戸板康二の『演劇五十年』における森鴎外。


  天気予報は一日雨降りだけれども、外に出るとまだ雨は降っていない。気が向いて、テクテクと歩いて出かけることにする。三宅坂をトコトコとくだりながら、どんよりとした曇り空の下で、iPod でポリーニのシューマンの幻想曲にひたって、陶然。11月末に3年ぶりの内田光子さんのリサイタルに出かけて以来、取りつかれたようにシューマンの幻想曲ばかり聴いているのだった。

 というわけで、今日は、朝の喫茶店での本読みの時間がいつもより30分短い。ノートを開いて、戸板康二の『演劇五十年』の続きを読み進める。近代演劇史における二代目左団次のくだりはいつも胸躍るなアと、わかっているはずなのにわくわくしながら読む。かつて鶯亭金升の下で雑俳仲間だった小山内薫と左団次がひさびさに再会したのが、明治39年2月の紅葉館における「文藝協会」発会式。そこで同年9月に左団次を襲名する莚升は、同じく明治43年に猿之助を襲名する団子を小山内に紹介、ここに「自由劇場」の素地が、と何度たどっても興奮。同時代の小山内のありよう、左団次帰朝の翌日の明治40年9月に「新思潮」が創刊されたこと、明治40年2月から「イブセン会」に参加したことといったことと、同時代の文士たちの醸し出す雰囲気のようなものを自分なりにつかんでいきたいなあと思う。

 日没後、雨がシトシト降っていて、しみじみ寒い。このまま家に帰るにはあまりにも味気ないので、コーヒーショップに寄り道。『演劇五十年』をキリのよいところまで、と思って、第5章の「自由劇場の誕生」までを朝と同じようにランランと読み進める。

 前回に引き続いて、戸板康二の『演劇五十年』において、演劇史における三木竹二と鴎外の存在を強調しているところが、いかにも戸板康二ならではの「個性」だなあと、しみじみ感じ入るのだった。大正11年の他界まで、近代劇翻訳という方法で劇壇に新しい風を送りこんだ鴎外。その鴎外に気に入られていた小山内。《おもうに鴎外は、弟三木竹二、後進小山内薫、この二人の「触媒」を得て、近代劇翻訳の大事業に手をそめたのだといえる》。

 そして、昭和9年より藤木秀吉の書斎にて三木竹二の『歌舞伎』の合本を読みこんで、昭和14年の藤木の没後に形見として贈られて自分の書斎で読みこんで読みこんで、と、戸板康二における『歌舞伎』の読み込み具合をヒシヒシと感じもする。青蛙房の田村成義『無線電話』(昭和50年10月15日刊)における、岡本経一によるあとがきに、戸板康二の「無線電話」の読み込み具合に舌を巻いているくだりがある、《戸板さんのように丁寧に読んでいる人がいたんじゃ敵わない》と。そのことをちょっと思いだした。

 

『冬夏』第2巻9号(昭和16年3月1日発行・通巻9号)は《鴎外特輯》。戸板康二の初の著書『俳優論』所収の「森鴎外と三木竹二と」の初出誌。表紙は、鴎外作の楽焼梟模様菓子鉢を秋山光夫が図案化したもの。長年の念願だった『冬夏』の鴎外特集号を入手したのは去年の秋。1年に1冊くらいの頻度で『冬夏』を蒐集して幾年月、まさに鳥が粟を拾うように集めて、現在手元に『冬夏』は6冊ある。のこり10冊。

『冬夏』第1巻第6号(昭和15年12月1日発行・通巻6号)の裏表紙は「明治の茶」。この号は「故六隅許六」の詩篇が渡辺一夫の「序」とともに掲載。戸板康二の『冬夏』への寄稿は次号の昭和16年1月発行号の「演劇襍記帳」が最初。『冬夏』は昭和15年7月から翌年10月までの発行、戸板康二は全16冊のうち3回の寄稿となった。