展覧会ノート/早稲田大学演劇博物館の『築地小劇場100年―新劇の20世紀―』

先月から、1924年6月に開場した築地小劇場の百周年を記念する新劇展が、早稲田大学演劇博物館で開催されている。


早稲田大学演劇博物館2024年度秋季企画展『築地小劇場100年―新劇の20世紀―』。会期:2024年10月3日-2025年1月19日。https://enpaku.w.waseda.jp/ex/19252/

築地小劇場および新劇をテーマとする展覧会が演劇博物館で開催されると知ったときは、いよいよ真打登場…! と大興奮だった。

真っ正面から築地小劇場もしくは新劇史全般を通史として網羅的に扱う展覧会は、わたしが演劇博物館に行くようになってからは、ありそうでなかった気がする。

早稲田大学の構内および演劇博物館に、わたしが初めて足を踏み入れたのは今から25年前の1999年6月、六代目尾上菊五郎展開催時であった。


早稲田大学坪内博士記念演劇博物館『没後五十年 六代目尾上菊五郎展』のチラシ。会期:1999年6月4日-7月15日。

前月1999年5月の歌舞伎座は「團菊祭五月大歌舞伎 六代目尾上菊五郎五十回忌追善」と銘打った興行だった。上掲のチラシを入手したのは、その歌舞伎座のロビーにおいてだったと思う。わたしが初めて演劇博物館へ出かけたのは、劇場のロビーで入手したB5サイズのチラシがきっかけだった。

と、1999年に初めて演劇博物館に行くようになって今年で25年、これまで演劇博物館では数々の企画展、常設展示・特集展示を見てきた。『築地小劇場100年―新劇の20世紀―』の展示室では、新しい発見や感覚に心ときめかしつつも、わが四半世紀の演劇博物館見物の思い出があちらこちらで胸に甦ってきたりもした。

『築地小劇場100年―新劇の20世紀―』は100年前の1924年に開場した築地小劇場を原点にした新劇史の展覧会であり、最後は2024年の現在にいたる。

築地小劇場を原点とする新劇史100年は、当然、現在の演劇までつながっている。「歴史」を展示しつつも、そのあちらこちらから、連綿と受け継がれている現在の演劇そのものが照射されている……というような一筋の道のようなものを、最後にしみじみと実感する。展示室の出口を出て、2階の廊下に貼りめぐらされている今年の演劇公演のポスターを眺めているうちに、ふつふつと感動してくるのだった。


今月上旬のとある日、劇団俳優座公演『慟哭のリア』を見に六本木の俳優座劇場へ行ったら、ロビーに演劇博物館のポスターが貼ってあった。これから先、このたびの築地小劇場展のことは『慟哭のリア』と合わせて思い出すことになるような気がする。


展覧会の始まる前から、各所で目にした『築地小劇場100年―新劇の20世紀―』のA4サイズのチラシ。色違いで2種類あるのかな?  

25年前のわたしが初めて演劇博物館を訪れたのとまったくおなじように、劇場でチラシを入手するなりポスターを見るなどして、このたび初めて演劇博物館を訪れる人もたくさんいるのだろうなあと思う。

以下は、2021年の日本近代文学館の築地小劇場展の記憶メモと合わせて、現在開催中の『築地小劇場100年―新劇の20世紀―』の見物メモ。

2021年・日本近代文学館『芝居は魂だ! 築地小劇場の軌跡 1924~1945』

演劇博物館で築地小劇場展が開催されると知ったときは、いよいよ真打登場…! と大興奮だった、と先に書いた。

真打登場の3年前、2021年10月から12月にかけて、日本近代文学館で秋季特別展として『芝居は魂だ! 築地小劇場の軌跡 1924~1945』が開催されている。

演劇空間は、戯曲、劇場、俳優やスタッフ、そして観客が響きあって一つの宇宙をなす、かけがえのない空間です。なまの舞台は残りませんが、そこにあったエネルギーは、さまざまな記録の中にうかがえます。日本近代文学館には、そうした台本、公演プログラム、舞台写真、関係者の自筆資料など、多くの演劇資料があります。今回、近代演劇史の中で特別な位置を持つ、小山内薫が立ち上げた築地小劇場に焦点をあて、震災後から戦中に至る時期を、豊富な演劇資料から浮かび上がらせる試みを計画しました。

(中島国彦「開催にあたって」(図録『芝居は魂だ! 築地小劇場の軌跡ーー 1924~1945』(公益財団法人日本近代文学館・2021年10月)より。)

 


日本近代文学館2021年度秋季特別展『芝居は魂だ! 築地小劇場の軌跡 1924~1945』のチラシ。会期:2021年10月9日-12月18日。https://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/13278/

展覧会の編集委員を務めたのは武藤康史氏。

浦西和彦氏御寄贈の大量の資料を生かしたい……というところから本展は始まった。プロレタリア演劇のチラシやプログラムを中心に、その周辺を含めた多種多様な資料があり、築地小劇場の公演が多い。そこで創設からもうすぐ百年を迎える築地小劇場(および国民新劇場)の軌跡をたどるという形で資料を並べることにした。

(図録『芝居は魂だ! 築地小劇場の軌跡ーー 1924~1945』裏見返しの武藤康史氏の文章より。)

文学資料のみならず演劇資料もたくさん架蔵していたとは、さすが浦西和彦と思う。


日本近代文学館絵葉書《吉田謙吉作成 築地小劇場第40回公演「ヴェニスの商人」舞台装置模型》。1階の受付で展覧会の入場手続きをすると、この絵葉書を手渡され、意気揚々と2階の展示室へゆくと、「1926年」のところに、この吉田謙吉による舞台装置の模型の実物が展示されていたのだった。

1924(大正13年)6月13日開場。日本初の、専用の劇場を持つ劇団であり、専属の劇団を持つ劇場だった。「演劇の実験室」「常設館」を標榜し、ひと月およそ3公演(1公演につき1作から3作ほど)、各公演10日間ほどーーという形である。演出は小山内薫・土方与志・青山杉作がかわるがわる受け持った。

(図録『芝居は魂だ! 築地小劇場の軌跡ーー 1924~1945』より。)

展示構成は、「築地小劇場ができる前」と「築地小劇場の俳優たち(丸山定夫・山本安英・杉村春子・田村秋子)」をはさんで、《専用の劇場を持つ劇団であり、専属の劇団を持つ劇場だった》築地小劇場が開場した「1924年」から、劇団が分裂した「1929年」、劇場名が11月に国民新劇場と改名する「1940年」を経て、3月の大空襲で劇場が焼失する「1945年」まで、築地小劇場の劇場としての約20年の歳月を書籍、雑誌、プログラム等の印刷物、舞台写真や舞台装置模型、原稿・日記・書簡といった自筆資料で1年ずつ時系列にたどる、というものだった。そして、検閲の具体例の紹介があるのが、いかにも近代文学館らしくてよかった。

日本近代文学館の築地小劇場展は、文学館による「演劇」の展示という点で、とても面白かった。チラシ裏の武藤康史氏による案内文には、《築地小劇場は世界文学の窓であり、日本の劇作家を奮い立たせる空間でもあったのでしょう。》という文言がある。

まずは、築地小劇場で上演された数々の戯曲の翻訳者の系譜に興味津々だった。たとえばトルストイやチェーホフは米川正夫の訳で上演されていて、上演とほぼ同時期に、岩波書店から『トルストイ戯曲全集』(1924年10月:https://dl.ndl.go.jp/pid/2627943)、『チエーホフ戯曲全集』上(1926年9月:https://dl.ndl.go.jp/pid/978187)・下(1926年9月:https://dl.ndl.go.jp/pid/978188)が刊行されている。そんな出版と上演のつながりがあちらこちらに潜んでいることに胸を躍らせたりした。


堀野正雄撮影《舞台姿 フィルス(汐見洋扮)、チェーホフ作「桜の園」より 1925年》、東京都写真美術館編『幻のモダニスト 写真家 堀野正雄の世界』(国書刊行会・2012年3月)より。


築地小劇場第15回公演・シエクスピア作・坪内逍遙訳『ジュリヤス・シーザー』(1925年1月1日~10日)、演出:小山内薫・土方与志、舞台装置:伊藤熹朔、舞台効果:和田精、舞台配光:岩村和夫。『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』(未來社・1960年9月)より。翌1926年1月の『ヴェニスの商人』は小山内薫訳で上演されている。1927年7月の『マクベス』は鴎外訳、1928年7月帝劇公演『真夏の夜の夢』は逍遙訳で上演された。分裂前の築地小劇場のシェイクスピア上演は以上4作。

当初はもっぱら翻訳の戯曲を上演していた築地小劇場は、3年目の1926年3月の第45回公演、坪内逍遙作『役の行者』を皮切りに、日本の作品も上演するようになる。以降の、築地小劇場で上演された創作戯曲のタイトル群をたどるのも楽しかった。とりわけ、築地小劇場分裂後の1930年代の三好十郎の活躍が鮮烈だった。

そして、築地小劇場の舞台に魅せられた文学者たちをたどるのが極私的にはもっとも胸が躍るひとときだった。開場の年にさっそく「舞台装置と舞台配光」に着目している川端康成に急に共感が湧いたり(https://dl.ndl.go.jp/pid/1514190/1/13)、展示されている機関誌『築地小劇場』の旧蔵者が高見順なのを確認して胸が熱くなったりした。

わたしは、築地小劇場を回想するあまたの文章のなかで、高見順の文章にもっとも愛着がある。

今日出海はその『芸術放浪』の中で築地小劇場の思い出を語って「あのゴチック・ロマネスクの劇場の入口を見ただけで、当時の青年はブルブルと震えるほど、新鮮で、芸術的な昂奮を覚えたものである」と言っている。また、こうも言っている。「高等学校の生徒である私は焼野原と化した東京に灰色の新しい小劇場が生れたのを、どんなに驚異と歓喜で眺めたことか。劇場の建築も新しかった。緞帳の葡萄のマークも斬新だった。開幕を知らせる銅鑼の音では胸が緊めつけられる昂奮を覚えた」。同じように高等学校の生徒であった私は、全く同じような昂奮を覚えたものである。緞帳のマークなど今でもはっきり眼に浮ぶ。それは、いかにも「演劇の実験室」といった感じのその劇場の正面にも、つけてあった。そのアーチ型の入口を入って、階段をのぼって、狭い廊下を横切って、客席に足を踏み入れると、五百人が定員のこの客席は、舞台に向ってひどく(――が、実感だった。)傾斜していた。そんな傾斜は日本の劇場で初めてだった。初めてなのはそれだけではなく、プロンプター・ボックスも、クッペル・ホリゾントも、それからフットライトが無くて客席のうしろからスポットの光が舞台に当てられるその照明法も、すべてが初めてづくしだった。

(高見順『昭和文学盛衰史』(文春文庫・1987年8月)、第6章「緞帳の葡萄」より。)


堀野正雄撮影《舞台姿 猫(伏見直江扮)、メーテルリンク作「青い鳥」より 1925年》、『幻のモダニスト 写真家 堀野正雄の世界』より。高見順と同年1907年生まれの堀野正雄は東京高等工業学校応用化学科在学中に、同窓の先輩の和田精の紹介で築地小劇場に出入りして舞台写真の撮影と研究をしていた(『幻のモダニスト 写真家 堀野正雄の世界』所収、藤村里美「堀野正雄年譜」)。

展示の終盤、「1943年」の項に、野口冨士男の小説『黄昏運河』(今日の問題社・1943年3月)の初版本が展示されているのが、いかにも編集委員武藤康史氏であった。武藤康史編『野口冨士男随筆集 作家の手』(ウェッジ文庫・2009年12月)の編者解説のタイトルは「演劇青年・野口冨士男」である。

1911年生まれの野口冨士男が初めて築地小劇場に行ったのは1929年頃だったというから(『文学とその周辺』(筑摩書房・1982年8月)所収、自筆年譜)、小山内薫没後、すなわち劇団としての築地小劇場は分裂したあとだった。「演劇青年」としては、野口冨士男は高見順に続く世代である。(さらにそのあとに続く世代が、1930年代前半に初めて築地に行った1915年生まれの戸板康二。)。

僕はどの年齢にあつて、あの当時を、東京といふ都会に住んで、わづかでも芸術といふことに関心を寄せてゐたほどの青年たちならば、誰にでも、多かれすくなかれ、さういふ経験がなくてはならなかつた筈である。――僕にもまた、築地小劇場(ああ、あのなつかしい灰色の小屋も、いまでは国民新劇場と名をあらためてしまつたのだ)や、帝国ホテルの演芸場や、やがては本郷座や、市村座や、帝国劇場などでもおこなはれるようになつた新劇の公演といふ公演は、ただのひとつも見のがすまいとして追ひ歩いてゐた、ひとつの時期があつた。

(野口冨士男『黄昏運河』(今日の問題社・1943年3月)より。)

築地小劇場にまつわる展示物を目にすることで、同時代の文学者たちの新劇に対する胸の高まりを実感するかのような気分になった。文学資料で「演劇」を見るということの歓びにあふれた展覧会だった。

 


日本近代文学館の築地小劇場展から3年、築地小劇場100周年の今年、越谷市立図書館の野口冨士男文庫より『野口冨士男戦前日記』が刊行された。1933年1月3日から始まる戦前日記。野口冨士男は同年9月に紀伊國屋出版部に入社し『行動』の編集者となった。『行動』に初めて寄せた原稿は、1933年10月の築地小劇場の劇評「築地のハムレット」であった。


2024年・早稲田大学演劇博物館『築地小劇場100年―新劇の20世紀―』

日本近代文学館の築地小劇場展のメインタイトル「芝居は魂だ!」は、築地小劇場第13回公演『夜の宿』初日の1924年10月15日に書かれた小山内薫の詩に由来する(https://dl.ndl.go.jp/pid/1514188/1/4)。

小山内が「芝居は魂だ!」と吠えてからちょうど100年後の2024年10月、いよいよ、早稲田大学演劇博物館の企画展『築地小劇場100年―新劇の20世紀―』を見られる運びとなった。

日本近代文学館の築地小劇場展が「劇場」としての築地小劇場の1924年から1945年までの歳月を「文学」という観点からたどる展示であったのに対して、演劇博物館の築地小劇場展は、明治維新後の19世紀から21世紀の現在にいたる100年以上にわたる近代日本演劇史を、さまざまな演劇資料で包括的にたどるヴァラエティに富んだ展示となっている。

第1室「第1章  築地小劇場まで」
① 川上音二郎と新演劇
② 文芸協会から芸術座
③ 自由劇場
④ 多様な新劇運動
⑤ 新劇と劇場
第2室「第2章  築地小劇場とその時代」
① 関東大震災後の銀座と築地小劇場
② 小山内薫と築地小劇場
③ 吉田謙吉と舞台美術
④ 築地小劇場の舞台機構
第3室「第3章  築地小劇場から」
① プロレタリア演劇運動
② 太平洋戦争と演劇
③ 戦後の新劇
④ 新劇人の面影

築地小劇場を原点に、それ以前と以後、現在にいたるまでの日本近代演劇史を展覧している。したがって、もっとも長いスパンを展覧する第3章が、ヴォリューム的にも総展示の半分以上を占めている。

さらに、企画展示室外の、1階の「京マチ子記念特別展示室 日本の映画とテレビ」では、「新劇展関連映画」が毎日午後2時から上映されている。会場の案内パネルを書き写すと、上映作品とその日程は下記のとおり。

1. 今井正『また逢う日まで』1950年東宝/9月21日-10月6日
2. 滝沢英輔『地熱』1938年東宝/10月7日-10月20日
3. 溝口健二『女優須磨子の恋』1947年松竹/10月21日-10月27日
4. 吉村公三郎『我が生涯の輝ける日』1948年松竹/10月28日-11月10日
5. 今井正『にごりえ』1953年文学座・新世紀映画社/11月11日-11月24日
6. 成瀬巳喜男『晩菊』1954年東宝/11月25日-12月8日
7. 伊藤大輔『反逆児』1961年東映/12月9日-12月22日
8. 森川時久『若者たち』1967年劇団俳優座・新星映画/12月23日-1月12日
9. 佐伯清『早稲田大学』1953年東映/1月13日-1月31日

という次第で、五感で味わう近代日本演劇史、2018年の演劇博物館で『ニッポンのエンターテインメント 歌舞伎と文楽のエンパク玉手箱』と銘打った企画展が開催されていたが(https://enpaku.w.waseda.jp/ex/5685/)、言うなれば、このたびの展覧会は「ニッポンのエンターテインメント 新劇のエンパク玉手箱」といった趣きであった。

第1章:築地小劇場まで

第1章「築地小劇場まで」は、川上音二郎の「正劇」で始まる。「①川上音二郎と新演劇」でまっさきに目にするのは、《井上正夫画「川上音次郎のオッペケペー」》であった。「昭和十二年三月正夫寫」と書き添えられている。その前月、1937年2月の歌舞伎座は「新派創立五十年祭記念興行」であったことを思い出す。そして、1937年は文学座が創設された年でもある。


銀座松坂屋「都新聞主催 五十周年記念 新派まつり」(1937年1月30日-2月12日)のチラシ。1937年2月歌舞伎座の「新派創立五十年祭記念興行」に合わせて、銀座のデパートで開催されたイヴェント。当時、銀座松坂屋には小山内薫および久保田万太郎門下の大江良太郎が宣伝部員として勤務していた。大江良太郎は師の久保田万太郎同様に、新劇と新派の両方に深く関係していた。

新派の歴史はその起源を、角藤定憲の「壮士芝居」が生まれた1888年12月としている(https://www.shochiku.co.jp/shinpa/index.html)。新派の誕生から文学座の誕生まで、その間のおよそ50年の演劇史は従来からあった歌舞伎と歌舞伎以外の新演劇、すなわち新派、新劇、新国劇、軽演劇……が発祥して混じり合って互いに影響しあって過ぎていった。それは、映画や音盤、放送とも絡んでいくことととなった。

「築地小劇場まで」はすべてのジャンルの役者が新しい演劇を渇望した時代だったといえるのかもしれない。明治・大正の東京で新しい演劇を試みた歌舞伎役者、新派役者、そして新演劇の役者のそれぞれの試みを築地小劇場前夜という文脈で見ることで、以前見た資料を別の角度から新しく見ることができて、大興奮だった。あちらこちらで、この四半世紀に見た展覧会のことを思い出すのも楽しかった。

西村賢太編『根津権現前より 藤澤清造随筆集』(講談社文芸文庫・2022年6月)は、1920-30年代演劇随筆集として大いに楽しんだのだったが、同書に収録されている「火と風とに捧ぐ」(初出:『演劇新潮』1925年4月号)に、以下の一節がある。築地小劇場開場の翌年の文章である。

僕は、今度かの女が夫川上音二郎氏の遺志をつぐために、福沢桃介氏から取りだしたと言われている、百万円の金を手にするが最後差当りこれを築地小劇場へ寄附してやりたい。でなければ僕は、差当りこれを、畑中蓼坡氏達のやっている新劇協会へ寄附してやりたい。この方が川上音二郎氏の遺志をつぐという点からいえば、どれだけその実をはたす事になるか知れないから。

この一節を、第1室の川上音二郎の展示の前で唐突に思い出した。

「①川上音二郎と新演劇」では、1903年2月明治座の『オセロ』の舞台写真と台本、同年6月明治座の『ヴェニスの商人』の舞台写真が展示されている。『ヴェニスの商人』は法廷の場のみの上演で、ポーシャが貞奴、シャイロックは川上だった。土肥春曙の翻訳による上演で、同月に脚本が刊行されている(『ゼ・マーチャント・オブ・ヴェニス』服部書店・1903年6月:https://dl.ndl.go.jp/pid/897024)。

土肥春曙はその序文に、《往年倫敦に在りし時、サー、ヘンリー、アーヴイングのシヤイロツクを見しは、原作を訳するに当り、少なからぬ便利を得たり。》と書いている。アーヴィングは1878年から1902年までライシーアム劇場の支配人であり、エレン・テリーとの共演によるシェイクスピア劇は一世を風靡した。特に、ベネディック、ヘンリー八世とともに、シャイロックが生涯最高の当たり役だった(『研究社 シェイクスピア辞典』)。

土肥春曙は、1901年川上音二郎一座の渡欧の際に通訳として同行、帰朝後、1905年に坪内逍遙のもとで易風会を組織して初舞台を踏み、1909年に設立された第1次文芸協会で演技主任となり、『ヴェニスの商人 法廷の場』(1906年11月歌舞伎座)のポーシャ、『ハムレット』(1907年11月本郷座)のハムレットを演じた(『研究社  シェイクスピア辞典』)。

 と、土肥春曙を仲立ちのようにして、川上音二郎に続いて、展示は「②文芸協会から芸術座」となる。《逍遙コレクション  文芸協会への贈旗》には、「クラブ美髪団 ポマード」の文字が入っており、中山太陽堂から寄贈されたことがわかる。

第2次文芸協会の第1回公演(1911年5月帝国劇場)の舞台写真、《文芸協会(第2次)第1回公演「ハムレット」舞台写真  ハムレット苦諌の場》と《文芸協会(第2次)第1回公演「ハムレット」舞台写真  オフィリア狂乱の場》が展示されている。土肥春曙が1907年11月に本郷座で演じたハムレットは、「文芸協会演芸部第二回大会」の番組の一つのダイジェスト上演だった。1911年5月帝劇の『ハムレット』は逍遙訳による完全上演であった。

舞台写真と合わせて、《逍遙コレクション  文芸協会劇「ハムレット」服装・小道具下絵》を見ながら、「端正な容姿と美しい声」(『研究社 シェイクスピア辞典』)の土肥春曙のハムレットに思いを馳せる。


1911年5月20日初日帝国劇場・文芸協会第1回公演「ハムレット」番組。演劇情報総合データベース(https://enpaku.w.waseda.jp/db/) > 近世芝居番付データベース:ロ24-00018-0829。『坪内逍遙事典』(平凡社・1986年5月)の「文芸協会」(河竹登志夫)の項に《…最も良心的なシェークスピア上演として評価され、興行的にも成功した。しかし一般思潮はすでに自然主義に傾き、二年前自由劇場のイプセン上演により近代劇時代に入っていたため、逍遙の訳文の古典味と演出の歌舞伎調とともに、シェークスピアを取り上げること自体を古いとする批判も生じた。》とある。

このプログラムをわたしが初めて見たのは、2002年開催の演劇博物館企画展『よみがえる帝国劇場』の会場においてだった。漱石の『硝子戸の中』を思い出して、ジーンと感激にひたったのが今も懐かしい。



この公演の2ヶ月前に開場したばかりのきらびやかな帝劇。レート化粧品と森永の広告がまた嬉しいのであった。明治以降の文学や演劇が外国の影響を受けて変遷していったのと同じように、明治以降の日本の産業は輸入品の国産化の過程であった。


1911年4月3日開橋記念の日本橋の絵葉書(青雲堂出版部『帝都日本橋開橋式記念』)。前月に帝国劇場が開場したばかりという時代相を体現するような白亜の日本橋。

文芸協会の背後のガラスケースには、『サロメ』にまつわる資料が数点。『サロメ』の本邦初上演は1913年12月帝劇の芸術座、松井須磨子と澤田正二郎の共演であった。そして、松旭斎天勝一座のサロメ(1915年7月有楽座)を演出したのはほかならぬ小山内薫だった。この隣りに、島村抱月の芸術座のプログラム類が並べられている。仁丹やレート化粧品などの広告につい目が行ってしまう。会場は近松座や浪花座だったりする。その背後には松井須磨子のレコードが流れている。

人は芸術座に新劇普及の功績を認めるが、日本全国から満洲や浦塩にまで跨るあの巡業が成り立つたのは、桁の違ふ映画や音盤の宣伝力に支へられたからで、今、小山内は、自ら信ずる「一元の道」によつて、この複雑な勢力に対抗しなければならないことになつたのである。

(久保栄著『小山内薫』(文藝春秋新社・1947年2月)より。)

と、なんとはなしに久保栄著『小山内薫』のなかの記述を思いだして、さらに《やっとこれから二元の道を本来の形で追求できるやうになつたところで、抱月は、その日までに新劇を俗化させたといふ汚名だけを着て死んで行つたのである。》というくだりを思い出す。芸術性と商業性の二元の道。

かわいそうな抱月! としみじみしながら、次は、「③自由劇場」へと向きを変える。まっさきに視界に入ったのは、《二代目市川左団次「ジュリヤス・シーザー」アントニヤスの甲冑》であった。

 明治四〇年(一九〇七)の洋行中、左團次がローマで自身の身体に合わせて造らせたもので、甲冑、マント、刀剣、靴など一式揃いである。しかし、没するまで使用されることはなかったということである。 実際、左團次は洋行中イギリスに渡り、「ジュリアス・シーザー」を「テンペスト」や「十二夜」とともに観劇している。「ジュリアス・シーザー」を観た時には、シーザー暗殺直後の、ブルータスの群衆に向けての演説の場面に、市民が何百人と出ているが、その統一のとれていて気を入れてやっている良さには、実に感心させられたと述べている。

(図録『二世市川左團次展―生誕一三〇年・没後七〇年によせて―』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館・2010年10月)より。)

今回は頭部(冑)のみの展示で、冑の背後には、1925年3月歌舞伎座の《逍遙コレクション「ジユリヤス・シーザー」絵看板》が展示されている。


1925年3月月歌舞伎座、沙翁原作・松居松翁舞台監督『ジユリヤス・シーザー』、『新演芸』大正14年4月号(最終号)より。マーカス・アントニヤス=二代目市川左團次、ジユリヤス・シーザー=七代目松本幸四郎、カルパニヤ=二代目市川松蔦。この2ヶ月前、1925年の年明け、築地小劇場は第19回公演として『ジュリアス・シイザア』を上演している。いずれも逍遙訳での上演。

川上音二郎、文芸協会、二代目左團次、前進座……というふうに、第1章の展示室には日本のシェイクスピア上演史が通底している。そして、日本のシェイクスピ上演史は第3章まで一貫して通底しているのであった。

1928年7月の左團次のソヴィエト公演にまつわる《二代目市川左団次ソビエト公演記録貼込帖》と《二代目市川左団次ソビエト公演貼込帖兼歌舞伎写真アルバム(市川松三郎旧蔵)》は、2010年の演劇博物館の『二世市川左團次展』で強く印象に残っていた。このたび、築地小劇場展という文脈であらためて対面すると、たいへん含蓄深いものがあった。

1909年11月有楽座の自由劇場第1回試演と聞いて、多くの人がまっさきに思い出すのは森鴎外のことであろう。自由劇場に続く「④多様な新劇運動」では、近代劇協会や舞台協会、公衆劇団といった展示を見て、文京区立森鴎外記念館の2014年の特別展『暁の劇場―鴎外が試みた、或る演劇』のことを思い出して、胸を熱くするのだった。展示、図録、関連講座のすべてが素晴らしかった。


文京区立森鴎外記念館の図録『暁の劇場―鴎外が試みた、或る演劇』(2014年)と金子幸代著『鴎外と近代劇』(大東出版社・2011年3月)。

1913年、上山草人の近代劇協会で鴎外訳『マクベス』が上演され、続いて、新派役者の河合武雄らによる公衆劇団では『エレクトラ』と同時に鴎外作『喜劇  おんな形』を上演している。


1913年9月26日から30日まで、近代劇協会が鴎外訳『マクベス』を上演している。その番組には、三越の広告とともに、鈴木書店刊『エレクトラ』の広告。演劇情報総合データベース(https://enpaku.w.waseda.jp/db/) > 演劇上演記録データベース(上演IDNo.08295-30-1913-09-02)。


近代劇協会の鴎外訳『マクベス』の翌日、1913年10月1日から五日間、公衆劇団が『風刺劇マクベスの稽古』『現代劇茶を作る家』、松居松葉訳『悲劇エレクトラ』、鴎外作『喜劇女かた』を上演している。演劇上演記録データベース(上演IDNo.08295-30-1913-10-01)。

と、鴎外のことを思い出していると、眼前に《新国劇「カレーの市民/父帰る/国定忠次」辻番付》(1921年)が展示されているのを目の当たりにして、おお! 新国劇! と興奮は続く。表現主義の『カレーの市民』の本邦初上演は実は澤田正二郎の新国劇であった。新国劇の代表的演目となる『国定忠治』、大正期の代表的戯曲である菊池寛『父帰る』と同じ土俵で『カレーの市民』が上演されていたというのが、1920年代文化だったといえるかもしれない。

「④多様な新劇運動」に登場する舞台協会は先ほど見たばかりの文芸協会を出発点としており、新国劇は芸術座を脱退した澤田正二郎により結成された。のちに新派を代表する水谷八重子はもともとは芸術座で初舞台を踏んでおり、民衆座(新劇協会)が1920年2月に有楽座で上演した『青い鳥』では友田恭助と共演していて、この共演を機にわかもの座に招かれた。


《舞台画「青い鳥」第3幕 思ひ出の国(原画)1920年》、『思い出の名作絵本 岡本帰一』(河出書房新社〈らんぷの本〉・2001年8月)より。


《舞台写真「青い鳥」第3幕 思ひ出の国 道具方の職人たちとともに 1920年》、『思い出の名作絵本 岡本帰一』より。

   友田は民衆座の「青い鳥」に、早大の学生だったが犬で出演、チルチルに扮した八重子と、のちに「わかもの座」という演劇グループを作った。
  この二人が結ばれず、友田は秋子と築地で一座して、結婚する。そして、新劇育ちの八重子が、映画を経て新派女優となるわけだ。人間の運命は、いろいろな綾を作って交差する。

(戸板康二『物語近代日本女優史』(中央公論社・1980年5月)、「山本安英/田村秋子」より。)


1924年4月に田村秋子は築地小劇場の研究生となった。ちょうどこのころ、同年2月から5月にかけて、田村秋子は水谷八重子の第2次芸術座に出演していた。牛込会館での舞台の稽古のときに、初めて友田恭助と話をしたという。この画像は、1924年4月1日牛込会館初日・芸術座(演劇上演記録データベース:上演IDNo.07276-30-1924-04-01)のアンドレーエフ作『殴られるあいつ』であろうか。『悲劇喜劇』1983年7月号《特集・田村秋子》に掲載の図版。

《『水谷八重子 舞台生活五十年記念公演アルバム』》(1963年私家版)は、「ハムレット」のページが開かれて展示されている。


《初代水谷八重子「ハムレット」写真》1933年12月明治座、『図録『新派 SHIMPA――アヴァンギャルド演劇の水脈』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館・2021年10月)に掲載の図版。「各派男女優合同劇」で歌舞伎・新派・新劇の役者が共演。レアティーズは片岡我當(十三代目仁左衛門)!

『英語青年』1964年5月号《シェイクスピア生誕400年記念号》の「年表:日本におけるシェイクスピア」によると、1933年秋、中央公論社の坪内逍遙訳『新修シェイクスピア全集』刊行記念上演として、浅草松竹座で松竹少女歌劇団『ロミオとジュリエット』、明治座で左團次一座『ヱニスの商人』、そして築地小劇場で『ハムレット』が上演された。この八重ちゃんのハムレットは、築地小劇場の薄田研二に引き続いて演じられたハムレットだった。1911年の土井春曙のハムレットから22年、1930年代へいたる演劇状況の変遷は目まぐるしい。

新派役者にまつわる展示では、《花柳章太郎旧蔵 新劇座関連書簡》(1922年)に大感激であった。新劇座には小山内薫と土方与志も関係しており、築地小劇場前夜の資料としても極上である。

 第一回の公演を終つた時、明治座の食堂で小山内先生、土方氏の両演出関係者一同で、握り飯をほゝばつて次のプランを立てたあの時の気持、二回目の『夜の鳥』を瀬戸氏が書いて、皆暑中一ヶ月も稽古をしてわづかな回数の芝居をしたことも、三回目の『雨空』でつかふ西瓜がその頃万惣で四半分の物を二十五円で買つて、その時の新劇座で一番金高であつたことも、大阪で『狐』をやつた時、全部払つたら新聞広告第だけが足りず、クラブの中山さんが用立てゝ下さつた時、又復活してからの『愛すればこそ』の出道具一切、各自の家から集めて小道具を倹約したこと、今度の『春琴抄』の出道具も矢張り、その通り。何時の公演にも少しの無駄をしないやう、自づと同人一体に実に純な気持で芝居をたのしんで居ることが、たまらなく私は可愛いと思ひます。

(花柳章太郎「新劇座今昔」(『紅皿かけ皿』双雅房・1936年6月)より。)

などなど、1900年代から1920年代にかけての百花繚乱の演劇資料で近代日本演劇史を体感して興奮しっぱなし、《人間の運命は、いろいろな綾を作って交差する。》、そんな「いろいろな綾」が展示室に満ち満ちているのだった。

そして、1930年代、プロレタリア演劇華やかなりし頃に誕生した前進座のポスターもそのデザイン、演目の並びに惚れ惚れであった。

1934年2月と1937年6月のいずれも新橋演舞場の公演ポスターで、下部の「レート白粉」「レートクリーム」の広告も目に楽しい。さきほどの、新国劇の演目とおなじように、いずれのポスターも演目の並びが素晴らしい。1934年2月は逍遙作『沓手鳥孤城落月』、エルマー・ライス『街の風景』(久保栄演出)、鶴屋南北・渥美清太郎改訂『お染の七役』で、1937年6月はユージン・オニール『初恋』(村山知義翻案並びに演出)、歌舞伎十八番『鳴神』、長谷川伸『百太郎騒ぎ』という並び。この並びがなんだかとっても琴線に触れるのであった(なぜだろう?)。

ここには《村山知義直筆原稿「映画と前進座」》が展示されている。東宝発行のグラフ誌『エスエス』のスタンプが押してある。前進座出演の山中貞雄の映画のことを思いだして、1930年代の日本映画の成熟にも胸が及ぶ。

「築地小劇場まで」の近代日本演劇は、映画と音盤の普及とパラレルになっている。そして、築地小劇場の時代以降は、さらに放送が加わる。演劇はそれらと密接に結びついているという、特に言うまでもないことを、なんとはなしに痛感するのだった。

そんな第1章「築地小劇場まで」の最後を飾る展示は「⑤新劇と劇場」。有楽座・帝国劇場・明治座・市村座・春木座(本郷座)・帝国ホテル演芸場のパネル写真が掲げられ、本邦初の新劇専用の築地小劇場ができるまで新劇が上演されていた劇場、すなわち、震災前の東京の代表的な劇場が並ぶ。自由劇場第1回試演の会場となった有楽座は初の西洋風の劇場で、自由劇場前年の1908年に開場した。

戸板「有楽座っていうのは劇場としてはどうだったんですか。」
田中「気持は小劇場としてちょうど手ごろでしたね。築地もやりよかったでしょうが、有楽座の舞台は大へん具合がよかったんですね。ほかにないところですから。帝劇へ行くと少し広すぎる感じがしました。伊井蓉峰一座の新派劇が有楽座で三月ばかりやりましたが、声を張らなくて通るんで、みんな自然な芸をするようになったものです。有楽座に馴れてからあとで本郷座や明治座に出たら、今度は声が通らなくてみんな大へん苦しみました、声を張らなければならないので。」
(戸板康二『対談日本新劇史』(青蛙房・1961年2月)、「田中栄三の巻」より。)

自由劇場第1回試演と同年の1909年作の鴎外による初の現代劇『仮面』(『スバル』1909年4月号)がわたしは妙に好きなのだが、そのなかに、《「電車が出来ましてからは、もう寒くて人力には乗れないのでございます。」》というご婦人の台詞がある(https://dl.ndl.go.jp/pid/947404/1/94)。

東京市内に路面電車が走るようになって、都市生活はかなり変わったことだろう。劇場への行き来にも影響を及ぼしたことだろう。劇場のパネルを見ていると、そんな東京の都市生活のなかの劇場というようなことを思う。


震災前の帝国劇場の絵葉書。お濠端にそびえ立つ横河民輔設計の白亜の美しい劇場、その正面写真のまわりに市電の線路をあしらったデザインがチャーミング。


震災後、1924年10月の改築記念興行以降の帝国劇場の絵葉書「こんやは帝劇 あすわ上野の博覧会へ」。

1911年3月に開場した帝国劇場は、会場の解説によると、プロセニアムアーチが設けられた日本初の劇場だったという。

第1室には《旧帝国劇場舞台「屋上の狂人」舞台装置模型》も展示されている。田中良による舞台装置とともにまさに帝劇のプロセニアムアーチが模型となっているのだった。 菊池寛作『屋上の狂人』は十三代目守田勘弥らにより1921年2月帝劇初演、まさに新国劇の『カレーの市民』と同年であった。


ついでに、『屋上の狂人』上演時の1921年2月帝劇の絵本筋書。演劇情報総合データベース(https://enpaku.w.waseda.jp/db/)  > 演劇上演記録データベース(上演IDNo.08295-30-1921-02-01)より。「劇場の帰途」なる読み物がたのしい。こういうの大好き。


第2章:築地小劇場とその時代

第1章「築地小劇場まで」は関東大震災で締めくくられる。階段を上がって、2階の展示室へゆき、次は、第2章「築地小劇場とその時代」。

先ほど、第1章の「⑤ 新劇と劇場」コーナーで、都市生活と劇場ということに思いを馳せていたところで目にする「①関東大震災後の銀座と築地小劇場」では、「築地・銀座 1930」と題された大きなパネルが掲げられていて、銀座と築地界隈の地図とともに、築地小劇場が登場する文章が紹介されている。

地図、写真、抜書きとともに岡本帰一による築地小劇場の観客を描いたモダン味あふれる挿絵が掲載されているのが、また素晴らしい。この挿絵はプラトン社の雑誌『女性』1926年1月号「初日の人々」(https://dl.ndl.go.jp/pid/1566321/1/156)に掲載されたもので、築地小劇場2年目を描いている。

「築地・銀座 1930」と題された大きなパネルには、

● 山本安英「私の心のふるさと」(阿部知二・清水幾太郎編『女子学生ノート』(新評論社・1953年3月) 所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3032401/1/156
● 細川ちか子「築地小劇場のころ」(高見順編『銀座』(英宝社・1956年2月)所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2984605/1/65
● 水品春樹『小山内薫と築地小劇場』(町田書店・1954年5月)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2468307/1/66

といった築地小劇場の舞台関係者と合わせて、

● 高見順『私の小説勉強』(竹村書房・1939年7月)所収「文学的自叙伝」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1686226/1/19
● 大岡昇平『少年 ある自伝の試み』1975年11月筑摩書房初版

開場の年1924年から築地小劇場に熱狂していた文学者として、二人の文学者の回想が紹介されている。

とりわけ胸が躍るのは喫茶店のくだりで、銀座西六丁目の不二家が山本安英、細川ちか子、大岡昇平の文章に登場している。銀座の不二家は震災直前の1923年8月開店、震災後、築地小劇場開場同年の1924年にバラックで再開して以降(https://www.fujiya-peko.co.jp/company/company/history.html)、文学人や演劇人たちの溜まり場となったようだ。


築地小劇場第52回公演『横面をはられる彼』(1926年10月22日-26日)プログラムの「銀座不二家洋菓子舗」の広告(演劇情報総合データベース(https://enpaku.w.waseda.jp/db/) > 演劇上演記録データベース:上演IDNo.08292-30-1926-10-01)。「観劇のお帰りには銀座へ!」「銀ブラの幕間には不二家へ」のコピーがいいなあ…!

 三好という文学好きのボーイがおり、いつも文士たちを優遇してくれたのだという。演劇人の青山順三は次のように回顧している。
 《昭和のはじめ、銀座に不二屋というカフェがあって、「築地」の芝居がハネると、私たちはよくその店に立ち寄って、仲間と雑談をたのしんだ。
  文士やジャーナリストや、歌舞伎の連中もやってきて、パリにでもありそうな、おっとりした店の文化サロン的なフンイキが、なかなか魅力的だった。
  ボーイの三好君が、こまめにテーブルの間を歩きまわって、しきりなしにグラスにウォーターを注ぎ足してくれるので、コーヒ一杯でいくら話しこんでも気兼なしに坐りこんでいられるのが嬉しかった。》 
 三好は新居格びいきで、菊池寛ぎらいだったともあるが、これは『文芸時代』同人の影響だろう。
 《この銀座の『不二家』に作家ひいきの(あるいは文学ひいきの)三好というボーイ頭がいて、そんな関係からか、その店へは作家がよく集まっていた。三好という作家ひいきが、『不二家』からいなくなってから、作家のいわゆるたまりは、やがて銀座の角店の『コロンバン』に移った。》

(林哲夫『喫茶店の時代』(ちくま文庫・2020年4月)より。)

銀座不二家は『文芸時代』の溜まり場でもあった。名物ボーイだった三好貢は『歩道』というリトルマガジンを出していた。


築地小劇場展を見終わったあと、演劇博物館1階の図書室で十年以上ぶりに『歩道』を閲覧したのも楽しいことであった。演劇博物館の図書室に第1号(1929年3月)が所蔵されている(請求記号:KB 454)。松崎天民が「銀座病患者」と題した小文を寄稿しており、松崎天民がいかにも似つかわしい誌面。「新国劇楽屋レヴュー (1)」なる記事があり、澤田正二郎の堀田隼人の写真が載っている。この雑誌は澤田の他界と同月であった。同月、築地小劇場も分裂してしまう。


「築地・銀座 1930」地図には吉田謙吉が住んでいた銀座アパートも! 今も奥野ビルとして健在の近代建築。この写真は、福田勝治写真集『銀座』(玄光社・1941年7月)より。塩澤珠江著『父・吉田謙吉と昭和モダン』(草思社・2012年2月)に掲載の小津安二郎からの吉田謙吉宛軍事郵便の図版(p.101)の宛先住所は「東京京橋銀座一丁目銀座アパート二〇五」となっている。


さらに「築地・銀座1930」には三ッ喜ビルも! この写真は、1935年の銀座七丁目並木通り東側、師岡宏次写真集『オールドカーのある風景』(二玄社・1984年1月)より。川喜田煉七郎の営む川喜田能率研究所がある三ッ喜ビルの2階に、テアトル・コメディの稽古場があった。伊藤熹朔の「六人会」の事務所もあった。1930年代を代表する小出版社のひとつ、版画荘も同じ建物にあった。長岡輝子著『ふたりの夫からの贈りもの』(草思社・1988年4月)』によると、このビルは1987年まであったらしい。

いつまでも「築地・銀座1930」地図を眺めていたくなるが、次は「②小山内薫と築地小劇場」。小山内薫関係の展示とともに、ルパシカの実物まで並んでいる。宮本研『美しきものの伝説』(1968年4-5月文学座初演)の小山内薫の役名は「ルパシカ」であった。展示室のルパシカはただのルパシカではなく、《「吉田謙吉・資料編纂室」蔵 吉田謙吉旧蔵 ルパシカ》という、由緒正しいルパシカである。

銀の台つきのカップで呑む紅茶。ガラスがじかに口に当って熱く、飲みにくけれど、われわれの世代には昔なつかしいコップなり。十七歳の頃はわざと陶器の茶碗を避け、このコップから飲んだものである。多分築地小劇場のチェホフ劇の舞台から広まった習慣なり。

(大岡昇平『文学的ソヴィエト紀行』(講談社・1963年10月)より。)

つい先ほど、大岡昇平の『少年』の引用を読んで、ひさびさに大岡昇平のことを思い出していたところだったので、唐突に大岡昇平のロシア旅行記のことを思い出したりもした。演劇青年のロシア趣味のようなものを思う。

「②小山内薫と築地小劇場」では、まずは《小山内薫筆「破戒」演出プラン》に注目であった。小山内薫の真砂座時代!


1906年7月10日初日真砂座「破戒/博多小女郎波枕/放心家」辻番付。演劇情報総合データベース(https://enpaku.w.waseda.jp/db/) > 近世芝居番付データベース:ロ22-00054-0720。


小山内薫『大川端』(籾山書店・1913年1月)の扉ページ。刊行時、小山内は洋行中(1912年12月~翌年8月)であった。『大川端』は読売新聞に1911年8月8日から9月13日まで全35回連載。久保田万太郎とその仲間たちが大変心酔した小説。この当時、久保田万太郎の親しい友人である大場白水郎が籾山書店でアルバイトとして勤務、「胡蝶本」を手伝っていた。

小山内薫の「大川端」時代と彼に心酔した文学青年たちに思いを馳せていると、《小山内薫自筆原稿「黙阿弥の世話狂言」》が視界に入る。去年の演劇博物館の秋季企画展の黙阿弥展では『世話狂言の研究』の初版本(天弦堂書房・1916年11月)が展示されていたが、今年の築地小劇場展では自筆原稿……! と興奮は続く。

それから、特筆すべきは久保栄にまつわる資料! 《「ホオゼ」(カール・シュテルンハイム作、久保栄訳)大道具帳》(1926年3-4月築地小劇場他)は、久保栄の初の翻訳戯曲の上演で、久保栄が築地小劇場と関わりを持つきっかけになったと解説されていて、なんと臨場感あふれる資料であることかとジーンとなる。宮本研『美しきものの伝説』の久保栄の役名は「学生」であった。


《築地小劇場「ホオゼ」大道具帳》、図録『演劇博物館80周年記念 名品図録』より。同図録には、《同作は築地の東京公演以前に、宝塚・名古屋の地方公演で上演されており、この大道具帳には地方・東京の両公演の資料が含まれている。舞台装置は吉田謙吉が得意とした丸太組構成で、その抽象的なデザインに応じた大道具の細やかなデザイン設計となっている。特にその彩色によって、現存する白黒写真ではわからない舞台の豊かな色彩を僅かながらも知ることができる。》と解説されている。同図録では久保栄には言及されていない。


「築地小劇場第二回宝塚公演ポスター」(1926年3月23-28日)、図録『ポスターでたどる戦前の新劇』(関西学院大学博物館・2018年6月)より。カール・シュテルンハイム作・久保栄訳『ホオゼ』は宝塚、名古屋の巡演を経て、同年4月16日から十日間、築地小劇場で上演された(演劇上演記録データベース:上演IDNo.08292-30-1926-04-01)。前回の第45回上演は逍遙作『役の行者』というエポックメーキングな上演だった。

そして、先ほどから折りにふれて久保栄著『小山内薫』の記述を思い出していたところで、《久保栄旧蔵「小山内薫」執筆ノート》に対面して、ガラスケース越しにいつまでも凝視してしまう。戸板康二が『思い出す顔』で「一般の文章も潔癖をきわめたが、書く字も、つねに正字をキチンと用いた。」と回想していたとおりのゆるがせにしない筆致。「執筆ノート」は、先ほど見てきた小山内の大川端時代のあたりが開かれて展示されていて、ジーンといつまでも凝視。

壁面には《築地小劇場創立当時の葡萄形マーク》が掲げられている。その下のガラスケースには築地小劇場にまつわる生資料、1934年6月の《築地小劇場「演劇興行認可申請」書類》といった経営面の資料がたいへん興味深い。1934年6月12日初日の美術座公演、伊馬鵜平作・村山知義演出『閣下よ静脈が…』の申請書類で、初日の前日に築地警察署から許可が下りている。前年に小林多喜二が惨殺されたという、生々しい時代の空気を感じる。


と、生々しい時代の空気を感じながらも、プログラムの表紙を見ると、新宿のムーラン・ルージュが体現する1930年代軽演劇の気分にうっとりもしてしまう。演劇情報総合データベース(https://enpaku.w.waseda.jp/db/)> 演劇上演記録データベース:上演IDNo. 08292-30-1934-06-02。

また、創立時の同人の一人であった和田精の旧蔵資料として、《和田精旧蔵 築地小劇場舞台平面図》、 《和田精「ラヂオドラマ 炭鉱の中」台本》が展示されている。《和田精旧蔵 築地小劇場舞台平面図》は未使用で、舞台は方眼紙のようになっていて、ここに装置の図面を描いたということがイキイキと実感できる。和田精が和田誠のお父さんであると初めて知ったときの胸のときめきをいつまでも覚えておきたいものだ。


《愛宕山の東京放送局(NHK)で日本最初のラジオドラマと銘うたわれた「炭坑の中」(リチャード・ヒューズ原作 小山内薫訳・演出)放送中 左から横倉辰次 東屋三郎 小杉義男 和田精 山本 小野宮吉 藤輪和正(欣司) 近藤正子(25.8.13)》、『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』(未來社・1960年9月)より。

ちょっと面白かったのが、《坂本万七旧蔵 築地小劇場関係資料 大入袋》。会場の解説によると、商業演劇の習慣である大入袋は初代左團次が配ったのが最初なのだそうだ。

山本安英が、戸板康二との対談で、

……随分いろんなことが築地時代ございまして、面白いんですよ。ノボリなんぞ貰いましたね。近代的な築地小劇場の建物の両側に「築地小劇場さん江」「新築地劇団さん江」という幟がずらりとならんだり、座布団なんかもああいう芝居をやってるにも拘らず贈られたりね。それから大入りの文字を彫刻した額なども。一方、昔のをそのまま引きずってる形は随分ございますね。

(戸板康二著『対談日本新劇史』(青蛙房・1961年2月)、「山本安英の巻」より。)

と語っている。この大量の大入袋もまさに「昔のをそのまま引きずってる形」を裏付ける好資料かもしれない。 2021年の日本近代文学館《芝居は魂だ! 築地小劇場の軌跡1924~1945》展では、1940年前後に長田秀雄旧蔵の大入袋が展示されていたのだった。


当の山本安英も築地小劇場の大入袋を大量に保管していた。舞台関係者にとっては気持ち的にずっと手元に置いておきたかろう、後世に残りやすい資料なのかも。『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』より。

そして、「築地小劇場」と書かれたアーチ形の入口をくぐると、そこは「③吉田謙吉と舞台美術」と「④築地小劇場の舞台機構」の展示コーナー!


1924年の開場当初の築地小劇場の外観写真として、よく紹介される写真。この画像は、『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』より。


築地小劇場第7回公演/ヘンリツク・イプセン作・森鴎外訳『ジヨン・カブリエル・ボルクマン』(1924年9月15日~24日)上演時(https://dl.ndl.go.jp/pid/1514186/1/20)の集合写真、『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』より。

大笹吉雄『日本現代演劇史 大正・昭和初期篇』(白水社・1986年7月)によると、《劇場正面の三つのアーチのうち左手の二つが出入口で、右手の一つは同じアーチで囲まれた壁、そこに毎公演のポスターを貼るようになっており、模造紙を継ぎ足したポスターの多くは吉田謙吉の手書きだった》。

バラック建築として開場した築地小劇場はその後、土地区画整理のため1928年に移転と改築、1933年に大規模改修が施された。「②小山内薫と築地小劇場」に展示されていた《築地小劇場改築基金関係資料》は1933年5月付けの資料であった。



《創立10周年を祝う築地小劇場》1933年6月18日、図録『坂本万七 新劇写真展』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館・2008年3月)掲載。

六月十四日は築地小劇場の創立十周年にあたるので、この機に改築の宣伝や資金作りに旧築地関係者による合同公演を持つことになり、出しものとして『検察官』(ゴーゴリ作 米川正夫訳 八田元夫・水品春樹演出)と『五稜郭血書』(久保栄作 久保栄・千田是也演出)が選ばれた。

(大笹吉雄『日本現代演劇史 昭和戦前篇』(白水社・1990年11月)、第二章「プロレタリア演劇の盛衰」より。)


1933年の大改修を経た築地小劇場はインターナショナル・スタイル、図録『坂本万七 新劇写真展』に掲載の撮影者不詳の写真。大笹吉雄『日本現代演劇史 昭和戦前篇』によると、1933年8月25日に改築工事がはじまり、9月30日に完成。改築記念興行として、逍遙訳『新修シェークスピア全集』刊行のを決めた中央公論社と提携して、10月5日初日で『ハムレット』が上演された。

という次第で、築地小劇場は1933年の改築後、アーチ門がなくなってしまった……! 

「②小山内薫と築地小劇場」に展示されていた《築地小劇場模型(石膏)》はこの1933年に完成したインターナショナルスタイルの建物だった。図録『坂本万七 新劇写真展』には《築地小劇場といえば、こちらを想起する人々の方が、戦後は多かった。》とある。戸板康二にとっても、こちらの建物が馴染み深かったことだろう。

往時は3つのアーチのうち、左の2つが出入りだったけれども、展示室のアーチ門は、右の1つが出入り口。今日出海が「あのゴチック・ロマネスクの劇場の入口を見ただけで、当時の青年はブルブルと震えるほど、新鮮で、芸術的な昂奮を覚えたものである」と書いていた築地小劇場の入口。1929年の分裂前の築地小劇場を象徴するような3つのアーチは、1933年の改築以降はちょっとしたノスタルジーの対象になったのかもしれない。

《右手の一つは同じアーチで囲まれた壁、そこに毎公演のポスターを貼るようになっており、模造紙を継ぎ足したポスターの多くは吉田謙吉の手描きだった》という右のアーチ門をくぐると、そこは「③吉田謙吉と舞台美術」と「④築地小劇場の舞台機構」の展示コーナー!


 
「③ 吉田謙吉と舞台美術」と「④ 築地小劇場の舞台機構」は、1920年代モダン東京としての築地小劇場をもっともヴィヴィッドに体感できる空間となっていて、眼の歓びたっぷり。その時間と空間に埋没する。

まずは、壁面に飾られた二十数枚のポスターが圧巻であった。1924年6-7月の第1~4回公演のポスターに始まって、1929年3月の第84回公演まで、分裂前のポスターが計25枚展示されていて、そのうちの3枚は《浅草出張公演》(1927年12月・浅草公園劇場)、《帝国ホテル出張公演》(1928年7月・帝国ホテル演芸場)、《地方公演(弘前)》(1927年11月)という他の劇場での公演ポスター。弘前のポスターのみ舞台写真が使われているのが面白かった。


第18回公演「子供の日」ポスター、塩澤珠江著『父・吉田謙吉と昭和モダン』(草思社・2012年2月)より。開場半年後のクリスマス、1924年12月23日から29日まで「子供の日」が催されているのも、築地小劇場の側面。そのポスターのなんと愛らしいこと!

壁面には《吉田謙吉「私の見た築地小劇場」》というパネルがある。吉田謙吉が開場50年後に「記憶と残像をたどって」描いた築地小劇場の内面図。



吉田謙吉「築地小劇場の舞台と観覧席」、『悲劇喜劇』1973年6月号《特集・築地小劇場50年記念》所載。画像は、塩澤珠江著『父・吉田謙吉と昭和モダン』(草思社・2012年2月)より。

この内面図をじっくり見たあと、《クッペルホリゾント模型》をしげしげと眺める。そして、もう一度内面図に戻って……を何度か繰り返す。《クッペルホリゾント模型》には舞台写真が投射されていて、画像が代わるたびにミシっと小さな音をたてる。その音が100年前の劇場へと誘う。

(38) は「丸山定夫がドラを叩いた場所」。(29)の「奈落へ下りる切穴」を下りて、(36) の「舞台(間口6間奥行4間)」の下を通って、(30)の「プロンプターボックス」にいたる。高見順の胸を轟かせたプロンプターボックス、その上には (23)の「葡萄のマークのついたどん帳」。

そして、(8)と(9) が「休憩室並びに喜津祢喫茶が建てられた部分とそのカウンター」。ここに隣接する(10) は「やがて金星堂書店ができた場所」。

と、内面図を見ながらロビーの喫茶室に思いを馳せていると、《「吉田謙吉・資料編纂室」蔵 吉田謙吉が築地小劇場内の喫茶室「喜津祢」のために描いた油彩画》が展示されているというのがまた素晴らし過ぎた。


《謙吉が築地小劇場内の喫茶室「喜津祢」のために描いた油彩画〈舞踏〉大正14年》、塩澤珠江著『父・吉田謙吉と昭和モダン』より。


『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』より、《築地小劇場内食堂「きつね」で 店の少年たち 唐沢正一(右)と市橋信雄(26.12)》。前衛座第1回公演『解放されたドン・キホーテ』(1926年12月6-8日)のポスターが貼ってある!


ついでに、前衛座第1回公演、ルナチャルスキー作/千田是也・辻恒彦訳/佐野碩演出『解放されたドン・キホーテ』(演劇上演記録データベース:上演IDNo. 08292-30-1926-12-01)のポスター。図録『柳瀬正夢 1900-1945』(2013年12月)より。


それから、「吉田謙吉・資料編纂室」蔵の舞台模型として、『海戦』(1924年6月)・『社会の敵』(1925年10-11月)・『狼』(1924年7月)の3種が展示されていて、模型の前には当該公演のプログラムが並べてある。先ほど見たばかりの《和田精旧蔵 築地小劇場舞台平面図》、あの用紙にこれらの舞台装置のの平面図が描かれていたのかなと思いが及んで、胸が躍る。

『狼』は日比谷野外公会堂での野外公演(1925年8月)、《和田精旧蔵「狼」上演の際のメモ》と《和田精旧蔵「狼」台本》が合わせて並べられている。『狼』の装置は、震災後の工事現場の丸太を見て吉田謙吉が思いついた「丸太組構成舞台」の発端なのだそうで、震災復興の東京の町の中にある築地小劇場というようなことを肌で感じる思い。

《伊藤熹朔舞台装置図「横面をはられる彼」》(1925年6月)の前にも同じように、当該公演のプログラムが並べられている。


築地小劇場第30回公演『横面をはられる彼』プログラム(1925年6月15日-22日)、『ツキジ』第1巻第2号より(演劇情報総合データベース(https://enpaku.w.waseda.jp/db/) > 演劇上演記録データベース:上演IDNo.08292-30-1925-06-02)。汐見洋の写真がチャーミング過ぎる……。プログラム裏表紙のクロスワードパズルが楽しい。《前回のクロス・ウオードは印刷の間違ひで、完全に出来なかつたことをお詫びします》という緩々なところもよい。

ポスター、模型、舞台装置図、《クッペルホリゾント模型》というように、往時の築地小劇場を体感して、そして、喫茶室の雰囲気にもひたり……と、いつまでもここにいたくなってしまう。

いつもつい広告に目が行ってしまう性分なので、第53回公演ポスター(1926年11月5-21日)の「エリオット宛名印刷機」(「東洋総代理店」は神田神保町の阿部商店)の広告がたいへん印象に残った。「プログラム発送の宛名の印刷は此の機械がいたします」と書いてある。築地小劇場の事務所でも使用されていたのかな? などと、公演ポスターを見ながら、事務所に思いを馳せてしまった。


1933年2月の築地小劇場の事務所、図録『坂本万七 新劇写真展』より。ここに「エリオット宛名印刷機」はあるか?

第1回ポスターにのみ、劇場への地図が描かれている。


築地小劇場第1~4回公演ポスター(1924年6月2日-7月9日)、図録『演劇博物館80周年記念 名品図録』より。

このポスター、演目の並びや同人の顔ぶれもさることながら、席券の取扱所の並びも大変興味深い。プレイガイドと並んで、銀座の資生堂と京橋の鴻乃巣が切符取扱所となっているのが、いかにもな感じなのだった。先ほどの「築地・銀座1930」地図ともつながる、1920年代のモダン東京地図。


《バラック建築「鴻の巣西洋料理店」(大正12年12月『建築写真類聚』所載)》、奥田万里『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』(幻戯書房・2015年5月)より。→『建築写真類聚 第4期第12回 バラツク建築 第1』https://dl.ndl.go.jp/pid/962710/1/40

1910年夏に、奥田駒蔵(1882年生まれ)が日本橋小網町に開店した「メイゾン鴻乃巣」は、前年に『スバル』、開店同年に『白樺』『三田文学』が創刊されているという時代相を反映するような、文学者や演劇人が集う一種のサロンだった。

奥田万里著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』は、夫の祖父である奥田駒蔵を追跡し、メイゾン鴻乃巣の全容を明らかにする。すみずみまで調査が行き届いていて資料の渉猟ぶりが素晴らしい書物で、演劇文献にもなっている。河竹登志夫著『作者の家』を引用して、開店翌年の1911年11月に鎧橋のほとりの鴻乃巣が、河竹繁俊の養子縁組の文芸協会の友人たちを招いての披露宴の会場になったことにも言及している。

同書によると、1910年夏に日本橋小網町に開店後、1913年11月に日本橋通一丁目に移転、さらに1916年10月、京橋南伝馬町二丁目に移転し、震災で焼失後、1923年11月に復興した。復興後のバラック建築を写したのが上掲の写真、築地小劇場が開場したときの鴻乃巣の姿である。ここで築地小劇場の切符を手配することができた。店内にはポスターも貼ってあったことだろう。

築地小劇場は大正十三年六月に幕を開ける。大笹氏は著書(引用者注:『日本現代演劇史  大正・昭和初期篇』p.415)に、開場当初はその休憩室に「メゾン鴻の巣の出店」があったと書いている。劇場のプログラムなどには記録が残されていないので、しかと確認することはできないが、第二次『明星』の大正十三年七・八月号には、鴻乃巣・まるやの広告があり、「築地小劇場内喫茶店」とともにご贔屓に願いたい旨の言葉が添えられているので、開場から八月ごろまでの短期間、駒蔵はロビーの片隅に鴻乃巣の出店をおいていたのだろう。その後喫茶店は劇場近くの和菓子屋「喜津祢」は経営することになる。

(奥田万里著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』、第四章「自由人駒蔵の素顔」より。)

1924年6月の築地小劇場の開業当時、鴻乃巣は切符を取り扱うばかりではなく、劇場内に出張所まで出していたのだった。その後、店主の奥田駒蔵は翌1925年10月1日に43歳で急死、残された家族はバラック建築のメイゾン鴻乃巣の方は店じまいすることを決め、家業をスッポン料理まるやの経営に専念することを決めた。

第1回公演ポスターで席券の取扱所として名の出ていたメイゾン鴻乃巣は、築地小劇場開場の翌年に閉店してしまったのだった。このまま盛業していたら、「築地・銀座 1930」地図に掲載されていただろう……と思う一方で、『新演芸』の玄文社のように、大正ベルエポックの終焉とともに東京から消えたのは必然だったのかもしれないと思ったりもする。

と、「③吉田謙吉と舞台美術」「④ 築地小劇場の舞台機構」コーナーをあとにして、アーチ門をくぐって、ふたたび「① 関東大震災後の銀座と築地小劇場」の「銀座・築地1930」を眺めて、すっかり劇場帰りのような気分になっている。

 新富町も築地も渋谷に住む私には異境だったが、築地小劇場はこの古い下町のはずれに、小さな西欧を嵌めこんだようなものだった。夏、日の長い頃の公演では、第一幕の終りの休憩時間にはまだ外が明るいことがある。休憩時間に勝手に外に出られるにも築地の新しさの一つだった。月島の方の空にはどこか下にある海を思わせるような明るさがあり、空気に塩の匂いがまじっていた。 芝居がはねると、異様な風態をした観客がいっせいに暗い道を銀座の方へ歩いて行く。築地川を渡る橋の下の水はねっとりとした艶がある。上げ潮の時には潮の匂いが上って来る。これは渋谷川の水とはまったく違う水だった。 松屋の横で銀座の通りへ出て南へ行き、六丁目西側の喫茶店「不二家」に入る。そこにはまもなく化粧を落し、築地帽という異様なハンチングをかぶった汐見洋や東屋三郎が来るはずなので、われわれもコーヒー一杯で十時過ぎまでねばっている。

(大岡昇平『少年』第十章「美しい家」より(引用は講談社文芸文庫(1991年12月)による)。)

開場の年から築地小劇場を見ていた大岡昇平に遅れること数年、1930年代前半から築地小劇場に行くようになった戸板康二も「松屋の横」の道を通って銀座に出ていたのだろう。『銀座百点』1955年7月号にて、以下の回想を残している。

 戦争後、ぼくが銀座へ出る用事の中には、たとえば、難波橋の近くの暮しの手帖へ行くとか、文芸春秋社の地下室へゆくとか、そういうたぐいの用事もあるわけで、劇場への往き帰りの数からは、築地小劇場の分が減ったままなのが、さびしい気がする。何といっても、築地のあの小屋の前から一度屈折して、祝橋と朝日橋を通って松屋の横へ出る新劇がえりのコースは、格別な味があったのだ。

(戸板康二「銀座の書割」(『ハンカチの鼠』三月書房・1962年11月)より。)


《銀座街の二大デパート、松屋と松坂屋》、『新東京写真帖』(東京書院・1930年3月)掲載。築地小劇場の行き帰りの目印になった松屋と、大江良太郎が宣伝部員として勤務していた松坂屋。

第2室をあとにするとき、最後にもう一度、「②小山内薫と築地小劇場」に展示されている《逍遙コレクション 小山内薫「演劇博物館祝辞」》を見上げる。小山内薫の3枚の肖像写真の上に架けられている。


《演劇博物館開館式祝辞(築地小劇場)》、早稲田大学文化資源データベース(https://archive.waseda.jp/archive/index.html) > 企画展『演劇人 坪内逍遙』データベース(資料番号:02951)。

この真下のガラスケースには、《築地小劇場売上票》が展示されている。1928年10月から12月にかけて、すなわち小山内薫急死直前の売上票である。死の前月、11月の第80回公演、里見弴『たのむ』と久保田万太郎『大寺学校』が上演されている。

築地小劇場5年目に開館した早稲田大学演劇博物館は、2028年10月27日に開館100周年をむかえる。芝居そのものはその場限りのものであるけれども、演劇資料は残る。そんな当たり前のことにふつふつと感動する。

 


《早稲田大学演劇博物館の前で 「婦人公論」のために 左から杉村春子 細川ちか子 山本 岸輝子 村瀬幸子 東山千栄子》、『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』より。


第3章:築地小劇場から

「第3章:築地小劇場から」の第3室はもっとも広い展示室で、築地小劇場分裂以降の1930年代から現在にいたるまでのもっとも長いスパンを展覧している。入口右手に掲出されている「新劇の20世紀」と題されたパネルが大迫力。新派諸座から始まる「新劇の20世紀」。その多くが築地小劇場ゾーンに入っていって、そして、枝分かれしてゆく「新劇の20世紀」。

①プロレタリア演劇」では、《心座「落伍者の群/孤児の処置」ポスター》(1926年1月邦楽座)を「プロレタリア演劇の土台」として、最初に見ることになる。第1章「築地小劇場まで」の第1室で見た村山知義と前進座にまつわる展示のことを思い出す。心座については高見順が愛着たっぷりに回想していて、ずっと印象に残っているのだった。アンリ・ルネ・ルノルマン『落伍者の群』の訳者は岸田國士だ(演劇上演記録データベース:上演IDNo.08641-30-1926-01-03)。文字のレイアウトとイラストの配置が素晴らしい、とてもチャーミングなポスター。


図録『村山知義の宇宙 すべての僕が沸騰する』(2012年)に掲載されているギャラリーTOM蔵の図版。演劇博物館の展示室ではこのポスターの完全版を見ることができる。 

わたしが演劇博物館に初めて行ったのは1999年だと前述したが、わたしが戸板康二を読むようになったのも1999年だった。この第3室では、戸板康二を読みながら興味津々になった演劇史トピックや演劇人があちらこちらに散らばっていたり、それが線につながったりして、そのたびに胸がいっぱいになった。

築地小劇場分裂後の展示は、「①プロレタリア演劇」で始まる。解説によると、分裂の翌年1930年、プロレタリア演劇運動はそのピークを迎えていたという。

この流れで、若き日の戸板康二が深い感銘を受けたという新協劇団の『夜明け前 』、《新協劇団「夜明け前  第一部」舞台写真》(1934年11月築地小劇場)と《新協劇団「夜明け前  第二部」上演の際の集合写真》(1936年3月築地小劇場)を見ると、またひときわ胸が熱くなるものがある。新協劇団の第1回公演は、1934年11月10日初日、島崎藤村原作・村山知義脚色・久保栄演出・伊藤熹朔装置『夜明け前』だった。

戸板「まあ、『夜明け前』は、僕は学生時代に見た新劇の最高のものの一つだと今でも思ってるし、今仮りに民芸で『夜明け前』を滝沢主演でやっても、あの時の感動はちょっと再現できないような気がするんですけどね。」
村山「出来ないでしょうね。あの頃があれが最高のレジスタンスだったんですから。今はこうだけれどもやがて夜が明けるだろうと、雨戸をあけて眺めておしまいだからね。第二部はその希望が破れて気狂いになるというのが結末ですからね。」
(戸板康二『対談日本新劇史』(青蛙房・1961年2月)、「村山知義の巻」より。)

《新協劇団チラシ》には、『夜明け前』の隣りに久保栄の『火山灰地』のチラシが並べられている。『火山灰地』大好きな身としては、さらに胸は熱くなるばかり。


《新協劇団『火山灰地 前編』久保栄作・演出 伊藤熹朔装置 1938年6月8日-26日 於:築地小劇場》1938年6月8日撮影、図録『坂本万七 新劇写真展』より。


1938年6月新協劇団の『火山灰地 前編』のプログラムには「森永ミルクチヨコレート」の広告が載っている。1911年5月の文芸協会『ハムレット』のプログラムに黎明期の森永の広告があった。


ついでに、芝居の印刷物における森永・明治の広告コレクションとして、1939年6月飛行館「文学座の試演」のポスターには「明治紅茶」の広告。図録『ポスターでたどる戦前の新劇』(関西学院大学博物館・2018年6月)より。戸板康二が明治製菓宣伝部に入社して3か月目の公演、戸板青年は見ているだろうか。

《杉本良吉演出台本  新協劇団「北東の風」》は1937年5月明治座の新派公演のもので、この同月、久板栄二郎『北東の風』は築地小劇場でも再演されていて、新派と新劇の競演となっているのが面白い。明治座は井上正夫で、築地小劇場は滝沢修が主演。


新協劇団は『北東の風』を同年3月に初演、2か月後、明治座の井上正夫一座と競演のかたちで再演。再演時は、クリフォード・オデッツ『醒めて歌へ』と日替わりでの上演だった。プログラムのちょっとした挿絵が洒落ている。演劇情報総合データベース(https://enpaku.w.waseda.jp/db/)> 演劇上演データベース:上演IDNo.08292-30-1937-05-01。

 翌年「東京の宿」が封切られている時、嘉子は行きつけのバー「あざみ」で、演劇道場を計画、新派の左、新劇の右といった路線の演劇を考えている井上正夫と会った。
 三年前の明治座の新派興行に、蒲田から来て、「彼女をめぐる」を助演した時に、いい女優だと思っていた井上は、嘉子に、「私の仕事を助けてくれませんか」と、いった。
 昭和十一年三月、大阪中座の興行に、岡田嘉子は参加して、井上と「己が罪」「鉄の街」を共演、四月二十一日、芝明舟町の新協劇団の稽古場で、「井上演劇道場」が正式に発足した日に、嘉子はその一員となる。嘉子の従兄にあたる山口俊雄、山田巳之助以下二十数名がいた。のちに関西新派の山村總も参加する。
 井上の新しい目標を立てた演劇を「中間演劇」と呼んだのは、『都新聞』の土方正巳であるが、井上は着々と歩を進めて行く。四月の「人生劇場」以降、六月には久板栄二郎の「断層」、八月には三好十郎の「彦六大いに笑ふ」、十一月には八木隆一郎の「熊の唄」を上演した。「彦六」の時から、村山知義にかわって演出を担当したのが、杉本良吉であった。嘉子との運命的な出会いである。

(戸板康二『物語近代日本女優史』、「岡田嘉子」より。)

村山知義が井上正夫と知り合ったのは1935年頃、井上正夫は頻繁に新協劇団の舞台を見に来ていた。

《そのころ、新劇はだんだん盛んになってきて、新派や歌舞伎の人たちも新劇も勉強するというふうなことで見にきて下さった。》(村山知義「弁護の恩人、井上先生」、『井上正夫追憶集』(井上正夫会・1980年6月))という回想が、築地小劇場の1920年代とはまた違う1930年代の新劇の成熟や多様性を感じさせる。佐々木孝丸も井上正夫のことを、《「左翼劇場」や「新築地」時代に、われわれの未熟な舞台を、ひまがあると見に来てくれ》たと回想している(佐々木孝丸「井上さんのこと」)。


1932年明治座ポスター、図録『新派 SHIMPA――アヴァンギャルド演劇の水脈』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館・2021年10月)に掲載の図版。井上正夫が岡田嘉子と初めて共演したのは、1932年4月明治座の新派公演の中野實『彼女をめぐる』だった。1932年3月満洲国成立の次月の興行だった。


1936年4月21日、井上正夫は芝明舟町の新協劇団の稽古場で「井上正夫演劇道場」の道場開きをする。『井上正夫追憶集』に掲載の図版。


1937年11月明治座、北條秀司作・村山知義演出『華やかな夜景』の井上正夫(安来三造)と岡田嘉子(妻しず)、『井上正夫追憶集』に掲載の図版。

北條秀司は同年2月、新橋演舞場の新国劇による『表彰式前後』(島田正吾主演)で劇作家デビュウを飾ったばかりだった。歌舞伎座の新派五十年興行の同月だった。

 「華やかな夜景」は、新人北條秀司の作品である。妻しづ子の役を嘉子は好演したが、この若い作家に、松竹は早速正月物の第二作をと申し込んで来た。
 北條秀司が明治座裏の筑水でその話を聞いた直後、手洗いに立って甘い感激にひたっていると、嘉子がうしろを通りながら、「気をつけなさい。会社は薄情ですよ」といった。「忠告してくれた嘉子さんに深謝した」と、北條は「わが歳月」(『春燈』昭和五十四年一月号)に書いている。
(戸板康二『物語近代日本女優史』、「岡田嘉子」より。)

『華やかな夜景』の次月、1937年12月新宿第一劇場の『彦六大いに笑ふ』(再演)を最後に、岡田嘉子は杉本良吉とソヴィエトへと越境してしまう。新宿第一劇場の椅子の若き戸板康二は、幕開きの岡田嘉子のタップダンスの見事な足さばきに見とれていた。井上正夫はその自伝『化け損ねた猫』(右文社・1947年9月)にて《第一劇場の蓋が開いてみると、例によつて岡田嘉子の芸が実にさえ渡つてゐる。》と回想している。

大江良太郎は井上正夫の追悼文に、《明治から大正にかけての好況時代、新興資本のひ護を受けて、とかく都会的享楽趣味と結びついた新派に、緑地を渡る清新な涼風を通わせていたのは井上正夫なる窓であった。》と書いた。「築地小劇場前」の井上にも思いを馳せる。

……とかなんとか、《杉本良吉演出台本  新協劇団「北東の風」》を見たことで、井上正夫に長々と思いを馳せてしまったが、たった1冊の台本が実に含蓄深い展示なのであった。

《新劇合同公演記念写真「文学座、新築地劇団、新協劇団)》(1938年12月有楽座)の新劇協同公演(上演IDNo.08686-30-1938-12-01)は、文学座の『秋水嶺』(内村直也)・『釣堀にて』(久保田万太郎)は12月1日から4日まで全5回、新築地劇団の『ハムレット』(三上勳・岡橋祐訳)は12月6日から12日まで、新協劇団の『千万人と雖も我行かん』(久板栄二郎)は12月14日より12月20日までだった。


1938年12月有楽座・久保田万太郎作・演出『釣堀にて』の徳川夢声と中村伸郎、『文学座五十年史』(文学座・1987年4月)より。この公演から築地座出身の龍岡晋が入団した。


新築地劇団の『ハムレット』は、同年5月の築地小劇場の上演(演劇上演データベース:上演IDNo.    08292-30-1938-05-02)の再演。この画像は『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』に掲載の1938年5月所演の写真。千田是也のハムレットと山本安英のオフィーリア。劇団内のシェークスピア研究会の三上勳・岡橋祐による現代語訳での上演だった。12月の再演では山本安英は病気で休演、永井百合子が抜擢されてオフィーリアを勤めた(『山本安英舞臺寫眞集 資料篇』)。

戦前最後の『ハムレット』はこの1938年12月の新劇協同公演であった。戦後初は1947年11月帝劇の東京青年劇場による上演、そして、1955年、文学座の福田恆存訳・演出による芥川比呂志のハムレットが登場することとなる。

1930年代の新劇というと、新協劇団に胸を熱くする一方で、劇団新東京、築地座、テアトル・コメディ、新劇座といったプロレタリア演劇と一線を画した一連の劇団にどうしても心惹かれてしまう。

特に、築地座には、若き日の戸板康二は大の田村秋子ファンで、明治製菓の同僚だった牛島肇が《戸板さんは昔から大へんな田村党である》と日記に書き残しているほどだった(『牛島肇遺稿』私家版・1956年3月)、ということと相まって、いっそう心惹かれるものがある。


築地座創立3週年記念「職業/わが家/釣堀にて」ポスター・1935年2月23-26日・飛行館、図録『ポスターでたどる戦前の新劇』に掲載の図版。『わが家』は森本薫のデビュウ作。獅子文六こと岩田豊雄の演出であった。岸田國士『職業』は久生十蘭こと阿部正雄の演出! 久保田万太郎『釣堀にて』は前月の『改造』1935年1月号に掲載された直後の上演。これらの顔ぶれが好き過ぎる…。

築地座の創立は昭和七年、解散は十一年、その間、四年の短い期間であつた。それまでの新劇運動と異なる第一の特徴は、「先生」と称される指導者、演出家の劇団ではなく、友田恭助、田村秋子夫妻を中心とする役者の劇団であるといふことだ。(中略)築地座の第二の、より重要な特徴は創作劇中心といふことである。

(福田恆存『演劇入門 増補版 』中公文庫(2020年8月)より。初刊は、玉川大学出版部1981年6月刊。)

展示室には、《築地座「赤毛(にんじん)」朗読》(1934年)の音声が流れていて、田村秋子の台詞が実にチャーミング!  若き日の戸板康二さながらに惚れ惚れしてしまう。

鎌倉で療養生活を送っていた山田珠樹のために出演者が吹き込んだ音声で、岸田國士が軽快に司会を担当、4名の出演者、田村秋子・友田恭助・清川玉枝・毛利菊江の音声が吹き込まれている。山田珠樹はジョージ・ルナール作『赤毛(にんじん)』の訳者で、演出は岩田豊雄だった(演劇上演記録データベース:上演IDNo.08654-30-1934-04-02)。1934年4月28日から5月1日まで飛行館で上演されている。

この時僕はお両人から非常にいいお土産を頂戴した。東京で「にんじん」が上演されていた時、この時の台詞をレコードにとつて来られたのものである。第一には岸田國士君が手紙代りに僕に話をした後に、上演の俳優諸君を一人一人紹介され、その一人一人が一々挨拶を一言づつ述べて居られるのである。即ち岸田君、友田君夫妻、清川、毛利両女史の平常の話声がきこえることになつてゐるのである。その間々にこの御婦人方の嬌笑が録音されてゐて、僕のやうな病人に御見舞のものとしてはこの上ないものであつた。第二面以下の「にんじん」はこれが亦非常によく録音されてゐて、後に同じ友田君たちが放送された時よりの出来よりも、出来のよいものである。
(山田珠樹著『東門雑筆』(白水社・1939年8月)所収「友田恭助(伴田五郎)と僕」より(https://dl.ndl.go.jp/pid/1686845/1/135)。)

会場の解説で知った山田珠樹「友田恭助(伴田五郎)と僕」で回想されているとおりの、まさにそのとおりの音声資料であった。『にんじん』上演に際しての《岸田國士書簡 山田珠樹宛》(1934年4月16日)が展示されていることにも大感激だった。


そして、《伊藤熹朔舞台装置図 築地座第22回公演「赤毛(にんじん)」》(1934年4-5月飛行館)を間近で見ることができて、いつまでも大感激……。早稲田大学文化資源データベース(https://archive.waseda.jp/archive/index.html) > 舞台装置関連資料データベース(資料番号:C07-025)。

戸板康二は、築地座の田村秋子の演技について、《田村の「おふくろ」「二十六番館」「南の風」「ママ先生とその夫」「にんじん」に於ける演技は、磨き上げたパイプのように、透明で美しかった。》と書いた(『演劇五十年』時事通信社・1950年7月)。また、セリフについては以下のように書いている。『にんじん』をほんの少し聴いただけで、心から痛感する。

田村秋子のセリフのうまさは抜群である。山本安英の丹精してつくりあげたセリフに対して、ごく生地のまましゃべって、それがみごとな抑揚で、心理の裏づけを完全に示す。ある劇作家が、この女優のセリフを聞いて「ぼくはこんなにうまい芝居を書いたのかな」と思ったという話が、伝えられている。
(戸板康二『物語近代日本女優史』(中央公論社・1980年5月)、「山本安英/田村秋子」より。)

ところで、劇団新東京に続いて築地座の事務を引き受けていた大江良太郎は、戸板康二との対談で、

「これは美談だと思うけど、友田恭助の沖峰男と田村秋子のマドレーヌの対話をレコード会社で吹き込んで、それを『晩秋』の公演が終ってから片瀬に届けに行った。あの階段通りの横っちょを入って行って、病床でレコードを聞かせたら、さめざめと泣かれた。」(戸板康二著『対談日本新劇史』(青蛙房・1961年2月)、「大江良太郎の巻」。)

という、三宅悠紀子にまつわるエピソードを披露している。『晩秋』は1932年12月24日から26日まで飛行館で上演されている(演劇上演記録データベース:上演IDNo.08654-30-1932-12-02)。このエピソードをも痛切に思い出す《築地座「赤毛(にんじん)」朗読》であった。

と、《築地座「赤毛(にんじん)」朗読》(1934年)の音声とともに、築地座にまつわる展示を眺めて、三宅悠紀子のことを十年以上ぶりに思い出したりもしたのだった。


三宅悠紀子は1936年2月27日に死去(『三田文学』1936年4月号、三宅悠紀子「ま・いすとわある」)、築地座の解散と同月であった。「三宅由岐子」名義で刊行された戯曲集『春愁記 他四篇』(双雅房・1936年4月)が遺稿集となった。水木京太が跋を寄せている。


十数年前、演劇博物館の図書室で築地座の機関誌を読みふけっていたものだった。演劇博物館の図書室に所蔵されていた機関誌は築地座によって直接寄贈されたもので、感激もひとしおであった。その後、実物を入手したのは、第7号(1932年10月)と第15号(1933年6月)の2冊。


三宅悠紀子の『春愁記』は成瀬巳喜男が『君と行く路』(P.C.L.・1936年9月1日公開)として映画化していて、『朝の並木路』(P.C.L.・1936年11月1日公開)と一緒に今年4月にDVD化されたばかり(https://tohotheaterstore.jp/items/TDV34085D)。

戸板康二著『対談日本新劇史』の「伊藤基彦の巻」に次のようなやりとりがある。

戸板「映画でユニットに出ていますね」
伊藤「『春愁記』には出ていますね。それで各人がバラバラになってゆく形になっちゃったんですね。」

伊藤基彦は妻の清川玉枝とともに創作座を主宰者していた。創作座は1934年6月に築地座から分裂したグループが結成した劇団であった。戸板康二が「僕なんか芝居が面白くてしょうがない時代ですからね、築地座、創作座はだからよく覚えているんです」と愛着たっぷりに回想している。創作座は映画出演を機にバラバラになってしまった、というのが伊藤基彦の実感だった。


第3章「築地小劇場から」に登場する多くの新劇俳優が映画に出演している。1930年代にはじまるトーキー映画は多くの新劇役者にとって生活の糧を得る場であった。


新協劇団は1934年9月の創立の次月、第1回公演『夜明け前』の前月の1934年10月に P.C.L と映画契約を成立させている。《P.C.L. スタジオを訪れた劇団メムバー》、『新協劇団5週年記念出版』(新協劇団・1939年11月)より。


『月刊新協劇団』第63号(1939年11月)の裏表紙の広告、《東宝2大文芸映画 多甚古村 空想部落》。


②太平洋戦争と新劇」の中心的存在の丸山定夫も、数々の映画でおなじみで、その演技は映画でも十分に堪能できる気がするけれども、もちろん、舞台の丸山定夫とは性質も次元もまったく異なるものだろう。


岩下俊作原作 森本薫脚色『富島松五郎伝』、菅井幸雄編著『俳優・丸山定夫の世界』(未來社・1989年6月)口絵より。

《文学座「富島松五郎伝」で松五郎を演じた丸山定夫 写真》(1942年5月国民新劇場)を見ながら、以下の杉村春子の回想を思って、胸が詰まる。

「一緒にでてたせいかしりませんけれども、こんなにすばらしい演技をした丸山さんはなかった。御一緒したのをとても仕合わせだと思っているくらい、いい役者でしたね。私、相手していて、ほんとにそう思ったんですね。四幕目の、落ちぶれて網をつくろっている……詩があるって。舞台からそういう詩を感じさせる舞台なんていうのは、その時分なかった。また私たち、そういうふうにやることもできなかったんです。力がない。丸山さんが「春の小川」を歌うでしょ、あそこなんかね。」

(戸板康二『対談日本新劇史』、「杉村春子・久保田万太郎の巻」より。)

そして、《酒井哲宛 丸山定夫書簡》(1945年7月11日)を間近で見ると、涙ぐまずにはいられないものがある。酒井哲は1945年7月に桜隊に入隊したものの、召集令状が届いたことで広島には行かずに敗戦をむかえた。酒井哲が『仁義なき戦い』のナレーターと紹介されていて、突然、頭のなかが『仁義なき戦い』の音楽とナレーションになったりもした。

紹介状がわりに自らの名刺に移動演劇連盟本部の小川丈夫宛てに「広島行の旅行証明よろしくお願い申し上げます」旨のメッセージが記した丸山定夫。酒井哲はこれらを万感の思いで手元に残していたことだろう。次に『仁義なき戦い』シリーズを見るときは、酒井哲のナレーションをまた違った印象で耳にすることになるのは必至だ。

《滝沢修関係資料  東宝映画移動演劇隊一同書簡  松尾哲次・滝沢修宛》(1943年9月24日) では、移動演劇の開演前に行われていた「国民儀礼」を祝詞と勘違いした見物の鉄道員のことを書いた花沢徳衛に微笑、そこに添えられている花沢徳衛によるイラスト、「国民儀礼」の号令をかける国民服着用の隊長さんを描いた絵のなんと素晴らしいこと!  戦争ですっかり暗澹たる気持ちになっているところでの、清涼剤のような展示だった。花沢徳衛がますます好きになってしまった。

1945年3月10日の空襲により、国民新劇場と名を変えていた築地小劇場は焼尽した。


浜村米蔵監修『河出新書写真篇8 新劇50年』(河出書房・1955年5月)に、《この劇場の跡は、新しい劇場建設が予定されているものの、実現をみぬまま雑草ののびるにまかせている》とある。築地小劇場再建運動があったことについては、戸板康二『対談戦後新劇史』(早川書房・1981年4月)の松田粂太郎との対談に詳しいが、この地に劇場が再建されることはなかった。

③戦後の新劇」は、《「桜の園」舞台写真》(1945年12月)で始まる。まさに夜が明けた感覚。

 二十年十二月二十六、七日、有楽座で、チェホフの「桜の園」が上演された。
  青山杉作演出、伊藤熹朔装置、東山千栄子のラネーフスカヤ、薄田研二のガーエフ、千田是也のトロフィーモフ、丹阿弥谷津子のアーニャ、村瀬幸子のワーリャ、岸輝子のシャルロッタ、中村伸郎のフィルス、森雅之のヤーシャ、杉村春子のドゥニャーシャ、三島雅夫のロパーヒン、滝沢修のエピホードフ、三津田健のピーシチックという配役である。
 築地小劇場以来、新劇の当たり狂言といわれた「桜の園」を、築地にいた俳優が中心になって演じるのだから、ファンは狂喜し、満員の客席には熱気があふれた。「演劇界」では、築地の支配人をしていた松田粂太郎氏に「〝桜の園〟の廊下」という原稿を書いてもらった。
 初日に早目に有楽街にゆくと、楽屋入り前の東山千栄子と村瀬幸子が立ち話をしていた。この二人の女優の素顔から、ぼくの戦後の新劇史がはじまったと思っている。
 しかし、大陸で苦労して引きあげて来た文化座の佐々木隆氏は、「なぜ、こんな芝居を今ごろ舞台にのせるのか」といって、怒ったそうである。
(戸板康二『回想の戦中戦後』(青蛙房・1979年6月)、「3. 危機に瀕した歌舞伎」より。)

と、このくだりをしみじみ実感する。《築地小劇場以来、新劇の当たり狂言といわれた「桜の園」を、築地にいた俳優が中心になって演じる》ことの凄みをひしひしと感じる。戸板康二はこの公演を《戦後のルネッサンスを思わせる大きな出来事》と書いた。


浜村米蔵監修『河出新書写真篇8 新劇50年』(河出書房・1955年5月)より、《戦後第1回の合同公演「桜の園」の舞台》。

と、戦後の新劇史がはじまった……! と胸を轟かせながら、展示室のあちらこちらに眼を凝らす。

1945年12月有楽座『桜の園』についで目に入るのは、新協劇団再建第1回公演の、《「幸福の家」稽古風景写真 演出を行う村山知義と山川幸世》と《新協劇団「幸福の家」パンフレット、舞台写真》(1946年2月ピカデリー劇場)。

一九四六年(終戦の翌年)の二月、前年末に朝鮮から帰国した村山知義を中心に、旧新協メムバーの過半数と、井上正夫をはじめとする演劇道場の俳優たちを加えて新協劇団が再建された。そして、最初の公演「幸福の家」が邦楽座(現在のピカデリー劇場)で幕を開けた。或いは戦争中、俳優座を、或いは戦後、東京芸術劇場(民芸の前身)を結成した小沢や久保、滝沢らは、これに加わらなかったが、薄田研二、八田元夫らの旧新築地劇団員がこれに代わる新たな新メムバーとなった。
(『新協劇団二十年 舞台写真と劇団小史 1934-1954』、「新協劇団小史」より。)

先ほど、1930年代後半の新協劇団の展示で長々と井上正夫に思いを馳せていたが、それがこちらにつながってきた。その間の彼らの十年の歳月を思う。


以前、古書店で購入した『大仏開眼』のプログラム等のセット。長田秀雄作・鈴木英輔演出・伊藤熹朔装置『大仏開眼』は1940年2月2日から3月18日まで築地小劇場で上演されたあと、関西へ巡演。このチラシセットには昭和15年3月12日の日付の入った築地小劇場の切符が大切に保管されている(プレイガイドの封筒に入っている)。元の持ち主は、どんな戦中戦後を過ごしたのだろう。と、観客の歳月にも思いを馳せる。

戸板康二著『対談戦後日本新劇史』(早川書房・1981年4月)の戸板康二と千秋実の対談(「薔薇座/千秋実」)がかねてから大好きなので、《薔薇座を愛する会署名帖》と《薔薇座「長崎の鐘 原子科学者永井隆伝」パンフレット》(1949年3月三越劇場)を凝視しつつ、その対談を思い出したりもした。千秋実と薔薇座のなんと爽やかなこと!

壁面には、戦後新劇の黄金時代を体現するようなポスターが展示されていて、それぞれに見ごたえがあって、いつまでも尽きないものがある。

《文学座「美しきものの伝説」ポスター》(1971年1-2月朝日生命ホール)がこのたびの展覧会の会場で見ることで、さらに含蓄深いものがある。2022年6月、渡辺美佐子は俳優座劇場で上演されたこの作品の松井須磨子役を演じて自らの最後の舞台出演とした。

《第1回新劇合同公演(文学座・俳優座・劇団民藝)「チェーホフ50年祭/築地小劇場30周年記念 かもめ」ポスター》(1954年10月俳優座劇場)が体現するところの戦後新劇黄金時代のようなものにひたすらうっとりしてしまう。

そして、1954年の俳優座劇場を、戸板康二が「海の見える劇場」と書いた初代の俳優座劇場、70年前の東京を思う。戸板康二「海の見える劇場」(『演劇の魅力』河出新書・1954年10月)は、開場前の4月20日に劇場を見学した折のエッセイである。俳優座劇場は1954年4月24日初日に開場した。アリストパーネス『女の平和』(第26回公演)がそのこけら落とし公演だった。

 麻布六本木の都電停留所場から、溜池の方へむかつて下りる広い坂は、「市三坂」である。市兵衛町と三河台のあひだの坂だから、さう呼ぶのである。
 その市三坂の道路が拡張され、ささやかな緑地帯が造られた。一九五四年四月、俳優座劇場が開場式をあげる、その丁度三日前に行つて見ると、この辺は、目を疑ふばかりに、美しい町になつてゐた。
 築地小劇場の「創世記」に実感をもたない僕にとつては、戦後ここに生れたこの劇場が、外囲ひを除き、今はじめてそ全貌を示したのを見るのは、かつて経験したことのない性質のよろこびである。

その屋上からは、東京湾の《水平線らしきものが、水浅黄の絵の具を、ポタリと置いたやうに霞んで》見えていた。


《劇場現場屋上にて 青山杉作・千田是也》、『俳優座・十年の歩み』(劇団俳優座・1954年4月)に掲載の写真。俳優座劇場竣工の1954年4月に刊行された「創立十周年記念出版」。なんていい写真なのだろう! 

戸板康二は俳優座を《青山杉作と千田是也が基礎を作っただけに、むかしの築地の香気を、いろいろな形で持とうともしてもいた。》としている(『物語近代日本女優史』、「新劇女優の系譜」)。


1954年に新築落成した初代の俳優座劇場。『河出新書写真篇8 新劇50年』に掲載の写真。出来立てほやほやの俳優座劇場の背後には、同じく1954年に完成した赤坂一ツ木町のTBSのテレビ塔が見える!  

そんな展示室の広い空間の中央の3つのガラスケースにそれぞれ、戦後の文学座・俳優座・民藝が展示されている。俳優座コーナーには、《俳優座劇場の壁》のレンガがあった。1980年に現在の9階建てのビルに建て替えた際に演劇博物館に寄贈されたという。来年、その俳優座劇場はその歴史に幕を閉じる。思えば遠く来てしまった。

俳優座のガラスケースでは、特に《俳優座衣装デザイン帖 河盛成夫》が眼福、とりわけ仲代達矢の民谷伊右衛門の写真、超絶かっこいい……!

さて、超絶かっこいいといえば、芥川比呂志のハムレットである。戦後の新劇全盛時代を思うとき、いつも思い出すのは、芥川比呂志のハムレットだ。



1955年の文学座『ハムレット』の舞台写真、『写真集 芥川比呂志』(牧羊社・1987年11月)より。ハムレット=芥川比呂志、墓堀り甲=宮口精二、ホレイショ―=加藤和夫。

文学座コーナーには《「ハムレット」パンフレット、舞台写真》が展示されていて、壁面には《「ハムレット」模型舞台》(1964年頃)が展示されている。この模型は、河野国夫による1956年1月東横ホールの装置の模型として1964年に白木屋で開催されたシェイクスピア生誕400年の展覧会用に制作されたものという。


日本橋の白木屋で1964年2月28日から1週間開催されたシェイクスピア生誕400年を記念する展覧会、『英語青年』1964年5月号《シェイクスピア生誕400年記念特集号》の「片々録」より。白木屋の『生誕記念シェイクスピア展』の主催者は東京新聞社・中日新聞社・早稲田大学演劇博物館。二代目左團次の『ジュリアス・シーザー』の衣裳と甲冑も展示された由。

芥川比呂志が鮮烈なハムレットを披露した、文学座の『ハムレット』の東京初演は1955年5月東横ホールだった。

今まで折にふれて何度も言つてきた事ですが、私がシェイクスピア劇を翻訳し、日本の役者によつて上演したいといふ気を起したのは、昭和二十九年、ロンドンのオールド・ヴィック劇場でマイケル・ベントール演出によるリチャード・バートンのハムレットを観た時です。幸運にも私の願望は直ちに実現され、翌三十年、文学座により戦後始めての『ハムレット』が上演されました。ハムレットは芥川比呂志です。
(福田恆存「シェイクスピア劇のせりふ 一 言葉は行動する」より、『演劇入門 増補版 』中公文庫(2020年8月)より。)

リチャード・バートンのハムレットというと、ナショナル・シアター・ライブで観た『ザ・モーティヴ&ザ・キュー』(https://www.ntlive.jp/mandc)を思い出して胸が熱くなってしまうが、そちらは1964年のジョン・ギールグッド演出のブロードウェイ。福田恆存が見たのは、1954年のロンドンのオールド・ヴィックであった。マイケル・ベントールは1953年から63年までオールド・ヴィックの演出家として活躍していた(『研究社シェイクスピア辞典』)。


「現代演劇協会デジタルアーカイヴ(https://onceuponatimedarts.com)」より、第5回劇団雲公演『ロミオとジュリエット』1965年4-5月(https://onceuponatimedarts.com/162/)。福田恆存は1965年に当のマイケル・ベントールを招聘して『ロミオとジュリエット』を上演している。とにかくもすさまじい行動力である。『研究社シェイクスピア辞典』には、《演劇の国際交流の先鞭をつけた。》とある。

今年春の演劇博物館の新収蔵展で紹介のあった久米明旧蔵資料のうち、本企画展で展示されていたのは、《久米明旧蔵資料  ぶどうの会関連資料》、《久米明旧蔵資料  日本新劇団訪中台本「石の語る日」(安部公房作)》(1960年)、《久米明旧蔵資料  シュプレヒコール「安保防止のたたかいの記録」》(1960年)、《久米明旧蔵資料「セールスマンの死」関連資料》。


『山本安英舞臺寫眞集 寫眞編』より、《板橋の住居 製材事務所の二階で 後向左から津島恵子 久米明と山本(49.早春)》。

演劇博物館に寄贈される前に、久米明の旧蔵資料を時系列に並べてその生涯をたどった展覧会が三鷹のギャラリーで開催されていた(『三鷹とともに語り演じた役者人生「久米明の歩み」』/三鷹市・桜井浜江記念市民ギャラリー・2022年5月10日-29日)。自伝『僕の戦後舞台・テレビ・映画史70年』(河出書房新社・2018年11月)が立体化したような展示室で、お人柄が窺えて大変心洗われると同時に、戦後演劇史という面でもとても素晴らしい展示だった。

『ヴェニスの商人』のシャイロックと『セールスマンの死』のウィリー・ローマン、滝沢修の名演が伝えられている役を久米明が演じている。おそらくまったく違うであろうその役作りのありようが興味深いと思った。『ヴェニスの商人』の台本への書き込みが印象に残っている。特にウィリー・ローマンは、1984年6月の劇団昴初演以降、久米明の生涯の当たり役となった。


「現代演劇協会データベース(https://onceuponatimedarts.com)」より、劇団昴第31回公演『セールスマンの死』1984年6月(https://onceuponatimedarts.com/758/)。


久米明著『僕の戦後舞台・テレビ・映画史70年』(河出書房新社・2018年11月)をたいへん愛読したものだった。福田恆存について新たに目を見開かされた思いだった。2022年の展覧会においても、福田恆存への敬愛の心がひしひしと伝わってきた(わざわざ「これは福田さんからの初めての手紙」というようなメモが添えられていたりする)。そして、2024年11月、福田逸編著『福田恆存の手紙』(文藝春秋・2024年11月)が刊行されたばかり。演劇博物館で新劇展が開催されている真っ最中というタイミングで手に取ることとなった。

④新劇人の面影」には、《久米明旧蔵資料「セールスマンの死」関連資料》と《滝沢修旧蔵アルバム》とが隣り合わせで展示されていて、大感激だった。滝沢修はその和服姿がたいへんかっこよい。

そして、ここに新劇人による八田元夫の肖像画が2点、《三好十郎画 八田元夫肖像》と《村山知義画 八田元夫素描》(1976年9月17日)が架けてある。「②太平洋戦争と新劇」の《八田元夫自筆原稿「ガンマ線の臨終》と《八田元夫『ガンマ線の臨終』》(未来社・1965年)とが一つの線でつながる。

堀川惠子著『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』(講談社・2017年7月→講談社文庫・2019年7月)は、演劇博物館所蔵の資料をもとに丹念に執筆されたノンフィクションで大変感銘を受けると同時に、痛切に心に残っているのだった。こうして、村山知義描く八田元夫のデスマスクを見て、ひさびさに堀川さんの本のことを思って、胸が詰まる思い。

八田が息を引き取った時、院内には村山知義も入院していた。八田の姪の八田浩野によると、村山は八田の死を知るや駆け付けてきてベッドの側に腰を下ろし、戦友のデスマスクに無言で筆を走らせた。後日、信濃町の千日谷会堂で開かれた劇団葬では、山本安栄が弔辞を読んだ。築地小劇場時代から始まる八田の足跡に、皆が無言で聞き入った。暫くして完成した墓石には、佐々木孝丸が筆を執った。流れるような、それでいて力強い「美演」の二文字が、深く深く刻まれた。
(堀川惠子『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』 (講談社文庫) より。)

《村山知義画 八田元夫素描》はまさにその村山による「戦友のデスマスク」であった。八田の弔辞を読んだ山本安英は、1951年12月、『夕鶴』広島公演の折に「丸山定夫 園井恵子 追慕之碑」を訪れていた。


《外苑道路で 丸山(左)と山本 新築地劇団強制解散の数カ月前(40・春)》、『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』より。


同じく、『山本安英舞臺寫眞集 寫眞篇』より、1951年12月10日、『夕鶴』広島公演の折に「丸山定夫 園井恵子 追慕之碑」を訪れた折の写真。

ぶどうの会全員と丸山さんの戦災地を訪れました。さゝさやかな小路に面し、ドブ川のほとりに立つている記念碑、それは白いペンキで塗られた質素な木の碑でしたが、附近の方々が心尽しに地面にさした四五輪の小菊に守られて、土地の方々や中国新聞の方々の平和を希う美しい心にしつかり支えられ、様々の思いをこめて立つておりました。
(山本安英「広島を訪れて」(『演劇人ニュース』1952年5月15日付)、『山本安英舞臺寫眞集 資料篇』より。)

ぶどうの会はこの前日の12月9日、広島旭劇場で『夕鶴』と『三角帽子』を上演している。


《村山知義(八田元夫像)》(1944年)、図録『村山知義の宇宙 すべての僕が沸騰する』(2012年)に掲載されているギャラリーTOM蔵の図版。


《高山徳右衛門(薄田研二)像》(1944年)、図録『村山知義の宇宙 すべての僕が沸騰する』(2012年)に掲載されている早稲田大学演劇博物館蔵の図版。

堀川惠子『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』に、

村山は出獄してからは家に閉じこもり、ベニヤ板をかき集めてきては趣味の油絵を描いていた。八田もモデルになってくれと頼まれて、何度か訪ねた。モデル代をもらうどころか、逆に額縁代を取られた記憶がある。

というくだりがる。村山知義が保釈されたのは1942年6月、1945年3月22日に朝鮮へ旅立ち、同年12月に帰国した(図録『村山知義の宇宙 すべての僕が沸騰する』、村山知義研究会編「村山知義年譜」)。

展示室でひさびさに対面した《村山知義画 高山徳右衛門(薄田研二)像》を見ながら、出獄後の村山知義の日々に思いを馳せた。また、1945年8月29日に薄田研二の家でとりおこなわれた告別式、

 薄田家では二九日に象三の告別式、九月一日に丸山と園井の告別式と続いた。  
 三好十郎、佐々木孝丸、和田勝一ら、新築地時代をともに歩んだ仲間たち、徳川夢声や藤原釜足ら苦楽座に参加した者、広島行きを前に脱退した者、その他、小説家の佐多稲子や作家の壺井繁治・栄夫妻ら、厳しい時代に顔を合わすことすらできなくなっていた多くの関係者が集った。  
 祭壇の奥には、三好十郎が描いた丸山の横顔と、村山知義が描いた象三の油絵。飾りが足らずどこか物悲しかった祭壇も、あっという間に小さな花束で埋めつくされた。八田がポツリポツリと語る広島での出来事に、みな静かに耳を傾けた。三好も部屋の隅で目をつぶり、押し黙ったまま聞いていた。
(堀川惠子『戦禍に生きた演劇人たち 演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』より。)

《村山知義画 高山徳右衛門(薄田研二)像》を見ながら、同時に、この日に祭壇に飾られていたという「村山知義が描いた象三の油絵」を思ったりもして、深い余韻だった。

肖像画といえば、《千田是也旧蔵 油絵「千田是也肖像」(伊藤熹朔画)》(1923年頃)にもひさびさに対面した。伊藤熹朔が東京芸術大学の卒業制作として描いたという、千田是也19歳の肖像。


《伊藤熹朔画 油絵「千田是也肖像」》、図録『演劇博物館80周年記念 名品図録』に掲載の図版。

この絵を見るのは、今回で3、4回目くらいだと思うけれど、今までで一番心に染みた。「伊藤芸術兄弟」のことを初めて知ったときの心のときめきをいつまでも覚えていたい。若き伊藤熹朔による若き千田是也像を初めて見たのは、演劇博物館の千田是也展の展示室だったとはっきり覚えている。2004年の秋季企画展『千田是也展 ”新劇の巨人”-その足跡』で、会期は2004年10月1日から12月15日までであった。

(概要)

築地小劇場で俳優として舞台に立ち、新築地劇団で演川家として舞台をつくり、劇団俳優座を創立した〝新劇の巨人"

千田是也(せんだ・これや 1904-1994)がこの世を去ってから、10年が経とうとしています。
早稲田大学演劇博物館では、当館に寄贈された千田是也旧蔵資料を中心として、「千田是也生誕100年にあたるこの年に、その足跡をたどる展覧会を開催いたします。

(演劇博物館活動記録データベース:ID EX2004-A-07)

この展覧会を見た帰り道、冬晴れの早稲田の古本屋街を歩いて、ふと足を踏み入れた古本屋の店内で流れていたラジオから小沢昭一の声が聞こえてきて嬉しかったのをよく覚えている。そうか、あれから20年か。

千田是也の肖像画の数メートル先のガラスケースでは、《小沢昭一旧蔵 台本「勲章」》(1954年・ラジオ東京)が並んでいた。1954年1月、全13回で放送された俳優座メンバーによるラジオドラマ。渋谷實監督による映画版は同年4月14日公開であった(https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/02844/)。そうか、この頃、俳優座は劇場建設の資金のため、映画出演に邁進していたのだった。

と、小沢昭一のことを懐かしく思い出しながら、第3室「築地小劇場から」の出口の扉へと向かった。

 

〈感歓劇〉「新劇」は死語になるのか 劇場に立ちこめる志は消えぬ 渡辺美佐子

   杉村春子さんが亡くなられて空席になっていた「日本新劇俳優協会」の会長に、北村和夫さんが就任されたのは一九九七年でした。その時の総会で、当時すでに死語になりかかっていた『新劇』という二文字を外したほうがいいのではという意見が出ました。その時立ち上がったのは会員の一人だった小沢昭一さんです。
 “ぼくは千田是也先生のおっかけなんだ。先生は日本初の新劇の劇団、築地小劇場に参加して、以後日本の演劇のリーダーとして走りつづけ、俳優座を、俳優座養成所を、そして俳優座劇場を創られた。先生の舞台にはいつも、社会の不条理の中でもがき苦しみ、倒れていく人、闘う人がいた。先生の敬愛するブレヒトを世間に知ってもらうお手伝いをしようと僕たちは劇団新人会を作った。その志である『新劇』の文字を絶対なくしたくないんだ”。こぶしを握り、頬を赤くして語るのは、ラジオで聞く話の面白いおじさんとは別の小沢昭一さんでした。その迫力に『新劇』は生き残り、二十数年たった今も変わらず、現在九百五十七人の会員がいます。

(「朝日新聞」2020年12月10日)


西村昭五郎『競輪上人行状記』(日活・1963年10月13日公開)における渡辺美佐子と小沢昭一。