅幸、熊谷次郎直実:二代目尾上松緑、玉織姫:七代目中村福助(のちの七代目芝翫)。陣屋では梅幸は相模。

 



夜の部は「河内山と直侍」。河内山:二代目尾上松緑、北村大膳:尾上鯉三郎。直侍は海老蔵で三千歳は梅幸。NHKの音のライブラリーではこれでもかと大芝居な吉右衛門の河内山にセリフにクーッと大興奮、吉之丞の北村大膳がまたしみじみよかった。戸板さんの本でわたしのなかではすっかりおなじみの鯉三郎の北村大膳はどんなだったのだろう!