鏑木清方展を見て、戦前の戸板康二と三木竹二の『歌舞伎』をおもう。


 古書展での重たい荷物とともに六本木へ。母と待ち合わせて、サントリー美術館で鏑木清方の展覧会を見物。いつもよりだいぶ人が少なくてゆったりと見物できた上に、清方の絵をひさびさにじっくりと見られて、じっくりと見られるというだけでたいへん満喫。ここ十年来のおたのしみ、鎌倉の清方美術館での時間がギュッと凝縮したかのようなひととき。

 清方と戸板康二といえば、『わが交遊記』に、《明治製菓の宣伝部にいたころ、上司の内田誠さんに連れられて、牛込矢来のお宅に伺ったのが最初である。玄関の脇の、あじさいが盛りだった。》という一節があるのだけれども、具体的にはどの時期か、長年気になりつつも、いまだに詳らかではないのだった。『わが交遊記』にはこのあと、鳥居清忠の名前が登場する。当時、矢来の清方の近所に住んでいた清方門下のひとり。戸板康二が、昭和17年10月から『大衆文芸』に連載した「歌舞伎鑑賞」、戦後和敬書店より刊行の『わが歌舞伎』のもとになった連載の挿絵を描いてもらうにあたって、連載時に打ち合わせのため矢来を訪ずれた際に、清方邸の前を通ったとある。

 明治製菓在籍時の戸板康二が、『大衆文芸』に連載することになった縁は、小村雪岱の没後一年の昭和16年に、資生堂ギャラリーにて催された「小村雪岱追悼展覧会」(9月)と「小村雪岱遺作展覧会」(10月)を内田誠の命で手伝ったおりに、島源四郎と知り合ったことがきっかけなのだった。……というようなことに思いを馳せつつ、ミッドタウンを歩く。清方展の次はいよいよ、北浦和の埼玉近代美術館で小村雪岱展なのだった。

 

 『太陽』1977年1月号《特集:鏑木清方 回想の明治》。戸板康二の「さまざまな魂の懸け橋」所載。単行本未収録。戸板康二が清方について書くときにいつもとりあげるネタ、三木竹二の「歌舞伎」明治34年12月号における仁木弾正の挿絵にまつわるエピソードがここにも登場するのだけれども、わたしがその挿絵を初めて実際に見たのがこの誌面だった。

 

 というわけで、『歌舞伎』明治34年12月号に掲載の、清方による九代目團十郎の仁木弾正の挿絵。

 いつぞや、鎌倉の鏑木家に、久保田万太郎と行った時、その「歌舞伎」の挿画の話が出た。
 仁木という役は、現行の演出を決定した五代目幸四郎を記念するために、どの役者も、左の眉の上に、ほくろを描くのがきまりで、団十郎もそうしていた。
 清方は下絵に、ほくろを正しく描いたのだが、版にする時に、職人が墨がはねたと思って、消してしまったのを、製本になった雑誌が届いた時発見して、三木竹二が苦い顔をしたそうだ。
「どうなさったんですか」とぼくが訊いたら、「一冊一冊、そのページをあけて、筆でほくろを描いたんです」と清方は、何となく楽しそうな顔をしながら、いった。
 家に帰って、「歌舞伎」のその明治三十四年の十二月号の仁木の絵を見たら、たしかに印刷のインキとはちがう、墨のほくろが、そこにあったので、何ともいえぬ感慨をおぼえた。……

と、これは『太陽』所載の文章の一節。戸板さんの書棚に所蔵のその『歌舞伎』は、藤木秀吉の遺品の「『歌舞伎』の合本」かしら! と胸躍る。そして、わたしもいつの日か、その明治34年12月号の『歌舞伎』が欲しい! と明日の古書の夢が広がるのだった。