戸板康二の『演劇五十年』を読みなおして、三木竹二をおもう。


 秋に演博の新派展を見て演劇史をおさらいしたくなり、何年ぶりかで三宅周太郎の『演劇五十年史』を読み返してみたら、前回以上に耽溺してしまい、おなじく「演劇五十年」ということで、戸板康二の『演劇五十年』を読み返そうと思いつつも、そのまま日々が過ぎていた……ということを突然思い出した。今日から毎朝、ノートをとりながら熟読するとしようと、張り切って外出。いつもよりもさらに早い時間にいつもの喫茶店にたどりつく。

 昭和25年に書きおろされた本書をひさしぶりに読み返してみると、昭和25年当時ならではの「文化」志向への気概が堅苦しいながらも、読み進めるにつれて、通史を書き進めながらもあちらこちらに戸板康二の個性のようなものがひそんでいるのが体感できて、そこがなかなかおもしろい。今日は第三章まで読了。続きの左団次がたのしみ。

 明治期の新派を扱った第三章は「政治劇から家庭劇まで」と題されている。明治31年から33年頃の、新派の上演演目に『金色夜叉』『己が罪』『不如帰』といった家庭悲劇が上演された時期を10年かかっての「新派」の成熟とみなしている。その同時期に創刊されたのが三木竹二主宰の「歌舞伎」(明治33年1月創刊)だったという指摘に、うーむなるほどという感じだった。また、明治35年の真砂座における伊井蓉峰と河合武雄による近松研究劇を、明治37年以降の新派全盛の本郷座時代にゆきつくまでのひとつの頂点としている。新派の歴史は、三木竹二の存在を照らしてみると、ますますおもしろいなアとあらためて思った。明治36年1月の市村座で、近松の『寿門松』、紅葉の『夏小袖』とともに鴎外の新作、『玉筐両浦島』が上演された。もちろん竹二の斡旋だ。またこの時期、鴎外に気に入られている青年であるところの小山内薫が、真砂座の作者部屋に出入りしていた(明治41年夏に伊井と別れる)。昔イライラしながら読んだ小山内薫の『大川端』をもう一度読んでみたくなった。

 無事に新しい一週間が終わり、明日から三連休でなにより、なによりと機嫌よく、神保町を歩いて、帰る。その途中、岩波ブックセンターでモリエール/鈴木力衛訳『守銭奴』を購入。急に思いついた岩波文庫が無事に売っていたときはいつも嬉しい。これを読んだあとで、紅葉の『夏小袖』を読むのだ。
 夜、書棚をゴソゴソと掘り起こして、朝の『演劇五十年』読みのおさらいをする。まず、岡田八千代『若き日の小山内薫』。
 寝床にて。団菊没後の芝翫の東京座時代のことを復習すべく、演博の五代目歌右衛門展の図録を眺めたあとで、田村成義の『無線電話』の井上竹次郎と大河内輝剛の項を読みふける。いつもながらに、この洒落っ気というかなんというか、読んでいて頬が緩んで、ひたすらホクホクというのが『無線電話』の身上、踊ってしまいそうな嬉しい一冊なのだった。戸板康二を読んで、三木竹二の「歌舞伎」に思いを馳せるのがいつも好きだ。戸板康二を通して三木竹二をおもう。

 明治41年11月1日発行の「歌舞伎」第100号《故三木竹二君追善號》以外の「歌舞伎」で、現時点で手元にあるのは以下の3冊。いずれも「文学堂書店 500円」の値札がついている。いつかの趣味展で購ったものだ。趣味展の文学堂書店の棚が大好きだったなアとなつかしい。

 第80号(明治39年12月15日)、表紙は、久保田米斎《文芸協会と勘弥の追善芝居》。

 第82号(明治40年2月1日)、表紙は久保田米斎《女暫及奴凧》。

 竹二亡きあと、伊原青々園編集による『歌舞伎』で手元にあるのは138号(明治44年12月1日)のみ。表紙は久保田米斎《歌舞伎座、帝国劇場、本郷座の狂言》。室田武里の「新無線電話」は市川団蔵の続きと川上音二郎。団蔵、明治44年9月没、川上は11月没。