大正12年5月、小学2年生の戸板康二、上海から帰国して、のちの七代目梅幸と同級生となる。

大正12年5月20日付け「讀賣新聞」の「よみうり婦人欄 日曜クラブ 子供のページ」に、《子供に似ぬ進んだ頭の即興詩人 戸板さんのお孫さん 数日前 上海から憧れの日本へ》なる記事が載っている。

 

 

この時期の「讀賣新聞」の婦人欄では、戸板裁縫女学校の戸板関子先生を回答者とする家事相談が「家庭日誌」というタイトルで連載されていて、その取材の折に「戸板さんのお孫さん」が紙面に登場したのであった。以下、本文を全文抜き書き。

 戸板裁縫女学校校長、戸板せき子先生の処へ記者がうかがつた時「今日は、いらつしやい」元気よくはきはきした調子で出て来て、にこにこしながらおじぎをする坊ちやんがあります、私は見なれないので、先生にうかゞふと、それは戸板先生のお孫さんで、そして先生の跡取りになつた戸板康二(九つ)さんで、三日前に支那の上海から帰つたばかりだとの事です

非常に透徹な、子供とは思はれない程の頭のいゝお子さんで上海の小学校で今年二年になつた時は一番の成績だつたさうです。雑誌なども少し大きな人の読むものでなければ、余りにやさしすぎ、非常に文学が好きで、自分で色々な話を作り又小さな時から和歌などを詠んださうで、
七歳の時にお母さんと別れる時に
  軽便にのりて別れる
  かなしさに
  母は思はず涙なりけり。
又上海から帰る時に宮嶋にて
  宮島の千畳閣を見物し
  力餅を食べるおいしさ。
それから宮嶋の社に杓子をあげてあるのをみて
  このごろは何の事かは
  知らねども猫も杓子も
  支那視察かな。

それで「康二さん貴方大きくなつたら何になるの」と聞くと「僕はねみんなが文学博士になるといゝつて云ふの、だけど未だ僕はきめてないの、もつと外に僕にいゝものがあつたら、その方になるけど僕は文学博士も好きだ」 そして又「僕は上海から日本へ帰つた方がほんとに嬉しい、日本は景色がいゝもの、それに上海だと、排日だの何だのつて騒がしくて仕方がないや」とませた事を云つたので皆驚いてしまひました。上海に居た時も、画を描いたり、お話を作つたりしてお手紙をよこし、おばあさまの戸板先生をおなぐさめしてゐましたが、もう之れからは、側にゐて毎日面白くおばあさまを楽しませてあげるでせう、戸板先生は、ほんたうに可愛やうに、楽しみな康二さんの前途を考へてにつこりしてゐられました。

まあ、利発なお坊ちゃん! とかなんとか、当時の読者にとっては戸板先生のお孫さんの惚気を読まされている格好であっただろうけれども、その後の戸板康二の活躍を知る者の目からすれば、栴檀は双葉より芳し、と申し上げるほかなかろう。


慶應理財科を経て藤倉電線に入社したばかりの山口三郎と戸板関子の長女・戸板ひさの長男として大正4年12月14日に三田四国町に生まれ、代々木山谷での郊外生活を経て、大正9年、父の赴任先の上海へと移住、大正12年5月に帰国し、一家は芝山内に居を構える。「小さな即興詩人」は当時小学校2年生、御成門の愛宕小学校に編入する。



その愛宕小学校の同級生に、六代目菊五郎を父とする尾上丑之助、のちの七代目尾上梅幸がいた。昭和54年3月日本経済新聞連載の「私の履歴書」(『私の履歴書 文化人 第14巻』日本経済新聞社・昭和59年4月3日)で、梅幸(大正4年8月31日生まれ)は、出生と同時に六代目尾上菊五郎の養子になり、養父・菊五郎(本名:寺島幸三)、養母:家寿子のもとで、寺島誠三と名づけられて菊五郎の子と同様に育てられ、出生についてはだいぶ後の青年期に知ったと記している。


尾上丑之助、「新演藝」第8巻1号(大正12年1月1日)の口絵写真。《学校から帰つたばかりの丑之助君 倉庫に這入るつてゐる自動車へフツトライトの処から乗り出した、が考へてみると、あとでめつかると、しかられらア、と靴のあとをそつとなでつける。》。当時の寺島家は東京市芝区芝公園11号7番地(現・港区芝公園2-11-7)にあり、約五百坪、建坪百坪あまりの和風造りの平屋だったという。

 


と、この写真はその菊五郎の芝のお屋敷かな、「新演藝」第6巻第10号(大正10年5月1日)の口絵に《菊五郎の息誠三の初舞台》として掲載されているグラビア記事。

菊五郎には誠三といふ可愛い独息子があります。年は今年七歳、もう舞台に出してもよいだらうと贔屓より頻りに勧められるので、五月には梅幸も一座するのでその機会を幸に市村座の五月興行に愈よ丑之助の名を継ぎ、初舞台をすることになりました。踊は藤間勘十郎、長唄は杵屋巳太郎に就いて勉強中。好きなものはシユークリームとチヨコレート、自動車の玩具は三十余台も秘蔵してゐるさうです。

戸板少年の帰国のちょうど2年前の大正10年5月、のちの七代目梅幸は二長町市村座で初舞台を踏み、四代目尾上丑之助を襲名。襲名披露狂言は『足柄山嫩育』で、丑之助の金太郎、菊五郎の山賊、梅幸が山姥。

 


「新演藝」第2巻第3号(大正6年3月1日)附録《東京演藝地図》より、六代目菊五郎邸のある芝界隈を拡大。芝園橋と金杉橋の間に架かる将監橋の近くに菊五郎のお屋敷。「新演藝」の発行元の玄文社とその親会社の伊東胡蝶園のご近所、芝山内には川尻清潭が住んでいた。菊五郎はこのお屋敷に梅幸が生まれる前月の大正4年7月に移転、市村座全盛期時代であった。梅幸は「私の履歴書」に、

初舞台のころ芝公園の幼稚園に入れられたが、現在のように洋服ではなく久留米がすりにハカマをはき、手ぬぐいをぶら下げて通ったことが記憶に残るだけである。続いて七歳の時、愛宕小学校へ入学した。一年生の担任は坂本先生でクラスは三十人ほどだったが、おぼえているのは演劇評論家の戸板康二君だけだ。戸板君は優秀でいつも一番か二番の成績だった。彼は芝園橋の方から通っていたが、放課後によく一緒に校門を出て、現在のプリンスホテルのところにあった増上寺のおたまやを流れる川で、フナやドジョウをすくって遊んだものだ。

というふうに、愛宕小学校時代のことを綴っている。一方、戸板康二は『回想の戦中戦後』(青蛙房、昭和54年6月25日)に、《最初に入ったのは、御成門にある愛宕小学校で、芝の山内(公園地)に住んでいる家の子は、この学校に行くことになっていたのだろう。同級に寺島誠三という色の白い少年がいて、それがいまの七代目尾上梅幸である。》と回想している。三十人ほどのクラスだったから、すぐに顔なじみになったのだろう。しかし、役者の子であった「色の白い少年」はたいそう忙しく、「私の履歴書」によると、

戸板君にひき比べて私の成績はいつも下から数えた方が早かった。考えてみると成績のよかろうはずがないのだ。当時の私の日課は朝七時ごろ起きて洗面、食事のあと学校へ行く。そこまでは世間並みとして、芝居のない時は二時ごろ学校を終わるとすぐさま勘十郎家へ踊りのけいこに行き、続いて巳太郎さん宅で唄と三味線、こんどは太左衛門さん宅で鳴り物を教わる。芝居のある時は市村座へ通い、家へ帰ると夜の十時過ぎになる。役の都合でちょいちょい授業を早退するという具合だから、まず宿題などできるはずがない。

だったとのこと。




戸板康二が上海から帰国したのは大正12年5月、「小さな即興詩人」として当時元気に新聞の紙面に登場していた少年は関東大震災の直前に帰国するという巡り合わせとなり、さらに、その大震災で母を亡くすという不幸に見舞われてしまう。『回想の戦中戦後』では、

 大震災の日は、二学期の始業式があって、十時ごろに帰り、家にそのころ寄寓していた従兄弟たちと遊んでいると、まだ食事をしないうちに地震になった。
 庭に飛びおりて、竹藪にはいった。そこにいた伯母が、竹藪が安全なのを知っていたのかもしれない。「どうして地震がおこるの」と、ぼくが竹につかまりながら、尋ねたそうだ。
 すさまじい火事になり、下町の焼ける火が東京の空を明るくした。オランダ大使館の隣りの水道部という施設の構内は、よくオートやバッタを捕まえに行った遊び場所だったが、その芝生の上まで行って、火を遠望した。ものすごい爆裂音が聞こえた時に、「汐留の貨車が破裂しているんだ」と、そばにいたおとなが説明した。
 山内は焼けなかったが、小学校が焼けたのを、翌日近所にいた同級の男の子から聞き、さっそく行ってみた。瓦礫になった校庭にぼんやり立っていると、担任の坂本という先生が来て、「先生の家も焼けてしまった」といった。

と、当日のことが回想されており、《一日の夜ゲートルを巻いて鎌倉まで歩いて行った父が、母の遺骨を持ち、横須賀から軍艦に乗って、芝浦に弟を連れて帰ったのは、三日ごろだった》という。勤め先の藤倉電線のあった深川から芝の自宅まで歩いて帰宅した若いお父さんはそのまま、戸板康二の母と弟の避暑先である鎌倉まで歩いて行ったのだった。臨月だった若いお母さんは当時3歳のわが子をかばって犠牲になってしまった。一方、梅幸はというと、

 大正十二年九月の市村座は父の一座で「伊勢音頭」と「一の谷」を上演する予定だった。たしか初日は五日ごろで、私は「檀特山」の遠見の敦盛、亀三郎君(現羽左衛門)が熊谷をやることになり、一日は朝から市村座の三階でけいこをしていた。ひとくさり稽古がすんで私と亀三郎君は楽屋へ帰り、しおらしく二人で折り紙を折って遊んでいたところ、突然部屋の電気が消えたと思うと、ゴーッという音がした瞬間ぐらぐらっときた。
 この時、鳴り物の先代住田長三郎さんが太鼓をかかえて二階から飛び降り、足にケガをしたり、その他多少のケガ人は出たものの、一座に一人の死者が出なかったのは不幸中の幸いだった。死者が出なかったのを見届けた父は、私をつれて自動車で芝の自宅へ向かったのだが、大分回り道をして宮城前へ出ると通行止めになっている。交通巡査に聞くと、当時摂政官だった今の天皇陛下が高輪の御殿におられて宮城にお帰りになるからだという。そこで父は警官に向かって「陛下はいつお通りになるのですか」と聞くと「わからない」という。強気の父は「わからないものを止めるのはおかしい。こんな時だからお帰りになる直前に通行止めにすべきです」とやり込め、非常線を突破して家へ到着した。
 家へ着いたのは二時ごろで、その時強烈なゆれ返しがあったが、家はしっかりしていてほとんど被害はなかった。しかし夜になると方々から火の手が上がり、家の近くまで燃え広がってきたので、祖母の里、私と生まれて間もない弟の清晃(現九朗右衛門)が、弟子の菊次や鯉三郎につれられて芝公園へ避難した。
 火の手が家へ近づくと、父はめ組の辰五郎もどきに刺し子を来てドビ口をかかえて弟子たちと消火にあたり、衣装、書き抜きの入っている大きい蔵だけを焼いて消し止めることができた。一方、母の家寿子は鎌倉の別荘にいたのだが、この日にかぎって東京へ帰り、芝露月町の金光教教会へお参りをしている時地震にあい無事だった。鎌倉の別荘はペチャンコになったので、もし鎌倉にいたらあぶなかったかもしれない。
 余談になるが、愛宕警察と憲兵隊本部が焼けたため、父は家を一時警察と憲兵隊の臨時事務所に提供して警官や兵隊が出入りしていた。この中に例の甘粕大尉がいて父と知り合ったが、その時大尉は「遠いところへ行きます」といって間もなく旧満州(現中国東北部)へ出かけ、昭和十三年父が満州へ行った時再会して旧交をあたためていたことを思い出す。

 菊五郎は男のなかの男! 甘粕大尉の登場もしみじみ味わい深いので、思わず梅幸の「私の履歴書」を長々と抜き書きしてしまったが、梅幸のお母さんと戸板康二のお母さん、鎌倉の別荘から帰っていたのと滞在中とで、それぞれの明暗を分けた次第で、まさしく「運のいいのと悪いのと」であった。



壊滅的な被害を受けた東京を目の当たりにした上に、母を亡くすという人生の大変転に幼い身の上で遭遇してしまった戸板康二は、『回想の戦中戦後』に《震災は、大きなショックで、それ以前の回想をプツンと断ち切ってあいまいなものにする、厚い壁のように、ぼくには感じられる。》と書いている。それは同年代の東京の人びとにとっての共通の認識だったはず。一方の梅幸はというと、引き続き「私の履歴書」より、

 震災では蔵を一つ焼いただけで被害は少なかったけれど、東京の劇場がほとんど焼けてしまったので役者は働くことができない。そのうえ父は市村座時代からばく大な借金と大ぜいの音羽屋一門をかかえていたので、意を決して芝の家を売って弟子たちの何カ月かの給料に当てた。そこで私たち一家は新宿の柏木に移った。
 柏木の家は省線の大久保駅から十分ほど歩いたところにあり、地名は百人町である。借家だが土地は千坪もあり、家も芝の家よりも広く、近くに松屋の古屋社長のお宅があった。そのため私は愛宕小学校から暁星小学校へ転校したところ、偶然戸板康二君もここへ転校していたのには驚いた。

震災の翌年の大正13年秋、戸板康二は芝公園から広尾(東京市外渋谷字居村)に引っ越して外濠線にのって九段の暁星小学校に通っていた一方で、梅幸は柏木に引っ越して、おなじく暁星に転校。愛宕小学校から引き続きの同級生、暁星には串田孫一がおり、のちに3人は『文藝春秋』の「同級生交歓」の紙面を飾るのだった。

 


《大正十三年頃、柏木の自宅の庭である。バツトを持つてゐるのは現九朗右衛門、キャツチは現梅幸、アンパイヤは六代目である。》、『六代目菊五郎』(改造社、昭和25年8月25日)より。

 暁星入学後、間もなく野球を始めた。これは父の影響である。父は震災後、宝塚の小林一三さんから招かれ、二年近く宝塚中劇場に出演した。私は東京にいて踊りのけいこに専念していた。父は宝塚時代、当時セミプロ級の宝塚協会の野球をみてすっかり野球熱にとりつかれたらしい。その理由はやっぱり芝居と関連する。つまり野球は芝居と同じで主役一人でできるものではなく、九人が一致協力してはじめてゲームが成立するのだから、それは人の和が大事だというわけだ。
 それと、父の説によるとボールは投げる時も受ける時も軟球だと間が悪い。それにひきかえ硬球は常間で飛んでくるといって、父はもっぱら硬球でやっていた。そして、大正十三年、市村座が復興して東京へ帰ってから自費で野球チームを組織した。それもごていねいに三つもつくった。
 まず父たち大人は「寺島チーム」で父がキャプテンになり、男女蔵(左団次)、菊次、鯉三郎、長唄の富士田音三久、先代柏伊三郎、柏扇之助さんら十数人。次は「カージナルス」といって私、亀三郎(現羽左衛門)、中村梅太郎、柏三郎(梅祐)らの若手。もう一つの「ジャイアンツ」が又五郎、坂東好太郎といっためんめんである。
 そして宝塚協会の選手の大賀さん、大貫さん、初期の巨人の選手山本さん、早大のフィギュア・スケートの選手で万能選手の柳沢さんを読んで、野球顧問兼書生のようにして柏木の家に住まわせていた。書生の中には舞踊評論家の立石隆一さんもいた。もっとあとになると小西得郎、三宅大輔、宮武三郎、山下実という大選手を招いて病こうもうとなり、カージナルスもジャイアンツもアメリカの本場のユニホームと同じみのを作っていた。
 三田の慶応グラウンドや隅田公園などを借りて、いろいろなチームと試合したが成績はまあまあといったところだった。

などと、六代目菊五郎の野球のエピソードが昔から大好きなので、またもや梅幸の「私の履歴書」を長々と抜き書きしてしまうであった。この写真における丑之助の腰の安定感は踊りの稽古のたまもの、か。