「句楽会ノート」余話:戸板康二と句集『もずのにへ』と池上浩山人

今回の「戸板康二ノート」は、『游魚』第6号(西田書店・2019年1月20日発行)に寄稿した「句楽会ノート――二長町市村座と玄文社と句集『もずのにへ』」に遅ればせながら関連して、大正期の句楽会が戸板康二によっていかにして語られていったかについての走り書的覚え書。





『游魚』第6号(西田書店・2019年1月20日)。

去年(2018年)、安達史人氏主宰『游魚』に参加されている青柳隆雄氏からお声をかけていただき、大正7年(1918)11月に世に出た句集『もずのにへ』百周年を記念して、テーマを「句楽会ノート」とした次第。不如意な点ばかりではあるけれども、ひとまずは句楽会について書くことができて、よかった。青柳さん、安達さん、ありがとうございました!


『游魚』第6号のお求めは、
https://honto.jp/netstore/pd-book_29477248.htmlhonto.jp

また、国会図書館にて閲覧可能です。
ndlonline.ndl.go.jp

ご高覧いただけますと幸甚に存じます。



「句楽会ノート」余話:戸板康二と句集『もずのにへ』と池上浩山人


句楽会の句集『もずのにへ』は長らく念願の書物だった。戸板康二の全著書のうちでもとびきりの愛読書である『演芸画報・人物誌』と『久保田万太郎』を折に触れ読み返しているうちに、句楽会とその句集『もずのにへ』にむしょうに魅せられて十数年であった。しかし、幻の本というわけではなく、『もずのにへ』そのものは神奈川近代文学館に所蔵されているので、すぐに閲覧することができる。

神奈川近代文学館では楠本憲吉文庫として所蔵されている。すなわち楠本憲吉の旧蔵書であり、雑誌の切抜きが挟み込まれたままの状態で所蔵されている。その切抜きは「5.27号 文春」とだけメモされた「古本散歩」と題する小文であり、

句楽会の同人雑誌「太平楽」の第五号別冊に「もずのにへ」という句集がある。同人は傘雨(久保田万太郎)、章魚(花柳章太郎)、水仙(河合武雄)、緑樹(喜多村緑郎)、小山内薫、吉井勇、長田幹彦らに二十数人。詩歌書にくらべて俳書には古本で高価なものは少いが、本書は明治大正期の俳書の中では高価本の一つで時価四、五千円。

がその全文。後日、これは『週刊文春』昭和38年5月27日号に掲載のものと判明、執筆者の表記はない*1。このあと詳述するが、『演芸画報・人物誌』のもととなった連載「人物・演芸画報」に、句楽会のことが初めて登場するのは『演劇界』昭和38年7月号、ここで戸板康二は句集『もずのにへ』を語る際に、

「鵙の贄」は、句楽会唯一の句集、(「太平楽」第五号別冊)もとは古書市で見かけたが、今は珍本で、時価五千円といわれる。

と書いている。「「太平楽」第五号別冊」「時価五千円」というあたり、この『週刊文春』の記事を踏襲しているのは明らかであろう(昭和45年1月に出た『演芸画報・人物誌』では「時価一万円」に修正されている)。

と、横浜の海の見える丘の上の閲覧室で初めて『もずのにへ』を目にしてから幾年月、わが書架に『もずのにへ』が収まったのは、新しい歌舞伎座がもうすぐ開場するというころ、戸板康二歿後二十年の2013年1月のことだった。購入先の扶桑書房さんが池上浩山人の旧蔵書と教えてくださった。




池上浩山人の手によるとおぼしき帙に、『太平楽』第5号と句集『もずのにへ』とそのスナップ写真が収納されている。このスナップ写真については後述する。



『太平楽』第5号は背を広く作ってあり、その間に附録の句集『もずのにへ』を挟み込むという設計となっており、粗末な藁半紙の『太平楽』と瀟洒な造本の『もずのにへ』、そのアンバランスさが微笑ましい。

句集『もずのにへ』は、句楽会の同人誌『太平楽』の第5号の附録として世に出た句集なので奥付はなく、『太平楽』第5号の奥付の「大正七年十一月二十五日」が刊行日ということになる。『もずのにへ』は『太平楽』から離れた状態で流布しているのがほとんどなので、『もずのにへ』は序跋もなければ刊記もない、一見したところでは謎の句集となっている。神奈川近代文学館の楠本憲吉文庫には、『太平楽』第1号から第4号および「第4号の続」なる号、第6・7号(合併号)、以上6冊の美本が所蔵されているが、第5号は所蔵されていない。奥付の役割を果たしている『太平楽』第5号が所蔵されていないながらも、句集『もずのにへ』は『楠本憲吉文庫目録』に「1918.11」と刊記が明記され、合わせて「同人雑誌「太平楽」5号別冊」と注記されており、『もずのにへ』が『太平楽』第5号の附録として世に出たという認識のもとに目録が編まれている。

戸板康二が「人物・演芸画報」で、初めて句楽会について言及したのは、『演劇界』昭和38年7月号掲載の第19回だった。戸板康二が句楽会について語るより前に、池上浩山人と楠本憲吉は俳句雑誌でたびたび句集『もずのにへ』について触れていた。戸板康二が『もずのにへ』について言及することができたのは、彼らの俳書探索の成果があったからこそだった。……ということを、以下、縷々書き連ねてゆくのであった。



戸板康二の『演芸画報・人物誌』の「句楽会」の項が、現在にいたるまで句楽会についてのほとんど唯一のまとまった文献となっているようである。『演芸画報・人物誌』のもとになったのは、『演劇界』の昭和37年1月号から昭和42年12月号まで全70回にわたって連載された「人物・演芸画報」であり(昭和40年6月号と昭和42年5月号の2回は編集側の都合による休載)、句楽会について言及のある『久保田万太郎』は、『文学界』昭和41年2月号から翌年4月号まで15回連載したものを単行本化したものである。つまり、これら二つの仕事は同時期になされたのだった。

『演劇界』昭和42年12月号をもって、足かけ6年全70回の長期にわたった「人物・演芸画報」の連載が終わり、昭和45年1月に青蛙房より『演芸画報・人物誌』として刊行されたのだったが、初出と単行本では全体の印象は少しばかり異なるものとなっている。『演芸画報・人物誌』は目次を見ると一目瞭然、項目ごとに記述がなされる辞典的なつくりとなっているが、そのもとになった「人物・演芸画報」全70回では当初は項目が設けられておらず、戸板康二お得意の「螺旋階段方式」で話題が流れていくという方式がとられており、連載が後半に入った昭和40年1月号の第37回より、その回で取り上げられる人物名が表記されるようになった。著者側の都合による休載は一度もなく、毎月几帳面に『演劇界』見開き1ページに連載された。単行本化する際には、そのほとんどは人物名、たまに「句楽会」「お社」等の事項で内容を区切り、辞典のような体裁がとられ、そのための加筆や修正も少なくない。『演劇界』誌上の「人物・演芸画報」では、見開き1ページの文章と合わせて、図版(その多くは語られている人物の顔写真)が毎回掲載されているが、単行本ではすべて省かれている。


『演劇界』誌上の「人物・演芸画報」と青蛙房版『演芸画報・人物誌』の対照表を作成すると、以下のようになる。

回数 号数 主な話題 図版 青蛙房版での該当箇所
01 昭37/1月 まえがき 『演芸画報』創刊号の表紙 まえがき(p.7-19)
02 昭37/2月 まえがき 安部豊の顔写真(昭和29年10月撮影) まえがき(p.7-19)
03 昭37/3月 まえがき 渥美清太郎の顔写真(昭和33年4月撮影) まえがき(p.7-19)
04 昭37/4月 まえがき 『演芸画報』第2巻(明治41年)の表紙 まえがき(p.7-19)
05 昭37/5月 川尻清潭 川尻清潭の顔写真 川尻清潭(p20-27)
06 昭37/6月 三島霜川 三島霜川の顔写真 三島霜川(p28-31)
07 昭37/7月 俳優論の記事・岡田八千代・灰野庄平 岡田八千代の顔写真 岡田八千代(p144-148)・灰野庄平(p157-159)
08 昭37/8月 雅号の劇評家・幸堂得知・饗庭篁村 饗庭篁村の顔写真 幸堂得知(p32-36)・饗庭篁村(p36-38)
09 昭37/9月 新聞社に籍をおいた劇評家・右田寅彦・杉贋阿弥 斎藤実盛に扮する杉贋阿弥の写真 右田寅彦(p45-48)・杉贋阿弥(p49-53)
10 昭37/10月 杉贋阿弥の続き・岡鬼太郎 岡鬼太郎の顔写真 杉贋阿弥(p49-53)・岡鬼太郎(p53-58)
11 昭37/11月 岡鬼太郎の続き・松居松葉 松居松翁(松葉)の顔写真 岡鬼太郎(p53-58)・松居松葉(p58-63)
12 昭37/12月 藤沢清造と稽古歌舞伎会 藤沢清造の顔写真 藤沢清造(p70-78)
13 昭38/1月 藤沢清造と稽古歌舞伎会の続き・鈴木春浦 藤沢清造著『根津権現裏』の書影 藤沢清造(p70-78)・鈴木春浦(p78-83)
14 昭38/2月 鈴木春浦の続き 鈴木春浦の顔写真(「明治42年冬、浅草にて」) 鈴木春浦(p78-83)
15 昭38/3月 『無線電話』と田村成義 田村成義著『無線電話』の書影 田村成義・寿二郎(p83-95)
16 昭38/4月 田村成義の続き 田村成義の顔写真 田村成義・寿二郎(p83-95)
17 昭38/5月 関根黙庵 関根黙庵の顔写真(新潮社版『日本文学大辞典』より) 関根黙庵(p168-174)
18 昭38/6月 関根黙庵の続き・鶯亭金升・三木重太郎・田村寿二郎 田村寿二郎の顔写真 関根黙庵(p168-174)・鶯亭金升(176-178)・三木重太郎(175-176)・田村成義・寿二郎(p83-95)
19 昭38/7月 句楽会・岡村柿紅 句楽会の引札(『新演芸』大正6年11月号「編輯日誌」から転載) 句楽会(p97-107)・岡村柿紅(p95-97)
20 昭38/8月 句楽会の続き 『新演芸』大正5年3月創刊号の表紙(徳永柳洲画《九代目団十郎の弁慶》) 句楽会(p97-107)・川尻清潭(p20-27)
21 昭38/9月 句楽会の続き・遊食会・素劇 第二次句楽会の句集『大入札』(俳句研究社、昭和33年9月刊)の書影 句楽会(p97-107)・遊食会(p178-180)・素劇(p180-197)
22 昭38/10月 素劇の続き 田村西男の顔写真 素劇(p180-197)
23 昭38/11月 素劇の続き 坂本猿冠者の顔写真(昭和33年1月) 素劇(p180-197)
24 昭38/12月 筆名の考証・兼子伴雨・食満南北・井手蕉雨 井手蕉雨の顔写真 兼子伴雨(p209-212)・食満南北(p357-359)・井手蕉雨(p212-214)
25 昭39/1月 お社・三宅周太郎 三宅周太郎の顔写真 お社(p161-164)・三宅周太郎(p152-155)
26 昭39/2月 邦枝完二・本山荻舟 本山荻舟の顔写真 邦枝完二(p165-168)・本山荻舟(155-157)
27 昭39/3月 伊原青々園・中村吉蔵 伊原青々園の顔写真 伊原青々園(p64-68)・中村吉蔵(p68-70)
28 昭39/4月 池田大伍・楠山正雄 池田大伍の顔写真 池田大伍(p139-142)・楠山正雄(p142-144)
29 昭39/5月 伊坂梅雪・山岸荷葉 山岸荷葉著『ふところ鏡』の書影 伊坂梅雪(p248-252)・山岸荷葉(p252-255)
30 昭39/6月 井口政治・丸山耕 井口政治の顔写真 井口政治(p255-258)・丸山耕(p258-260)
31 昭39/7月 石割松太郎 石割松太郎の顔写真 石割松太郎(p260-265)
32 昭39/8月 森ほのほ 森ほのほの顔写真 森ほのほ(p360-366)
33 昭39/9月 高谷伸・鈴木鼓村・高原慶三 高谷伸の顔写真 高谷伸(p366-369)・鈴木鼓村(p292-295)・高原慶三(p371-373)
34 昭39/10月 福地信世 福地信世の顔写真 福地信世(p272-277)
35 昭39/11月 小谷青楓 小谷青楓の顔写真 小谷青楓(p278-283)
36 昭39/12月 野村無名庵 野村無名庵の顔写真 野村無名庵(p266-272)
37 昭40/1月 町田佳声・浜村米蔵・山本修二 3名の顔写真 町田佳声(p296-298)・浜村米蔵(p132-134)・山本修二(p369-371)
38 昭40/2月 河竹繁俊・小宮豊隆 両名の顔写真 河竹繁俊(p234-237)・小宮豊隆(p240-243)
39 昭40/3月 遠藤為春・三宅三郎 両名の顔写真 遠藤為春(p203-208)・三宅三郎(p246-248)
40 昭40/4月 山藤富次郎・平山蘆江 平山蘆江の顔写真 山藤富次郎(p284-287)・平山蘆江(p304-307)
41 昭40/5月 明治期の画報について・佐々醒雪・鈴木鼓村 鈴木鼓村の顔写真 佐々醒雪(p290-292)・鈴木鼓村(p292-295)
42 昭40/7月 伊藤晴雨・青柳有美・坂本紅蓮洞 青柳有美の横顔写真 伊藤晴雨(p307-310)・青柳有美(p310-311)・坂本紅蓮洞(p311-313)
43 昭40/8月 渡辺霞亭・高安月郊・瀬戸英一 高安月郊の顔写真 渡辺霞亭(p355-357)・高安月郊(p160-161)・瀬戸英一(p348-351)
44 昭40/9月 小寺融吉・久保田米斎・久保田金僊 小寺融吉と久保田米斎の顔写真 小寺融吉(p237-240)・久保田米斎・金僊(p125-129)
45 昭40/10月 條野採菊・鏑木清方 2名の顔写真 鏑木清方(p391-396)
46 昭40/11月 小村雪岱 小村雪岱の顔写真 小村雪岱(p397-402)
47 昭40/12月 四世鳥居清忠 四世鳥居清忠の顔写真 四世・五世鳥居清忠(p380-391)
48 昭41/1月 四世・五世鳥居清忠 名和長年に扮する四世鳥居清忠、五世鳥居清忠の顔写真 四世・五世鳥居清忠(p380-391)
49 昭41/2月 木村錦花・木村富子 両名の顔写真 木村錦花・富子(p328-334)
50 昭41/3月 長谷川時雨 長谷川時雨の顔写真 長谷川時雨(p319-325)
51 昭41/4月 三田村鳶魚 『江戸読本』創刊号の書影 三田村鳶魚(p39-45)
52 昭41/5月 松田青風 松田青風の顔写真 松田青風(p403-408)
53 昭41/6月 名取春仙 名取春仙の顔写真 名取春仙(p408-413)
54 昭41/7月 真山青果 真山青果の顔写真 真山青果(p339-345)
55 昭41/8月 岡本綺堂 岡本綺堂の顔写真 岡本綺堂(p113-119)
56 昭41/9月 坪内逍遥 坪内逍遥の顔写真 坪内逍遥(p214-220)
57 昭41/10月 小山内薫 小山内薫の顔写真 小山内薫(p119-125)
58 昭41/11月 久保田万太郎・吉井勇 両名の顔写真 久保田万太郎(p148-151)・吉井勇(p108-110)
59 昭41/12月 秋田雨雀 秋田雨雀の顔写真 秋田雨雀(p229-234)
60 昭42/1月 徳田秋声・田村俊子 両名の顔写真 徳田秋声(p375-377)・田村俊子(p336-339)
61 昭42/2月 永井荷風 永井荷風の顔写真 永井荷風(p134-139)
62 昭42/3月 土肥春曙・水谷竹紫 両名の顔写真 土肥春曙(p220-223)・水谷竹紫(p223-226)
63 昭42/4月 正岡容・岸田劉生 両名の顔写真 正岡容(p316-319)・岸田劉生(p377-380)
64 昭42/6月 大村嘉代子・岡田八千代 大村嘉代子の顔写真 大村嘉代子(p325-328)・岡田八千代(p144-148)
65 昭42/7月 田島淳・弘津千代 両名の顔写真 田島淳(p352-355)・弘津千代(p334-336)
66 昭42/8月 田島断・岡栄一郎 両名の顔写真 田島断(p313-316)・岡栄一郎(p129-132)
67 昭42/9月 中内蝶二・半井桃水 両名の顔写真 中内蝶二(p298-300)・半井桃水(p301-304)
68 昭42/10月 森暁江・足立朗々 両名の顔写真 森暁江(p198-200)・足立朗々(p200-204)
69 昭42/11月 安部豊 安部豊の顔写真(第2回と別の若いときの写真) 安部豊(p418-424)
70 昭42/12月 渥美清太郎 渥美清太郎の顔写真(第3回と別の若いときの写真) 渥美清太郎(p424-429)


昭和42年12月号をもって連載を終えて、満2年の改稿および編集作業を経て、昭和45年1月に青蛙房から『演芸画報・人物誌』(昭和45年1月25日発行)が刊行された。その目次は以下のとおり。

000 まえがき p7-19
001 川尻清潭 p20-27
002 三島霜川 p28-31
003 幸堂得知 p32-36
004 饗庭篁村 p36-38
005 三田村鳶魚 p39-45
006 右田寅彦 p45-48
007 杉贋阿弥 p49-53
008 岡鬼太郎 p53-58
009 松居松葉 p58-63
010 伊原青々園 p64-68
011 中村吉蔵 p68-70
012 藤沢清造 p70-78
013 鈴木春浦 p78-83
014 田村成義・寿二郎 p83-95
015 岡村柿紅 p95-97
016 句楽会 p97-107
017 吉井勇 p108-110
018 芝居合評会 p111-113
019 岡本綺堂 p113-119
020 小山内薫 p119-125
021 久保田米斎・金僊 p125-129
022 岡栄一郎 p129-132
023 浜村米蔵 p132-134
024 永井荷風 p134-139
025 池田大伍 p139-142
026 楠山正雄 p142-144
027 岡田八千代 p144-148
028 久保田万太郎 p148-151
029 三宅周太郎 p152-155
030 本山荻舟 p155-157
031 灰野庄平 p157-160
032 高安月郊 p160-161
033 お社 p161-164
034 邦枝完二 p165-168
035 関根黙庵 p168-174
036 三木重太郎 p175-176
037 鶯亭金升 p176-178
038 遊食会 p178-180
039 素劇 p180-197
040 森暁紅 p198-200
041 足立朗々 p200-204
042 遠藤為春 p204-208
043 兼子伴雨 p209-212
044 井手蕉雨 p212-214
045 坪内逍遥 p214-220
046 土肥春曙 p220-223
047 水谷竹紫 p223-226
048 川村花菱 p227-229
049 秋田雨雀 p229-234
050 河竹繁俊 p234-237
051 小寺融吉 p237-240
052 小宮豊隆 p240-243
053 水木京太 p244-245
054 三宅三郎 p246-248
055 伊坂梅雪 p248-252
056 山岸荷葉 p252-255
057 井口政治 p255-258
058 丸山耕 p258-260
059 石割松太郎 p260-265
060 野村無名庵 p266-272
061 福地信世 p272-277
062 小谷青楓 p278-284
063 山藤富次郎 p284-287
064 水谷幻花 p287-290
065 佐々醒雪 p290-292
066 鈴木鼓村 p292-295
067 町田佳声 p296-298
068 中内蝶二 p298-300
069 半井桃水 p301-304
070 平山蘆江 p304-307
071 伊藤静雨 p307-310
072 青柳有美 p310-311
073 坂本紅蓮洞 p311-313
074 田島断 p313-316
075 正岡容 p316-319
076 長谷川時雨 p319-325
077 大村嘉代子 p325-328
078 木村錦花・富子 p328-334
079 弘津千代 p334-336
080 田村俊子 p336-339
081 真山青果 p339-345
082 額田六福 p345-348
083 瀬戸英一 p348-351
084 田島淳 p351-355
085 渡辺霞亭 p355-357
086 食満南北 p357-359
087 森ほのほ p360-366
088 高谷伸 p366-369
089 山本修二 p369-371
090 高原慶三 p371-373
091 山口広一 p373-374
092 徳田秋声 p375-377
093 岸田劉生 p377-380
094 四世・五世鳥居清忠 p380-391
095 鏑木清方 p391-396
096 小村雪岱 p397-402
097 松田青風 p403-408
098 名取春仙 p408-413
099 堀川寛一 p413-414
100 小菅一夫 p414-415
101 利倉幸一 p416-418
102 安部豊 p418-424
103 渥美清太郎 p424-429
000 後記 p430-431


『演芸画報・人物誌』の反応がひととおり出揃ったであろう頃、戸板康二は、『劇と評論』第15巻1号(昭和45年5月1日)に「「人物・演芸画報」拾遺」を寄稿している。戸板康二が「人物・演芸画報」の執筆を思いついたのは、

ある機会にふと、ぼくが演劇ジャーナリズムにはいるまでは、「演芸画報」をあんなに読んでいるくせに、執筆者の顔をほとんど知らなかったことに気づいたからである。

という。昭和7年に慶應義塾文科に入学し歌舞伎研究会に入ったことで、松居松翁、岡本綺堂、岡鬼太郎、池田大伍、石割松太郎、小谷青楓、伊坂梅雪、三宅周太郎、渥美清太郎らの謦咳に接し、『三田文學』の劇評家として水木京太や久保田万太郎に出会い、「三田劇談会」で三宅周太郎とも定期的に顔を合わせるようになり、昭和19年に日本演劇社に入社後は、『演芸画報』の編集者である渥美清太郎と安部豊の同僚となって、多くの寄稿者と接触する機会をもった。しかし、『演芸画報』の目次に登場する名前を概観してみると、顔を知っているのは十分の一に満たないことに気づいた。そして、いよいよ「人物・演芸画報」に着手することになったのは、鴎外の『渋江抽斎』がきっかけだったという。

ある時、久しぶりに森鴎外の「渋江抽斎」を読んだ。鴎外はこれを書いている時点で、この史伝の主人公について、ある部分は全く知らず、たとえば刑事が足で歩くような操作をしながら、抽斎の周辺の事実を発掘しようと試み、探索の経緯を一流の名文で述べている。

そして、昭和37年1月から『演劇界』で連載を始めるにあたって、『日本文学大辞典』や『演劇百科大事典』に載っている人物は後まわしにして、《掲載の順序は別として、毎月一人は二人について十枚宛書いてゆくのと並行して、別の一人一人をあたってゆく》というふうにして、昭和42年12月までの7年間にわたって、勤勉に書き続けられた。

そして、連載終了後も取材と執筆は続けられて、昭和45年1月に『演芸画報・人物誌』が刊行された次第だった。「人物・演芸画報」で取り上げられず、『演芸画報・人物誌』刊行にあたって書き下ろされた人物としてまずあげられるのは、画報後期の若い書き手たち、山口広一、堀川寛一、小菅一夫、利倉幸一の4名。意外なところでは、水谷幻花と水木京太が連載ではとりあげられていなかった。また、川村花菱、額田六福も単行本の際に書き下ろされた項目だった。『新演芸』の「芝居合評会」は、連載時は永井荷風の項で触れられていたが、単行本化にあたって、別項が設けられた。また、『演劇界』で取り上げられていた人びとについても加筆修正された箇所が少なくない*2。新たな取材をもとに書かれた箇所もある。

続いて、『演劇界』昭和45年6月号に「「人物・演芸画報」追記」を寄稿、

本誌の記事、あるいは単行本で読んで下さった読者のために、この際ぼくが新しく知った事実と、若干の補正を活字にしたらと、利倉氏が声をかけられた。貴重な頁を、こういう文章のために割かれる寛容に深謝したい。

とある。「人物・演芸画報」の連載が7年間も続いたのはなんといっても利倉幸一の働きによるところが大きく、また『演芸画報・人物誌』として一冊の本として世に出たのは、青蛙房主人・岡本経一の英断による。矢野誠一さんは、『演劇界』2011年7月号の「家で楽しむ歌舞伎 私のこの一冊」に本書を挙げ、《発行者の青蛙房主人・岡本経一は、生前「こんなに売るのに苦労させられた本はない」と語っていたが、これも名著のもつひとつの宿命だろう。》と書き添えている。


さて、ここで注目したいのが、『演劇界』の連載「人物・演芸画報」において、句楽会が取り上げられた時期である。連載第15回の昭和38年3月号で田村成義のことが語られて、ここから螺旋階段方式で田村の側近、関根黙庵から二長町市村座、三木重太郎の話題を経たところで、連載第19回の昭和38年7月号で句楽会が登場する。


『演劇界』昭和38年7月号の「人物・演芸画報」第19回のページ。

『演劇界』昭和38年7月号は、6月12日に他界した二代目市川猿之助こと初代猿翁の追悼記事の載る号であった。5月6日に急逝した久保田万太郎の追悼記事も前月号の6月号に引き続き掲載、戸板康二は「久保田万太郎の戯曲」を寄稿している。すなわち、戸板康二が「人物・演芸画報」において、二長町市村座からの流れで句楽会について語っていたのは、久保田万太郎が俄かに逝った直後のこと、順次、各誌に追悼記事が掲載されていた時期にあたっていた。

そして、句楽会の話題は、8月号、9月号と3号にわたって続いたが、9月号は冒頭に補遺的に触れられているだけなので、実質的には昭和38年7月号と8月号の2号にわたって続いたということになる。9月号の補遺的に触れている箇所、「人物・演芸画報」第21回の冒頭は、

 七月に入って利倉さんから「日本古書通信」の六月号(復刊二三〇号)を贈られた。久保田万太郎著書目録がのっている。その余白に「もずのにへ」の紹介があり、句楽会同人の連名も出ている。
 それで七月号の記事を補うと、吉井勇とかながしらは金頭という字で書いたらしい。それから中村秋湖の本名は伊之吉、柳沢五遊の本名は吉左衛門であることがわかった。また、ぼくの挙げなかった同人が三人いる。
 金子閉器(本名東一)この人のことは今のところ不明。新派の福島清が[ライ]山という号をもって句会に出ていたようだ。(福島清は本名大沢雅弁、芸名は五代目菊五郎の寺島清にあやかったもの)ほかに長田幹彦が白弦。

というふうになっていて、このくだりは『演芸画報・人物誌』の際には改稿されて冒頭の同人連名の部分に盛り込まれている。ちなみに、「今のところ不明」とされている金子東一は下谷竹町に事務所を構える弁護士であり、『新演芸』大正6年10月号にその広告が載っている。何度か寄稿もしている。



『日本古書通信』第230号(昭和38年6月15日)。5月6日に急逝した久保田万太郎の追悼として「久保田万太郎著書目録」が見開きで載り、その余白に『もずのにへ』の紹介記事がある。執筆者名は池上浩山人と明記されているが、戸板康二は「人物・演芸画報」で浩山人の名を出していない。前述の、浩山人の手によるとおぼしき帙に『太平楽』第5号および句集『もずのにへ』とともに収められていたスナップ写真は、この記事で使用されたものである。しかし、後述するが、このスナップ写真はこの号が初掲載ではなく、再掲である。

利倉幸一は、戸板康二の「人物・演芸画報」で句楽会の記事を興味深く読んでいたばかりの6月中旬、『日本古書通信』にて『もずのにへ』の紹介記事と出会って、さぞ胸を躍らせたことだろう。さっそく戸板康二に知らせたようだ。『演劇界』7月号の「人物・演芸画報」第19回では、『もずのにへ』については、

「鵙の贄」は、句楽会唯一の句集、(「太平楽」第五号別冊)もとは古書市で見かけたが、今は珍本で、時価五千円といわれる。

とだけ紹介されていたに過ぎなかった。前述のとおり、『週刊文春』同年5月27日号の「古本散歩」を参考としたとおぼしき記述である。そして、この『週刊文春』の元記事も、池上浩山人によるものではないかと推測できるのである。久保田万太郎の追悼ついでに、次月に出る『日本古書通信』に『もずのにへ』について書いた浩山人は、『週刊文春』の「古本散歩」でいわばネタの使いまわしをしたのではなかろうか。「古本散歩」を一ヶ月分ちらりと見ただけで、『古通』的なムードを漠然と感じたのだったが、それもむべなるかなと思うのだった。

要するに、昭和38年の時点で、戸板康二が句集『もずのにへ』について言及することができたのは、池上浩山人の手元に『太平楽』第5号とその附録の『もずのにへ』があったからにほかならない。



池上浩山人は俳句、俳書および古書蒐集の分野では知る人ぞ知る存在である。書物随筆の書き手としては、森銑三、柴田宵曲、三村竹清らの交友圏におり、昭和9年1月創刊の『日本古書通信』に2年目から寄稿している常連執筆者でもあった。現在もっとも手に取りやすいところでは、加藤郁乎の遺著『俳人荷風』(岩波現代文庫、2012年7月18日)巻末の「人名解説」(中村良衛氏執筆)に名前が載っている。

池上浩山人(一九〇八ー八五)千葉生。本名幸二郎。俳人。旧姓は田中で、儒学を家学とした。父田中蛇湖から俳句の手ほどきを受ける。「ホトトギス」「馬酔木」などに句を発表、また俳誌「ももすもも」を発刊した。徳富蘇峰の秘書兼家僕を経て池上不二子と結婚、岳父梅吉に古書画修復を学んだ。宮内庁や東京国立博物館などに勤務、古典籍に造詣が深く、書物や巻物などの文化財修復に携わる技術者でもあった。著書に『夢の如しの記』、句集に『雁門集』など。

荷風との関連では、『断腸亭日乗』の昭和18年4月24日に下谷うさぎや主人(谷口喜作)と偏奇館に同道する「和書製本師」として登場する。

池上浩山人は、荷風との交流について『荷風全集』第24巻(岩波書店、昭和39年9月12日)の「月報22」に「偏奇館回想」と題した一文を残している。浩山人によると、当時の偏奇館の洋風の居間は「環堵蕭然と云ふ語が一番適切だつた」という。その居間で、浩山人は荷風に製本の仕方を伝授した。

……私は一々先生に製本の仕方を教へて上げた。表紙の付け方、中とぢの必要な事、穴の寸法、表題の寸法と位置、糸は何処から始つて、何処で、どの様に止めるかとの急所を何度も手を取つて教へて上げた。先生は「そうですか/\」と素直に私の云ふ事を聞いて居た。
 「三村竹清、林若樹、幸田成友の三氏は、私が教へて上げたし、一ト通りの道具も揃へてあげたのです」
 と申し上げると、先生は、明日来る時に、最低素人に必要な道具が欲しいと云はれた。この日私が伺った用件は、先生の日記が何冊かになつたので、それを偏奇館で製本をする事を私に依頼する為であつた。
(中略)
私はそれから四日ばかり偏奇館に通つて、日誌の製本を済し、帙だけは寸法を取つて宅で作つて先生に納め、外に白紙の日記四五冊位作つて差上げた。先生は終始私の仕事を見乍ら、曝書などをされてゐた。その間、幕末明治の漢学者、詩人の話をされたので、私も知つて居る事を何かと申上げた。

太平洋戦争のまっ最中の、昭和18年4月下旬の晩春のひととき、浩山人は偏奇館に通ったのだった。そして、翌5月10日に荷風は、突如神田小川町の池上邸を訪れた。

五月十日。午後神田錦町五十稲荷のほとりに家する池上氏を訪ひ過日たのみ置きたる断腸亭日乗の帙を受取り浅草に行く。

というふうに『日乗』に記録されているが、浩山人はこの日のことを、

先生は製本の事で忘れたことがあると云はれて立寄られ、再び製本術を伝授した。先生は家内を対手に、昔の神田の話をされて居た。東明館は何処、南明館は何処、錦輝館は何処と昔話が尽きなかつた。此処に錦町とあるのは小川町の誤記である。

というふうに回想している。敗戦を経て、市川に腰を据えていた昭和21年9月22日、荷風は長崎町に仮寓していた浩山人から届いた小包のなかに入っていた古書として、「枕山絶句鈔」「春濤詩鈔」「服部愿卿詩集」「鐘情集」の書名を『日乗』に書き留めている*3。続いて、同年11月10日、仮寓先から神田小川町の旧宅に戻っていた浩山人から荷風のもとに「南畝帖」が届いた。翌年22年6月10日には岩渓裳川の詩集一帙、23年8月7日には「穀堂集零本」が浩山人から届いた。昭和18年4月24日の偏奇館での初対面のあとも、敗戦をはさんで、しばし続いた書物を介した二人の淡い交わりのありように胸を打たれる。



「断腸亭日乗」、図録『永井荷風と東京』(江戸東京博物館、1999年7月26日)より。同展覧会において、《「断腸亭日乗」の浄書、製本について荷風は、鉛筆で手帳に書き記したものを、やがて継続的に日々の記録を執筆しようと考え、罫[し]本に浄書として一巻としたと述べている。昭和18年4月に日記が26、7冊となると、これを収める帙の仕立てを神田小川町の和本製本師・池上幸二郎に依頼した。》と解説されている。

池上浩山人は荷風が訪れた神田小川町の「五十稲荷のほとり」の地に終生居を構えていたようである。東京国立博物館に装こう師として勤務し文化財補修の仕事に携わる傍ら、俳誌を主宰し、古書と俳句とともに生きた。池上邸の建物は3年前まで残っていたが、2016年4月に完全に取り壊され、今はこの地にはオフィスビルが建っている。この区画の東南の角に位置する五十稲荷はビル建設工事中の頃から「立替予定」の看板が掲げられつつも、今現在も古色蒼然とした佇まいを残している。



神田小川町の五十稲荷神社(2019年4月撮影)。ビルの谷間の薄暗い稲荷神社、たまに前を通りかかるたびに、いつもなんとはなしに、荷風と浩山人の書物を介した交わりに思いを馳せている。梅雨の季節になると、紫陽花が咲いて、格別の風情となる。

池上浩山人は明治大正の俳書蒐集家であった。そのコレクションの一部は「明治俳書文庫」として昭和51年5月5日に日本近代文学館に寄贈され、『日本近代文学館所蔵資料目録8 池上浩山人収集明治俳書文庫目録』(日本近代文学館、昭和57年12月3日)が編まれた。小田切進理事長の前書きには、

東京国立博物館に池上国宝修理室をもち、これまで長くわが国の文化財保護に大きな功績をのこされてきた池上氏は、上総東金の郊外・丘山村から上京した直後の青年時代いらい徳富蘇峰はじめ、幸田成友、和田万吉、三田村鳶魚、永井荷風、森銑三氏らの知遇を得て書誌学に通じ、「山崎闇斎全集」「佐藤直方全集」「崎門学脈系譜」などの編纂にたずさわれたほか、「雁門集」「夢の如しの記」の著をもつ俳人・エッセイストとしても広く知られている。

とある。『太平楽』第5号および句集『もずのにへ』はこのときに寄贈されることはなく、めぐりめぐって、現在はわたくしの手元にあるという次第である。

池上浩山人は俳書蒐集家として多くの文章を雑誌に寄稿している。そんななか、『俳句研究』(目黒書店)の昭和29年2月号から12月号まで(7月号は休載)全10回連載の「明治大正俳書解題」が目を引くのであったが、このとき同時に『俳句』(角川書店)に昭和29年1月号より3月号まで「忘れられぬ句集」を連載、そして、同年9月号に「句集蒐集餘譚(上)」、同年12月号「句集蒐集餘譚(下)」を寄稿している。

池上浩山人が、『もずのにへ』についておそらく最初に綴ったのは、『俳句研究』昭和29年11月号「明治大正俳書解題(九)」と思われる。次月、「明治大正俳書解題」の最終回の同月、『俳句』昭和29年12月号に寄せた「句集蒐集餘譚(下)」でも『もずのにへ』について書いている。浩山人にとって、この時点では『もずのにへ』は、明治大正俳書蒐集のなかの「不思議なる句集」という位置づけであった。昭和29年11月と12月に立て続けに発表した『もずのにへ』についての一文は、ほぼ同内容。ここでは、『俳句』昭和29年12月号「句集蒐集餘譚(下)」を全文抜き書きする。

四 不思議なる句集「もずのにへ」
 今私の机上に不思議なる句集が置いてある。表紙には「もずのにへ」と黒い表紙に赤く印刷されてあり、扉には「鵙の贄」とあり、その下に緑樹、傘雨編と印刷されてゐる。傘雨とは申すまでもなく久保田万太郎氏のことであり、緑樹とは喜多村緑郎のことであらう。これだけでは別に不思議な事ではないが、本書には序もなければ跋もなく、且つ肝心な奥付が附されてゐない。故に此の書が何時如何なる理由で、如何なる書肆に依つて出版されたか全く不明である。たゞ想像出来ることはこの書の用紙、印刷、装幀様式に依つて明らかに震災前に刊行された事だけは知ることが出来る。然しその年月日が明らかでは無い為に「明治大正俳書解題」とか「年表」とかに加へることも出来ぬ。
 又この書の不思議なることは本書に登載されてゐる人が殆んど俳人でなくして、俳優、歌人、文人のみであることだ。四六判で僅か百五十頁の本乍ら、高級の紙を使用し、全部三号活字、二度刷りの、所謂豪華版である。
 今書中から自分の知り得る程度の作家と作品のみを抽出すれば、
  春寒や河豚死になるいとをしみ 甲羽
  春寒の道の廣さや新佃 薫
  春寒のとまれかくまれ乗る車 緑樹
  ゆきづりの戀も浪華の朧かな 勇
  うみ岸の家とり/″\に朧かな 幹彦
  門前のおぼろの橋を名けゝり 傘雨
  釣舟の東風ふく海を流しけり 清潭
  男女蔵も大入姿よ風かほる 章魚
などがある。甲羽は俳優伊三郎、薫は小山内氏、緑樹は喜多村緑郎、勇は吉井氏、幹彦は長田氏、傘雨は久保田万太郎氏、清潭は川尻氏、章魚は花柳章太郎、これだけは私にも判るがこれ以外の作家は私には一人も判らない。試みにその判らない作家の名を挙げて見れば、
 柿紅、普白、車前草、五遊、浪雄、餅阿弥、[ライ]山、秋湖、快堂、臺水、西男、浦子
の十二人である。梨園の事に詳しい人が居れば、たちどころに判明するのであらうが、今の私にはたゞ不思議な句集として頭に残る以外、何物をも語る資格がない。俳書を読んでゐると、案外に後世の好事家を悩ますことが多いのである。本書の如きもまさにその一つであらう。

このとき、浩山人の手元にあったのは、句集『もずのにへ』の本体のみだった。

この3年後、浩山人は『太平楽』第5号とセットで、すなわち「完本」として『もずのにへ』を入手したのだった。『日本古書通信』第167号(昭和33年3月15日)に、池上幸二郎の本名で「最近入手した二冊の俳書」にて、その興奮を綴っている。

この頃私は、神田の古書展で、長らく探し索めてゐた明治大正期の刊行の俳書を、二冊も買ふことが出来た。一は年末の会で、その一は新年早々の会で。

『もずのにへ』完本を入手したのは、昭和33年の「新年早々の会」においてであった。



『日本古書通信』第167号(昭和33年3月15日)。以下、『もずのにへ』に関する部分を全文抜き書きする。

 新年匆々に入手した「もずのにへ」は、前から毎々見ることが出来たが、これが「太平楽」の附録と云ふことを知り乍らも「太平楽」そのものを見ることが出来なかつたから、刊行年月が全く不明であつたが、今度入手した本書は「太平楽」と一緒にあつたので、大正七年十一月二十八日、下谷区二長町五一番地太平楽社刊行定価二〇銭と云ふことが判り、「もずのにへ」だけ入用のものは一部一円五〇銭と云ふ振つた傘雨氏の編輯後記も知ることを得た。
 本書は句楽会連中の句集で、喜多村緑郎、久保田万太郎傘雨の共編で小山内薫[、]長田幹彦、吉井勇、花柳章太郎、河合武雄、尾上伊三郎、岡村久寿治、落合昌太郎、田村西男[、]結城礼一郎外計二十四人の句集であると云ふことに稀本価値を認めねばならない。この「太平楽」は五号で、百六〇頁上質、百斤、天金の「もずのにへ」を附録とする為に、厚みに余裕を持たせて挟む様になつてゐるのが如何にも面白い。「太平楽」そのものはザラ紙に刷つた四六判三十二頁位の雑誌で、頗る呑気なもので年一、二冊位刊行の雑誌。会員の匿名記事が多く、何れも一世を愚弄した文章だが、その中の壁悟道氏の「第一印象論」は、梧碧桐[ママ]の新傾向俳句をからかつたもので、恐らく万太郎氏の筆であらう。これは何号まで続いたものか。吉井勇氏の「京都・大阪・東京」[ママ]に、この句楽会の事や「もずのにへ」のことが書いてあるが、その事にはまるで触れていない。誰か「太平楽」の全揃を持つてゐる人はないか、然し之は望蜀と云ふものであらう。

久保田万太郎急逝の翌月の『日本古書通信』第230号(昭和38年6月15日)に載った『もずのにへ』紹介記事に掲載されていたスナップ写真は、第167号(昭和33年3月15日)に載った「最近入手した二冊の俳書」の際に撮影されたものであった。


と、池上浩山人は『日本古書通信』に「最近入手した二つの俳書」として、意気揚々と『もずのにへ』を紹介したのだったが、この前月、昭和33年2月19日付「毎日新聞」朝刊の読書欄に「「太平楽」別冊の「もずのにへ」」という記事が出ている。無署名だが、書き手は明らかに浩山人であろう。昭和38年5月の久保田万太郎急逝後のときの『週刊文春』同様に、ネタの使い回しをしていたと思われる。



昭和33年2月19日付「毎日新聞」より「「太平楽」別冊の「もずのにへ」」。

そして、池上浩山人は、会心の書物を入手するたびに嬉々と誂えていたであろう帙に、『太平楽』第五号に附録の『もずのにへ』とともにスナップ写真を収納したのだった。


以上、まとめてみると、池上浩山人が句集『もずのにへ』について綴ったのは、現時点で判明しているところでは、無署名の記事で浩山人と推定される記事を交えると、

  • 『俳句研究』昭和29年11月号「明治大正俳書解題(九)」
  • 『俳句』昭和29年12月号「句集蒐集餘譚(下)」
  • 「毎日新聞」昭和33年2月19日付朝刊「「太平楽」の別冊の「もずのにへ」」(無署名)
  • 『日本古書通信』第167号(昭和33年3月15日)「最近入手した二冊の俳書」
  • 『週刊文春』昭和38年5月27日号「古本散歩」(無署名)
  • 『日本古書通信』第230号(昭和38年6月15日)「もずのにへ」

であり、昭和29年の時点では、《本書には序もなければ跋もなく、且つ肝心な奥付が附されてゐない。故に此の書が何時如何なる理由で、如何なる書肆に依つて出版されたか全く不明》と記されていたのが、昭和33年に『太平楽』第5号を入手した際に綴った文章では《「太平楽」の附録と云ふことを知り乍らも「太平楽」そのものを見ることが出来なかつたから、刊行年月が全く不明であつた》と記されていることに注目したい。《句楽会の事や「もずのにへ」のことが書いてある》と浩山人が言及している、吉井勇著『東京・京都・大阪』が刊行されたのは、浩山人が『俳句研究』に『もずのにへ』のことを書いたのとほぼ同時、昭和29年11月末であった。



『日本古書通信』第141号(昭和31年1月15日)より「明治大正俳書稀本番附」。行司を勤めた大塚晩成子こと大塚毅は池上浩山人と並ぶ明治大正俳書探究の猛者、その編著『明治大正俳句史年表大事典』(世界文庫・昭和46年9月10日)を見て、びっくりしない人はいない。

この番附の前のページに、大塚毅「明治大正の俳書」が掲載されている。ここでは『もずのにへ』は「特異に属するもの」として「現文壇の長老、久保田万太郎氏(傘雨)喜多村緑郎氏の諸芸能人中心の集」というふうに紹介されている。「明治大正俳書稀本番附」では前頭二枚目に格付けされていて、刊記は「大7」と明記されている。ここでは、『太平楽』については言及はないものの、大正7年という刊行年は判明している。

この5年後、『俳句』昭和36年3月号に、この「明治大正俳書稀本番附」に関連して、大塚毅・池上浩山人・楠本憲吉の鼎談「三代俳句史余話(上)」が掲載されている。大塚毅を囲んで、池上浩山人と楠本憲吉がものを聞くという趣きの座談会記事であるが、末尾に「次回は本誌五月号掲載予定」となっている「(下)」は結局掲載されることはなかった。未掲載の「三代俳句史余話(下)」には、『もずのにへ』のことが語られていたに違いないと思えてならず、かえすがえすも残念なのだったが、大塚毅と池上浩山人と楠本憲吉の同好・同学の士、この三人の密な情報交換の場を垣間見る思いがして、非常に胸躍るのであった。

繰り返しになるが、戸板康二が句楽会のことを書き始めたのは、彼らの明治大正俳書探索により、『もずのにへ』の全貌がすべて明らかになっていたあとのことであった。



昭和29年の初冬、池上浩山人が『俳句研究』と『俳句』に立て続けに『もずのにへ』のことを書いたのとほぼ同時期に、吉井勇著『東京・京都・大阪』が刊行された。



吉井勇著『東京・京都・大阪 よき日古き日』(中央公論社、昭和29年11月25日)。装画:木村荘八。2006年7月、加藤郁乎の解説が付されて、平凡社ライブラリーとして刊行されている。

ここに「鵙の贄」と題する一篇があり、ここに句楽会のことがイキイキと回想されていて、『演芸画報・人物誌』の愛読者だったら誰もが魅了されるに違いない。

この連中はただ運座をするばかりではもの足らず、勝手気ままなことを書き散らす楽屋落ばかりの雑誌で、「太平楽」というものを出していたが、そのうちこの雑誌の附録のような形で、句集を出すことになつた。これもまことに「太平楽」らしく、雑誌と一緒に買うと定価通りだが、句集だけ買うとするとその数倍を払わなければならないという、何が何だか判らないようなことをして、
「こいつはおもしろい趣向だらう」
といつてみんな得意がつていたものである。

この時点で、吉井勇は『もずのにへ』を架蔵していて、同人の句を一句ずつ紹介して、稿を締めくくっている。しかし、ここには、大正7年という刊行年は明記されていない。が、『もずのにへ』が『太平楽』の「附録のような形」であったということは、この文章で判明する。池上浩山人はこの文章を読んで、『もずのにへ』が『太平楽』の附録であるらしいということを初めて知ったのかもしれない。

玄文社が設立された大正5年(1916)の秋にはじまり、大正7(1918)年11月に句集『もずのにへ』が出て一段落した格好の運座・句楽会について、同時代の誌面にもその噂は散見できるものの、初めて歴史として正面切って語られたのは、昭和2年(1927)5月に刊行された久保田万太郎の第一句集『道芝』にて、久保田万太郎が跋で自らの俳歴を綴ったなかで登場するのが最初と思う。

 と、忘れもしない大正五年の秋である。ともにいまは亡き岡村柿紅と田村車前草とが、長田幹彦、服部普白、喜多村緑郎たち始終の飲友達だちを語らつて俳句をはじめたものである。――所詮はあゝでもないの洒落が嵩じてのうへに違ひなかつたものゝ、一度が二度と催しを重ねるうち、うそから出たまことに誰もみんな夢中になつた。洒落が洒落でなくなつた。――さうなると一人でも仲間をふやしたい人情から、手近の五六人のものを有無なくそのなかへ引入れた――小山内薫、吉井勇とゝもにわたしもその一人に選ばれた。――さそはるるまゝにわたしはその何度めかの運座に出席した。
 ゆくりなく、思ひもよらず以前の「恋人」にわたしは邂逅したのである。わたしたちには、たゞ、微笑を取交すだけでよかつた。――さうした安易な、わだかまりのない、いつそ明るい心もちで、久しぶりの、「砧」だの、「秋晴」だの、「烏瓜」だのといふ季題をなつかしくわたしはとり上げた。
 やがて披講となつたとき柿紅はいつた。
「きみはすこしは囓つたことがあるね?」
その場合、わたしは、あると正直にもいへなかつた。
「そんなことはない。」
と、かれは、それがくせの眼鏡をわたしに光らせていつた。
「でも、ちやんと感心に定石を知つていゐる。」
 さういふかれは嘗て紫吟社の同人だつたのである。
 が、誰が知らう、そのかりそめの機会がわたしと彼女とをふたゝびそこに結びつけようと。――わたしは彼女のあひだの交情をもう一度よみがへらすにいたらうと。――それ以来、わたしは、その句楽会(わざとさうした卑俗な名によつてそれは呼ばれた)の運座の熱心な出席者の一人にかぞへられたのである。
 一年あまりのあと句集「鵙の贄」を残して句楽会は解散した。理由はない、それ/″\みんな自分たちのいとなみにいそがしくなつたからである。――句楽会が止めになつてもわたしの俳諧生活はしかし止めにならなかつた。いへば完全にそれは再燃した。そのまゝわたしは一人でつくりつゞけた。――「俳句」はいつかわたしの公然晴れての「余技」になつた。
 勿論さうなつたとき、いかにそれがわたしの信ずる耽美主義の芸術に遠からうと、近代劇運動の精神に相容れまいと、そんなことはもうわたしにとつてどうでもいゝことだつた。そんなことをいふ必要はどこにもなかつた。俳句はどこまでも俳句だつた。――即興的な抒情詩、家常生活に根ざした叙情的な即興詩。――わたしにとつて「俳句」はさうした外の何ものでもありえない。
 ……はツきりさうわたしにみとめがついたのである。

『道芝』の跋により、明治44年(1911)『三田文學』を舞台にしての作家デビュウを機に俳句を捨てたが、大正5年(1916)に始まる句楽会が万太郎の俳句復活のきっかけになったことと、大正7年(1918)に句楽会が「解散」したことが、万太郎一流の甘美な文章によって、俳句史のなかで既成事実となっていった。この跋が擱筆されたのは昭和2年(1927)5月3日、岡村柿紅(大正14年5月6日歿)の三回忌を目前に控えている頃だった。そういう感傷が万太郎の胸に去来していたのかもしれない。十年一昔、句楽会とその歳月、その雰囲気を体現する存在が岡村柿紅だった。訃報に接すると、そのたびに人は「ひとつの時代が終わった」と言いがちであるけれども、岡村柿紅の死もまさしく「ひとつの時代」の終焉であった。



昭和2年6月13日夜、東京會舘にて『道芝』の出版記念会が開催された折の記念写真、第二次『俳諧雑誌』第2巻第8号(昭和2年8月1日)掲載*4。最前列中央に、渡辺水巴と泉鏡花に挟まれてデンと座る久保田万太郎はこのとき38歳で、すでに貫禄たっぷり、「劇界のボス」としての道を着実に歩み始めていた。句楽会の同人でここに出席しているのは、花柳章太郎と金子東一の2名のみ。『俳諧雑誌』の後身として昭和5年3月に創刊される『春泥』、『春泥』を母胎に昭和9年に誕生する「いとう句会」の誕生前夜を実感させる記念写真となっている。この時点で句楽会は万太郎にとって、遠い昔のことになっていた。




久保田万太郎の第一句集『道芝』(友善堂、昭和2年5月20日)。『もずのにへ』とおなじく扶桑書房さんで購入した『道芝』は花柳章太郎宛の署名入り。上掲の出版記念会で配られたものかもしれない。


句楽会のもう一人の語り部、吉井勇は昭和29年11月刊の『東京・京都・大阪』以前の戦前から、句楽会について、万太郎同様にその一流のノスタルジックな筆致で甘美に綴っている。その主な文章として、単行本の刊行順に列挙すると、

  • 『娑婆風流』(岡倉書房、昭和10年7月18日)所収「俳諧水鳥記」「懶虎堂主人に送る文」「中村秋湖」「柿紅を憶ふ」
  • 『わびずみの記』(政経書院、昭和11年3月15日)所収「小山内氏の俳句」
  • 『洛北随筆』(甲鳥書林、昭和15年5月10日)所収「太平楽」「洛北日誌」
  • 『歌境心境』(湯川弘文社、昭和18年1月20日)所収「鵙の贄」

が挙げられる。

まことに貴重な回想揃いだけれども、『洛北随筆』所収「太平楽」が、句楽会の同人雑誌『太平楽』の現物を手元においてその記事について詳述しているという点で、たいへん貴重である。現在は、神奈川近代文学館や国立劇場図書閲覧室で現物を見ることができるけれども、『太平楽』は長らく稀覯雑誌であった。

 今私の手許に、「太平楽」と題する雑誌の合本がある。これは旧臘岸本水府君が珍蔵してゐたものを、強いて乞ひ受けたものであつて、表紙は岸本君が自ら装幀したものだといふが、古い役者の似顔絵を貼つたところなどは、如何にも当年の「太平楽」気分を表現してゐる。
 これは全部殆ど楽屋落の同人雑誌のやうなもので、巻頭に「覚」としてある中に連名が書いてあるが、それに依ると文壇関係では小山内薫、岡村柿紅、落合浪雄、長田幹彦、川尻清潭、田村西雄[ママ]、中村秋湖、久保田万太郎などで、その外演劇関係の田村寿二郎、遠藤為春、三木重太郎、それに舞台人としては喜多村緑郎、河合武雄、花柳章太郎、福島清、尾上伊三郎などが加はつてゐる。

という書き出しであり、『太平楽』について、

創刊第一号の出たのは、大正六年六月で、第二号が同年九月、第三号がやはり同年の十一月、第四号は前半だけが七年一月、その後半が同年二月に発行され、それで廃刊になってゐる。今この「太平楽」合本の中から、あんまり楽屋落でない当時の世態風俗の分るやうなものを抄出して、それに私の回顧的な感想を附け加へて見やう。

というふうにして、記事が紹介されてゆく(第1号の刊行は正確には大正6年7月)。岸本水府が珍蔵していた『太平楽』合本は、大正7年2月に出た『太平楽』の「第4号の続き」までの5冊、吉井勇はここで廃刊になったという認識でいるらしい。『洛北随筆』所収「太平楽」は後年、森銑三が『大正人物逸話辞典』(東京堂出版、昭和41年2月10日)を編む際に「尾上伊三郎」の項に引用している文章である。こういう辞典に尾上伊三郎を立項する森銑三の目配りに感動する。

吉井勇は、戦後の『東京・京都・大阪』においては、句集『もずのにへ』は手元にありながらも、『太平楽』本誌は一冊も手元になかった状態だった。『洛北随筆』所収「太平楽」を書いているとき、吉井勇の手元には『太平楽』の合本があった。一方、『わびずみの記』所収「小山内氏の俳句」を書いている時点では、勇の手元に『もずのにへ』がある。さらに、煩雑なことに、『歌境心境』所収「鵙の贄」という文章は、『わびずみの記』所収「小山内氏の俳句」と内容はほとんど同じなのだが、冒頭だけが異なり、その冒頭は、《大正七年の春、傘雨、緑樹の二人の編で、「鵙の贄」といふ句集が出版せられたことがある。》というふうになっていて、実際の刊行は11月ではあるけれども、『もずのにへ』が大正7年に刊行されたことが明記されている。

それから、ちょっとややこしいのが、田村寿二郎の俳号の「車前子」について。小田村自身が『太平楽』第1号(大正6年7月27日)に、《第四回が橋場緑樹先生宅此の時に初めて自分の俳名に皆が車前子と云ふ名を付けてくれた》(車前子「句楽会と京都連」)と書いており、『太平楽』各号の表徳一覧にも一貫して「車前子」と明記されているというのに、句集『もずのにへ』では「車前草」と印刷されてしまった。さらに、『道芝』の跋でも「田村車前草」と書かれていて、『もずのにへ』の編者であった久保田万太郎は田村寿二郎の俳号を「車前草」と記憶違いしていたことが見てとれる。そのせいで、のちの文献において、田村寿二郎の俳名が記される際に「車前子」と「車前草」とが混在する事態になってしまったのだった。という次第で、吉井勇も田村寿二郎の俳号を『太平楽』が手元にあるときは「車前子」、『もずのにへ』が手元にあるときは「車前草」と書いている。昭和29年11月刊の『東京・京都・大阪』では「車前草」となっている。



『太平楽』第1号(大正6年7月27日)の表紙。創刊号に「太平楽」の文字を揮毫したのは田村寿二郎、その落款は「車前子」。

しかし、戸板康二はこのトラップに一度たりとも引っかかることなく、『演劇界』昭和38年7月号から一貫して、田村寿二郎の俳号を「車前子」と正しく表記している。

田村寿二郎の車前子は、その家の紋の車前草(オオバコ)にちなんだのである。菊五郎の狂言座はこのオオバコを紋章にしていた。第二次大戦後、菊五郎劇団の若手が帝劇で『八犬伝』を上演した時、車前草のしるしの揚幕があったのをおぼえている。

昭和22年9月に「狂言座復活第一回公演」と銘打って帝劇で渥美清太郎作・演出により『南総里見八犬伝』が通し上演されたときのことを、ここにさらりと織り込む戸板康二である*5。田村寿二郎の俳号を「車前草」と記憶違いしていたとおぼしい久保田万太郎は、「東京日日新聞」夕刊の娯楽欄に昭和10年8月4 日から12年3月27日まで連載した「傘雨亭夜話」では「車前子」と正しく表記している。「田村車前子」と題した文章は昭和11年5月24日の紙面に載った。3日前の5月21日に営まれた田村家の取越しの法事の話から稿が起こされている。

 この廿一日に、新宿の正春寺で、田村成義翁の十七回忌と田村寿二郎君の十三回忌とを兼ねた取越しの法事がむかしの市村座関係の人々によつて営まれた。わたくしも参列して焼香した。
 わたくしの二十四五の時分、わたくしは、岡村柿紅の紹介によつて田村寿二郎君を知つた。

というふうに、句楽会の歳月を思い起こすようにして始まり、

 が、それよりも、車前子と号してかれは稚拙愛すべき俳句を作つた。
  烏 瓜 碁 ど ろ の 噺 お も ひ け り
 かれのこの代表句を誦するとき、わたくしに、彼の薄く禿げたあたまと、葉巻を挟んだ花車な指さきとははッきり感じられるのである。ついでながら、車前子といふのは、かれのあるときつけてゐた羽織の紋がおんばこだつたのによるのである。

と締めくくられている。「傘雨亭夜話」はこの1年後、『さんうてい夜話』(春泥社・昭和12年5月25日)として小ぶりの愛らしい装本となって世に出た。戸板康二はこれを読んで、「人物・演芸画報」に車前子の句「烏瓜碁どろの噺おもひけり」を書き留めた。

吉井勇の随筆集『娑婆風流』所載「柿紅を憶ふ」は、『演芸画報』に「耽々亭漫筆」として連載した文章を『娑婆風流』を編む際に「耽々亭劇談」として収録したうちの一篇である。『演芸画報』の「耽々亭漫筆」は昭和3年(1928)8月号から翌年7月号までの間に断続的に計9回掲載されたのだったが、「柿紅を憶ふ」は昭和4年(1929)6月号に掲載されている。昭和3年12月25日に小山内薫が急逝後、小山内薫記事が続いたあとというタイミングであった。偶然であるが、『演芸画報』連載「耽々亭漫筆」の後半は、小山内薫と岡村柿紅を偲ぶことで、吉井勇にとっての句楽会への挽歌となった。

同時期の昭和3年(1928)、吉井勇は「讀賣新聞」にも「耽々亭漫筆」と名付けた随筆を寄稿している。第1回と第2回は「耽々亭漫語」というタイトルだったのが、第3回から「耽々亭漫筆」と改題された。その第1回目は昭和3年3月16日付朝刊に載った。復活した落語研究会を聴きに、3月12日に薬師の宮松亭へ行った日のことが綴られている。区画整理のまっ最中の「火事の焼跡」のようで昔の面影はなかった。会場で三宅周太郎に会った。翌日に掲載の第2回目では、その年の1月12日に脳溢血で亡くなった鈴木台水のことが綴られている。



『劇と評論』大正15年(1626)9月号(第3巻第4号)。玄文社を版元に大正11年(1922)6月創刊された『劇と評論』は大正12年(1923)9月号を最後に刊行がとまっていたが、大正15年(1926)6月に歌舞伎出版部を版元に復刊され、以降、たびたび版元を変えつつ、刊行が続いていった。

小山内薫の「編輯者の詞」とともに大正15年6月に復活した『劇と評論』、その復活第1号から吉井勇の「耽々亭独白」が連載された。小山内薫は大正15年9月号の「編輯者の詞」に、《偏奇館劇話と耽々亭独白が、この雑誌のアツトラクシヨンとなりつつあることを、吾々は永井荷風氏と吉井勇氏に感謝しなければならぬ。》と書いた。小山内薫からたまに漏れ出る言葉の冴えっぷりは見事なものと思う。まさにそのとおり、荷風の「偏奇館劇話」と勇の「耽々亭独白」は、この時期の『劇と評論』を手に取ると、まっさきに開くページだ。

吉井勇が「耽々亭」と号したのはこれが最初だろうか。玄文社を版元にしていた雑誌の復活号で初めて「耽々亭」と号したのだろうか。その後、『演芸画報』と「讀賣新聞」を経て、吉井勇は昭和4年(1929)6月に主宰創刊した詩歌文芸雑誌『創聞』を昭和5年(1930)1月号に『スバル』と改題して12月に休刊するまでの1年間、「耽々亭雑記」を連載、明治末期からの自叙伝を綴ってゆく。この自叙伝はその後、反復と変奏を繰り返して、昭和29年(1954)11月刊行の『東京・京都・大阪』へと展開していった。かくして、吉井勇にとっての昭和は「耽々亭」の名のもとで、明治大正の回想する歳月となった。文学史や演劇史、芸能史の記述からは漏れてしまう、その時代の雰囲気を伝える歌人および散文家として、その時代に居合わせなかった後世の読者ですらついノスタルジーに耽ってしまう言葉を紡ぎ出す歌人および散文家として、吉井勇はまことに稀有の存在となった。



「回想家・吉井勇」の出発点となったのは、昭和2年の「東京日日新聞」夕刊誌上で文士と挿絵画家のコンビでオムニバス連載された東京ルポルタージュ『大東京繁昌記』であろう。久保田万太郎の処女句集『道芝』の跋に続くように、勇はここに句楽会へと連なる日々を回想している。昭和2年8月、吉井勇は木村荘八の挿絵で「大川端」(昭和2年8月9日から25日まで全14回)を執筆。その第5回(昭和2年8月13日)のテーマは「パンの会」、この挿絵とほぼ同じ構図の油彩画《パンの会》を、木村荘八は翌昭和3年の春陽会第6回展に出品したのだった。ちなみに、勇の「大川端」が新聞に載っている頃、8月15日に句楽会のメンバーだった新派役者の福島清が他界している。次月の『大東京繁昌記』は久保田万太郎文・小村雪岱画「雷門以北」であった。



木村荘八《パンの会》昭和3年(岐阜県美術館寄託)、図録『生誕120年 木村荘八展』(2013年)より*6。昭和3年4月28日から5月6日まで東京府美術館の春陽会第6回展に出品。昭和10年3月31日から4月21日まで東京府美術館十周年記念現代綜合美術展にも出品されたようだ。


木村荘八《パンの会》昭和7年(北野美術館蔵)、『芸術新潮』昭和55年10月号所載、瀬木慎一編・解説「〈特集〉絵の値段七〇年」に掲載の図版。荘八の《パンの会》の油彩がもう一つあり、こちらは湯島の羽黒洞の木村東介のもとに長らく売れ残っていたという。荘八の「パンの会」の絵はまだほかにもあるのかもしれない。

「パンの会」の時分、木村荘八は中学生であり、兄荘太から話を聞いていただけで、その場に居合わせていたわけではない。野田宇太郎『日本耽美派文学の誕生』(河出書房新社、昭和50年11月28日)によると、木下杢太郎の助言をもとに、震災で壊滅した三州屋の面影が偲ばれた本郷の青木屋の2階をモデルに描いた。

その画中に描かれている人物は、先づ右の端から木下杢太郎、伊上凡骨(床にぶつたふれてゐる)、木村荘太、その次に大きく木村荘八は三味線を弾く自画像を描きこんでゐるが、これはもちろん実景ではない。つぎに谷崎潤一郎、椅子にかけて三味を弾く荘八と向き合つて芸妓、女中、吉井勇、立つてスピーチをしてゐる小山内薫、隣りが長田秀雄、長田幹彦、また椅子にかけたお酌、そして高村光太郎、萱野二十一、遠景の中に赤いトルコ帽を冠る田中松太郎、山高帽のままビフテキにかぶりついてゐるフリッツ・ランプ、その他誰ともなき外圏の人などである。三州屋のパンの会がヒントになつてゐるとはいへ、これはあくまでも「パンの会」といふ憧憬想像の画面だから、三州屋時代には既にゐなかつたフリッツ・ルンプと共に、そのころは少年だつた木村荘八自身も椅子によつて三味線を持ち、自弾自唱してゐるのである。この絵を描いた当時荘八は小唄に凝つてゐたので、少年時の憧憬をそのままに自像も入れ、その前の椅子に依る芸妓からコーチを受ける形で、その雰囲気を現す一人物として描いたとは、画家自ら語るところである。

絵の中でこちらに向かっているお酌がのちの、句楽会時分の田村寿二郎夫人という。


戸板康二が『演芸画報・人物誌』に書いた句楽会の記事は、久保田万太郎と吉井勇、花柳章太郎の回想に登場するエピソードをまじえつつ、各同人について説明をほどこして出来上がったものであった。久保栄著『小山内薫』における句楽会の記述にも影響を受けているように見える。玄文社にいた小林徳二郎(当時はNTV芸能局勤務)に直接取材をしている。久保田万太郎が存命だったら、直接話を訊いていたに違いない。句楽会を語ると同時に、『演芸画報』と並立していた『新演芸』を語ることで、大正期の演劇ジャーナリズムのムードを伝える項目となった。

大正5年から7年にいたる句楽会の歳月は、二長町市村座華やかなりし日々の挿話のひとつに過ぎない。伊原青々園言うところの「団菊以後」の時代相のなかで、田村寿二郎の周囲に集う花形文学者として、久保田万太郎と吉井勇は岡村柿紅から句楽会に誘われた口だった。久保田万太郎と吉井勇は、柿紅と親しくなったことで、芸人を描いて自らの文学を切り開くことができたと口を揃えて語っている。万太郎が転機となる『末枯』を書いたのは、句楽会まっただ中の日々でのことだった(『末枯』の初出は『新小説』大正6年8月、『続末枯』は『三田文學』大正7年3、4、8、11月)。遊びだけでなく、文学的にも二人を感化した柿紅は、いずれは劇作に専念したいという希望を抱きながらも、大正14年(1925)5月6日、満身創痍の興行師として44歳の短い一生を終えた。

長谷川郁夫著『美酒と革嚢 第一書房・長谷川巳之吉』の巳之吉の玄文社時代を綴る第一部に「二代目の時代」という言葉が登場する。吉井勇(明治19年生まれ)と久保田万太郎(明治22年生まれ)は、六代目菊五郎(明治18年生まれ)と初代吉右衛門(明治19年生まれ)と同世代だった。久保田万太郎と慶應普通部で同級だった山口三郎を父に持つ戸板康二は、六代目菊五郎を父に持つ七代目梅幸と暁星の同窓生だった。戸板康二にとって、句楽会は父の世代の若き日の挿話であった。久保田万太郎、吉井勇らの甘美で感傷的な回想を通して思いを馳せる、戸板康二の知らない震災前の東京の大正ベルエポックの一挿話であった。

*1:『週刊文春』の「古本散歩」は、「レジャーの窓」と題されたコーナー内の書評欄的なページの、13文字×13行の無署名の囲み記事。『もずのにへ』の載る直近の号の「古本散歩」のテーマは、5月6日号「野村胡堂『人類館』」、5月13日号「武鑑」、5月20日号「雑誌と肉筆物」、5月27日号が「もずのにへ」、6月3日号「伝記書」となっている。余談だが、5月20日号に、この年の5月6日に急逝した久保田万太郎についての3ページの記事が掲載。そのなかに、《二十六年、菊五郎劇団が「なよたけ」上演にあたり、演出家を誰にしたらいいか戸板康二氏に相談した。そのとき、久保田氏はオスロで開かれた国際演劇協会大会に日本代表として出席することになっていたので、戸板氏は岡倉士朗氏をおした。帰国後、久保田氏は戸板氏を誘って箱根に行き、風呂場で弟子にさとした。「だめだと思っても一応話を通しなさい。素通りしたのは、なんとも淋しいよ」。》というくだりがあった。

*2:『演劇界』の連載「人物・演芸画報」での記述が青蛙房で単行本化されて『演芸画報・人物誌』となったときにカットされた事例として、たとえば、第20回(昭和38年8月号)の遠藤為春の、《遠藤為春氏は本名弥一、袁為春と唐めかして名のったこともる。イシュン又はタメハル、故事があるのかと思って質問したら、「為永春水ですよ」と言下にいわれた。》というくだりがカットされている。第28回(昭和39年4月号)の楠山正雄の、《昭和二十年五月六日に十五代目市村羽左衛門が信州湯田中で急逝した時、「日本演劇」に書いていただいた「橘屋羽左衛門」は、遺著の中でも圧巻で、その執筆を懇請したことについては、編集者として、ぼくのひそかな誇りとするところである。》というくだりを、奥床しい戸板さんは手前味噌と思ったのか削除、《いつであったか、原稿を外でいただくことになって、東京駅の八重洲口の前の、その頃漸くできはじめたコーヒー店でお目にかかった時、街の風景をめずらしそうに、楠山さんが見まわして折られた姿も、思い出される。》というくだりともども、単行本ではあえてカットされた箇所が結構味わい深いのであった。そして、『演芸画報・人物誌』でカットされてしまって最も残念なのは、第31回(昭和39年7月号)の石割松太郎の《ぼくが「三田歌舞伎研究」に原稿をいただくために、石割さんを矢来の酒井邸の裏のお宅にたずねたのは、「近世演劇雑考」の出た直後だった。いく分、口がもつれる感じだったが、その時うかがった話で、石割さんは菊五郎が嫌いだという印象を受けた。/若い頃は房々とした髪の毛を持っていたそうだが、その頃の石割さんは、頭も一種僧形のようであり、眼が澄んで、それが鋭く、論客らしい強さと魅力にもなっていたようである。》というくだり。この箇所は、《のちに書くように、ぼくは晩年の石割さんを見ているが、じつに立派な、役者のような顔であった。》という伏線部分はそのまま残っていることから、意図的ではなく、誤ってカットされてしまったと判断できるような気がする。200字原稿用紙に浄書していて、その1枚分がこぼれ落ちたのではなかろうか。ちなみに、『近世演劇雑考』は昭和9年9月に岡倉書房より刊行、慶応歌舞伎研究会の機関紙『三田歌舞伎研究』に石割松太郎の原稿が載るのは、第1号(昭和9年2月5日)に掲載の「浄るり『曲風』の発生と、今日批判の標準」のみ。

*3:この日、9月22日付けで、荷風は早々に池上浩山人に礼状を送っている。その文面は、《御葉書拝誦仕候 いよ/\御商売御復興の趣大慶に奉存候 御恵贈の書籍今朝無事到着致候 枕山春濤二老の詩集今日再読致候得者麻布にて先年下谷叢話つくり候時分の世の中いよ/\懐しく被存申候 鷲津毅堂ノ集は其頃既に珍らしきものなりし由何とかして求めたきものと存居候 去七月頃森銑三様御出被下菊池三渓の梅暦漢訳草稿恵贈に与り珍蔵致居候 拙稿罹災日録雑誌新生誌上掲載のものは誤植活字余りに多く候故この度扶桑書房と申す書肆より単行本として出版の筈に御座候 不日出来候はゞ御送可申上候 先は御礼まで匆々不一》(『荷風全集 第二十五巻』)。本を贈られた際の礼状のお手本にしたいような、簡にして要を得ていて、それでいて行き届いた文面に感動する。

*4:写真に写る氏名を書き写すと、第一列(右より):西村雨紅・長谷川零餘子・小泉迂外・峰青嵐・松浦為王・渡辺水巴・久保田万太郎・泉鏡花・三宅孤軒・大場白水郎・小村雪岱・内田誠、第二列:水上滝太郎・鈴木燕郎・小田島十黄・金子東一・籾山梓月・楠部南崖・金森匏瓜・長谷川春草・津端松亭、第三列:新楽忠次郎・豊永苔斧・佐野花榴・増田龍雨・菊地大我・宮原箕谷・小島政二郎・山田[ケイ]子、第四列:加古覆盆子・田中清沙・森本美寄・伊藤鴎二・中田豊中・黒岩漁郎・川上梨屋、第五列:八木澤葵草・畑耕一・伊藤貫一・中山孝吉・坂本猿冠者・花柳章太郎・中村泰堂・瀬戸英一・川口松太郎・羽根田みやえ・増田綱男。当日出席したが写真には写っていない人物として、斎藤香村・室積徂春・阪倉金一・片岡平也・山崎学堂・鴨下晃湖・野口銀次郎・中政雄。

*5:六代目菊五郎が、普通興行を離れての演劇研究のために興した「狂言座」は大正3年(1914)年2月と11月の2回をもって終了していた。第1回狂言座は帝劇で2月26日から3日間、中谷徳太郎作『夜明前』、森鴎外作『曽我兄弟』、坪内逍遥作『新曲浦島』、第2回狂言座は11月21日から3日間、奈々子作『ふらそこ』、木下杢太郎作『南蛮寺門前』 (山田耕筰作曲の楽劇として上演)、吉井勇作『俳諧亭句楽の死』『歌舞伎草紙』を上演。第1回で上演された鴎外『曽我兄弟』、第2回で上演された吉井勇『俳諧亭句楽の死』については、中村哲郎氏の名著『歌舞伎の近代』の委曲を尽くした論稿が絶品なので、余計に「狂言座」は心に残るのであったが、その「狂言座」は昭和22年(1947)9月7日から31日まで、帝劇で「狂言座復活第一回古劇通し狂言公演」として復活し、渥美清太郎脚色・演出『南総里見八犬伝』が上演された。プログラムには「堂々五時間にわたる大歌舞伎一挙上演」の惹句が踊る。公演プログラムに、梅幸は「狂言座復活 第一回公演に当つて」として、《この私共の、所謂復活狂言座の目的は、これも父の狂言座と同様、普通興行での必然的な制約から逃れて自分達で純粋に舞台を研究してみやうと云ふところに御座います、元来歌舞伎に育ちました私共の事故、レパートリイは当然歌舞伎が中心になつてゆくことゝは存じますが、小さな意味での歌舞伎と云ふ枠には捉はれず、将来の日本演劇の在り方を目標とし、それを探り当てる道程、手段として、凡ゆる演劇の分野から戯曲も演技も取上げてゆく方針で居ります。》と語った。第2回公演は、菊五郎他界直後の昭和24年(1949)9月3日から27日まで、同じく帝劇で昼夜二部制で上演。昼の部に『伊勢音頭』(二見ヶ浦と油屋)、坪内逍遥作『役の行者』。夜の部は『仮名手本忠臣蔵』道行から五段目、六段目、七段目まで。男女蔵の福岡貢、万野は多賀之丞、お紺は福助。道行の勘平は男女蔵。五段目六段目の勘平は海老蔵初役。七段目の由良助は彦三郎、平右衛門は松緑。梅幸は映画の撮影で不出演。公演ブログラムの「御挨拶」に、《爾来足かけ三年、松竹の傘下にあつて、幾度か話題にのぼり乍ら、諸種の事情から実現出来得なかつたこの企てが、今度東宝側の理解ある熱意によつて、久し振りに返り咲くこの想出の舞台に、第二回公演の機会を得る様になつた事は、真に奇縁とも申すべきでありまして、座員一同大いに感激してゐるところであります。》とある。戸板康二はこの公演に対する劇評の冒頭で、《狂言座と名のることが、菊五郎劇団といふのと、どの程度ちがふかは、今月の帝劇の出し物を見ただけでは、わからない。舞台の上手の揚幕に、この劇団の紋がついてゐるだけの話である。》と書いている(『演劇界』昭和24年10月号)。第3回狂言座は三越劇場で、昭和25年(1950)3月6日から24日まで、鶴屋南北『杜若由縁江戸染』と辻本能舞男作の舞踊劇『西鶴五人女』が上演され、梅幸は土手のお六に挑戦した。ちなみに、同月三越劇場の夜興行は文学座公演、福田恆存作『キティ台風』であった。第3回の狂言座の公演プログラムに大木豊が、《復活第一回公演の「八犬伝」は、早くから予定されていた二つの案が実現不可能に陥つたための蹉跌もあつて、急場凌ぎの仕事といつた感を免れず、つゞいて、「菊五郎の死」という大きな衝撃を中に挟んだ昨年九月の第二回帝劇公演も、「伊勢音頭」、「役の行者」、「忠臣蔵」と並べた演目の選定に、わざ\/狂言座を名乗つただけの理由が感得されず、「役の行者」をいまもつて信奉する神経に、却つて大正時代の演劇青年臭から抜けきれぬもどかしさを覚えたのだつた。》、《そして、今月の三越が、その復活三回目の公演に当るわけである。きくところによると、大南北の「杜若由縁江戸染」の通しが出るらしい。単に、世話狂言の代表作が十数年ぶりで脚光を浴びるという興味以外に、温故知新の企画として、これは珍重すべきであり、また愉しみでもある。》と書いたが、その初日を見た利倉幸一は《この狂言座の公演は菊五郎劇団のスケジュールの急変から遽かに企劃されたもので、したがつていろいろな点に無理があり、いろんな点に悪い条件が重なつているのはよく察せられるのだが(中略)、それにしても、この初日の舞台はひどかつた。》と記すという状態だった(『演劇界』昭和25年4月号)。この第3回が菊五郎劇団による「狂言座」を冠した公演の最後だったようである。敗戦後の歌舞伎史の一コマであった。

*6:吉井勇は『スバル』昭和5年4月号に「「パンの会」の図に題す」として、《木村荘八君描くところの「パンの会」の絵を眺めて、はるかに「食後の歌」の詩人をおもふ。》という前書きのあと、「忘れめや酔泣しつつわが凭りし瓢箪新道のかの家の窓」「たはけたる酒ほがひよと嘲けれど手に杯を持ちて友ゐる」「恒河沙の商女のなかの一人が椅子に持たれて三味線を弾く」「凡骨が刀を忘れて酔ひありく頃なつかしくなりにけるかな」「考ふることなく歌をよむもよし半斗の酒に酔ふもよし」「窓の外の暗き夜空をながめつつ酔杢太郎もの云はずけり」「そのなかのもつとも酔ひし人に似る大提燈の牧羊神[パン]の顔かな」「白秋は酔ひて歌ひぬ凡骨は酔ひてをどりぬ牧羊神[パン]の夜の酒」「昇菊の肩衣すがた目にうかべいとうつつなる酒酌むや誰」、以上9首の歌を寄せている。