旧正月の津和野。森鴎外記念館のコレクション展《森家三兄弟―鴎外と二人の弟》メモ。

 

今年2017年の旧正月は津和野へ出かけた。新山口駅(小郡)から乗ったディーゼルカーのJR山口線に和みつつ、津和野へと向かったのだったが、山口県立美術館に出かけるべく山口駅で途中下車したひとときが案外にもなかなかよかったのが、ほのかによい思い出。県立美術館に向かって直進、殺風景な駅前から商店街が近づくと、そこはかとなくいい感じの町並みになってきて、歩いているうちに次第に上機嫌になってくるのだった。山口県立美術館はとても感じのよい美術館だった(1994年刊行の図録『写真家福田勝治展ー孤高のモダニスト』は長年の愛読書。)。美術館からの駅へ戻る途中はアーケード商店街の裏手の路地を適当にくねくねと歩くのがたいへん楽しかった。今回は津和野に行かねばならなかったので早々に立ち去ってしまったけれども、亀山公園を散歩しつつ県立図書館の地域資料室や美術館でのんびり過ごすという休日をいつか過ごしてみたいものだと思った。ああ山口市、いい町だったなあ……。

 



たまたま通りかかった洋食屋さん。店主さんは阪神タイガースのファンであらせられるようだ。タイミングが合っていたら、ここで昼食を食べたかった!

 


そして、商店街の裏手の路地が実にいい雰囲気だった。タイミングが合っていたらここでコーヒーを飲みたかった喫茶店もあった。建造物では写真のような赤い石材が興味深かった。下関の赤間硯を思い出した。このあとも山口県内のあちらこちらで、赤い石材を使った建造物を目にしたのであった。

 


JR山口線。このたびの旅行では、新山口(小郡)~山口~津和野~益田、益田からは山口県内の海沿いを山陰本線に乗り、ディーゼルカーの長閑な乗り心地を大満喫であった。電車が津和野に近づいてきたときは、伊藤佐喜雄著『森鴎外』(大日本雄弁会講談社、昭和21年11月20日。初刊は昭和19年1月)の、

今日、山陽線の小郡駅から山口線に乗換へて二時間ばかりいくと、島根県と山口県との境に、一平方里たらずの小さな盆地があつて、静かな田舎町が車窓に見えてくる。これが津和野である。白山火山脈につらなる海抜千米の標識的なトロイデ式火山が東にそびえ、青野山といひ地人はまた妹山と呼んでゐる。ふつくらとした曲線と、喬木のかげも見えぬ美しい滑らかな芝草の山肌とは、たしかに女身を想はせるものがあり、母性的なあたたかみさへ感じさせる。

というくだりをまざまざと思い出して、車窓から津和野の盆地が視界に入った瞬間の胸の高まりといったらなかった。

 

そして、観光客が皆無のひっそりとした津和野では、津和野町郷土館と森鴎外記念館だけに焦点をしぼって、みっちりと津和野藩とその学芸を体感。鴎外の史伝に夢中になっている真っ最中、このタイミングで来られて本当によかったと思った。晩年の鴎外があそこまで史伝執筆に熱中した必然性のようなものを体感する思いだった。伊藤佐喜雄著『森鴎外』には、《考証派の第一人者である狩谷[エキ]斎だとか、伊沢蘭軒・渋江抽斎・森枳園など、鴎外晩年の史伝物に描かれた医師たち、その人間と学問とに対する鴎外の異常な敬慕の念ーーまるで老来の春を感じさせるやうなあの静かな亢奮は、ずつと昔におぼろげながら体験した雰囲気の必然な結晶だつたのである。》とある。夕刻、養老館に通う林太郎少年に思いを馳せつつ津和野川沿いをのんびり歩く時間は格別だった。

 






鴎外森林太郎は文久2(1862)年1月19日、石見国鹿足郡津和野町田村字横堀に生まれる。弟の篤次郎(三木竹二)は慶応3(1867)年10月5日に生まれる。森鴎外旧宅は三木竹二旧宅でもある。その旧宅は一時期移築されていたが、伊藤佐喜雄らの尽力により昭和29年の鴎外三十三回忌の折に当時の場所に移築復元され、現在はその隣りに森鴎外記念館がある。津和野の鴎外記念館は質量ともにたいへん素晴らしく、無人の展示室で心ゆくまで玩味。明治5年6月まず鴎外と父が津和野を発ち、翌年の明治6年6月、母と祖母、弟妹とが一家をあげて上京。鴎外も三木竹二も以後、生涯津和野に帰ることはなかった。けれども、大正11年7月9日の逝去の3日前、7月6日に遺言に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と記した鴎外だった。津和野に鉄道が開通したのは、鴎外の歿した翌月の大正11年8月のことだった。

 


慶応3(1867)年生まれの三木竹二生誕150年の2017年の旧正月であるので、移動中にでもページを繰るとするかなと、『歌舞伎』の創刊号(明治33年1月)と第100号三木竹二追悼号(明治41年11月)を持参したものの、結局読むことなく過ぎてしまった……と、せっかくなので津和野駅ホームで記念撮影。

 

 

さて、今年度2017年度の文京区立森鴎外記念館(http://moriogai-kinenkan.jp)では、慶応3(1867)年生まれの三木竹二の生誕150年を記念して、

  • コレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」(2017年7月7日~10月1日)
  • 特別展「鴎外を取り巻く慶応三年生まれたち―漱石、露伴、紅葉、子規、篤次郎」(2017年10月7日~2018年1月8日)

という展覧会が企画されている。

 


文京区立森鴎外記念館コレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟―」のチラシ。

鴎外には二人の弟がいました。

 一人は5歳年下で慶応3(1867)年生まれの篤次郎、もう一人は17歳年下で明治12(1879)年生まれの潤三郎です。現在では語られる機会が少なくなってしまいましたが、それぞれ劇評家、考証学者として活躍した弟たちです。
 鴎外が「敏捷(びんしょう)」と形容する篤次郎は、鴎外と共に西洋詩や演劇論を翻訳し、鴎外主宰の雑誌「しがらみ草紙」「めさまし草」などの編集にも関わりました。潤三郎は鴎外の史伝『伊澤蘭軒』『北條霞亭』などにおいて、鴎外の依頼を受け、史料蒐集や調査を引き受けました。また、鴎外の業績を後世に残すため、全集や評伝の刊行に努めました。鴎外は二人を頼りにしていた一方で、長兄として、弟たちが困難に直面した際には、解決のために全力を尽くします。鴎外は自身と篤次郎について「こんな風に性癖の相違があつても、博士と弟とは喧嘩と云ふ程の喧嘩をしたことがない」(『本家分家』)と記していますが、三人の関係そのものを物語っているのかもしれません。
 本年は篤次郎生誕150年にあたります。本展では、二人の弟たちに焦点をあて、彼らの生涯と業績を当館のコレクションを通して紹介します。互いを敬愛し、信頼しながら支え合ってきた森家三兄弟の絆をご覧ください。

 という前書きのコレクション展、「森」の三本の木にそれぞれ長男・林太郎、次男・篤次郎、三男・潤三郎の写真を配置したデザインが微笑ましい。今回は図録は刊行されておらず、チラシの画像を表紙とするB5判「ミニ展示カタログ」が販売されており(頒価220円)、出品目録と展示室で付されている解説と合わせて、展示室で掲示されている「三兄弟年譜」を収録している。

 


2017年6月文京区立森鴎外記念館編集・発行「文京区立森鴎外記念館NEWS No.19」。無料で配布されている広報小冊子であるが、過去の展示報告とこれからの予告とが図版入りで掲載されていて、《森家三兄弟》展の開催に大興奮の身としては、これを手にしただけで大喜びであった。

 

というわけで、三木竹二はもちろんのこと、近年鴎外の史伝に夢中の身にとっては、森潤三郎もフィーチャーされている展示がとにかく嬉し過ぎる! と喜び勇んで、会期早々にコレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」の見物に出かけた次第であった。


文京区立森鴎外記念館・コレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」(2017年7月7日~10月1日)。展示は「森家三兄弟」「森家の次男、篤次郎」「森家の三男、潤三郎」の3つのセクションで構成されている。後日のための記録として、以下、各々の展示品にまつわるメモ書き。


■森家三兄弟

・雑誌/『新小説』11巻3号(春陽堂・明治39年3月1日)
★母峰子の談話が「森鴎外氏母堂談」として「家庭談」というタイトルで掲載。三木竹二「未だ世に知られざる近松の浄瑠璃」の掲載号でもある。この年早々の1月12日の日露戦争凱旋により鴎外の周囲は華々しい雰囲気に包まれていたその昂揚の真っ最中の記事であるが、しかし、明舟町に別居していた2月13日から鴎外夫人・茂子が観潮楼に同居することとなり(同年8月に敷地内で別居)、峰子にとっても鴎外にとっても茂子にとっても、家庭内のもめごとにいっそう悩まされる日々がはじまったところでもあった。『半日』(スバル・昭和42年3月)にいたる日々。

・記念品/印鑑「參木之舎」明治12年頃
・記念品/印譜帳 年不詳
★鴎外が17歳頃、篤次郎と二人で買い集めた蔵書に押すために制作したと解説されていた。「みきのや」と読む。三木竹二の筆名の由来となる森を三つの木に分解するという発想がここにも。津和野の森鴎外記念館で配布されていた「森鴎外愛用の印」に現存する最古の印として紹介されていた。

・写真/父静男の一周忌記念(明治30年4月)【複製】
★記念館所蔵の写真のうち、林太郎・篤次郎・潤三郎の三兄弟が一枚に収まっているのは、これが唯一という。上掲の「NEWS No.19」の表紙はこの写真から拡大したもの。森静男は明治29年4月4日歿(享年61歳)。森静男が葬られた向島弘福寺は黄檗宗の寺で津和野亀井家の菩提寺でもある。静男の次は三木竹二(明治41年1月10日歿)がここに葬られることとなる。母峰子(大正5年3月28日歿)は父母の眠る滋賀の常明寺に葬られ、弘福寺の墓は鴎外(大正11年7月9日歿)が葬られたあと、関東大震災を経て、昭和2年10月に三鷹の禅林寺に改装されて現在に至っている(津和野の永明寺にも分骨されている。)。

・書簡/潤三郎筆鴎外宛(明治18年3月10日)【展示期間:7/7~8/13】
・書簡/篤次郎筆鴎外宛(明治18年8月 日未詳)【展示期間:8/14~10/1】
★ドイツ留学中の鴎外に宛てた家族・知友からの書簡類を貼りこんだ冊子を前期後期でページを替えて展示。前期は、明治18年3月のページが展示。手習い帳のような6歳の潤三郎(明治12年4月15日生まれ)のかわいらしい手紙、18歳の篤次郎の手紙は雑誌の雑報欄そのもの。以前常設で展示されていた篤次郎が明治18年2月22日の千歳座見物のことを綴った書簡をもう一度見たい!
★後期に展示のページは、明治18年8月の篤次郎の日記状態の鴎外宛の手紙。浅草東橋亭等に行ったことを報告しているあたり、篤次郎の青春時代の雰囲気が伝わってくる気も。送られてきた鴎外のポートレイトに対する家族一同の論評をコミカルに伝えている箇所が素晴らしく茶目っ気たっぷり。上掲の「NEWS No.19」にここの箇所の図番が掲載されている。この貼りこみ帳の篤次郎の書簡部分が翻刻されることを願うのであった。【2017年10月28日追記】

・参考資料/「讀賣新聞」別刷(明治22年1月3日)【複製・国立国会図書館蔵】
★「音調高洋箏一曲(しらべはたかしギタルラのひとふし)」鴎外漁史・三木竹二同訳の第1回掲載号(以降、2月14日まで断続12回連載)。三木竹二の筆名で書かれた初めての作品は兄と共同でのペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの『サラメアの司法官(El alcalde de Zalamea)』の翻訳であった。『水沫集』(春陽堂・明治25年7月2日)に収録される際に「調高矣洋絃一曲」と表記を改める。『改訂水沫集』(明治39年5月15日)の「序」に《調高矣洋絃一曲。當時の世話物の様式に、Calderonの舊曲を嵌めしは、二十年前のさかしらなりけり。Tempi passati !》。岩波版『鴎外全集』第1巻の先頭を飾る作品でもある。
★『しがらみ草紙』第5号(明治23年2月25日)所載、森篤次郎「明治二十二年の戯曲(第一稿)」に《前年出でし戯曲中にて新脚本の名を下すべき者は僅に「文覚上人勧進帳」「拾遺後日連枝楠」「音調高洋箏一曲」の三あるのみ》と、竹二自ら書いている。

・図書/森鴎外著『月草(都幾久斜)』(春陽堂・明治29年12月18日)
★題字・多田親愛。996ページにわたる大著で、『審美極致論』(春陽堂、明治35年2月24日)巻末の広告では、《つき草は文学美術に関する論文批評凡てを集めたるものなり。其の論ずる処の精確摯実にして、識見の高速、学植の該博なるは、今此に贅言するを要せず。》というふうに紹介されている。
★鴎外漁史による「叙」のあと、明治24年から翌年にかけての坪内逍遥との没理想論争における鴎外側の論として再編集された「柵草紙の山房論文」にはじまり、「思軒居士が耳の芝居目の芝居」(『しがらみ草紙』第29号「山房論文」・明治25年2月)の546ページ以降が演劇論集となり、643ページの「並木五瓶の事を記す」(明治22年10月)から突如「以下三木竹二稿」となり、「梅玉の書簡及逸事」(明治22年10月)と「中村霞仙のことを記す」(明治22年11月)と続く。以上、『しがらみ草紙』第1号と第2号に寄稿した「三木竹二稿」が3篇掲載されたあと、661ページから996ページまで「観劇偶評」となる。「観劇偶評」は明治22年3月の中村座の劇評(讀賣新聞・明治22年3月31日)に始まり、『歌舞伎新報』に掲載された劇評を中心に、「市村座評判記」(『歌舞伎新報』第1618号・明治28年9月25日)までを収める。『めさまし草』(明治29年1月創刊)以前の論集である。「観劇偶評」の部分が三木竹二著・渡辺保編『観劇偶評』(岩波文庫、2004年6月16日)に収録された。
★岡麗「「つき草」「かげ草」の書名を書きし人」(鴎外全集著作篇第8巻附録『鴎外研究 第九号」昭和12年2月28日)に、《多田門には先頃逝去した安田善次郎氏(当時善之助)がゐた。安田氏は演劇の方に蔵書も多かつたので、三木竹二氏とまじはりが親しく、私も三木氏とはしばしば観劇に同席したりした。三木氏がまづ感心されて多田親愛の書を二三持参されて御令兄の鴎外氏に観せられた。安田氏が三木氏よりとりついで「つき草」の文字を書いてあげた。大そうに悦ばれたさうである。つゞいて「かげ草」も、また「めさまし草」の表紙もはじめのは某氏の書いたのであつたが、何号もつかはずにやはり多田氏の手蹟にかはつた。》。【2017年10月28日追記】

・参考資料/「讀賣新聞」別刷(明治24年2月5日)【複製・国立国会図書館蔵】20
★三木竹二「文づかひと聖天様」掲載。『新著百種 第12号』吉岡書籍店(明治24年1月28日)に掲載の鴎外漁史『文づかひ』と露伴子『真言秘密聖天様』をいち早く書評。

・雑誌/『公衆医事』4巻1号(公衆医事発行所・明治33年1月30日)
★明治30年、鴎外は青山胤通、賀古鶴所、小池正直、篤次郎と公衆医事会を結成。と同時に、機関紙『公衆医事』を明治30年1月15日創刊。明治32年6月の鴎外の小倉赴任以降は、編集の実務を篤次郎が担当。その発行所・申込所が篤次郎の自宅(日本橋蠣殻町一丁目四番地)になっている。

・図書/森鴎外著『玉匣兩浦嶋』(歌舞伎発行所・明治35年12月29日)
★表紙画:長原止水。記念すべき鴎外最初の創作戯曲は篤次郎が贔屓にしていた伊井蓉峰のために書かれた。刊行翌月の明治36年1月、伊井により市村座で上演。ちなみに同月7日に森茉莉が誕生している。表紙画を描いた長原止水は、『玉匣兩浦嶋』で明けた明治36年の9月15日夜に九代目団十郎の死に顔を描くこととなる(『歌舞伎』第41号《市川団十郎之巻》口絵)。

・雑誌/『歌舞伎』第33号(歌舞伎発行所・明治36年2月8日)
★1月に上演の鴎外作『玉匣兩浦嶋』の記事が大々的に掲載。口絵にその舞台写真。前号の32号(明治36年1月1日)では「隠流口述」の署名で「玉匣兩浦嶼自註」掲載されており、同号掲載の久保田米僊「兩浦嶋の道具と衣裳と」とあわせて、のちに『我一幕物』(籾山書店、大正元年8月15日)に収録されている。

・葉書/鴎外ほか寄書・潤三郎宛(明治39年1月21日消印)
★展示室の解説では、日露戦争凱旋(1月12日)と鴎外44歳の誕生日(1月19日)を記念する会合で書かれたと推定している。久保田米斎が絵を描き、鴎外が「帰休」という号で「さゝ計よむ牡丹のまへ乃の勅語哉」と詠んでいる。篤次郎、於菟、小金井喜美子、小山内薫、小山内八千代、大久保栄(於菟の家庭教師)、伊原青々園、上田敏、平野万里が署名。伊原青々園『團菊以後』(青蛙房、昭和48年9月5日)の「22 左團次と綺堂」、237ページの図版の絵葉書と似ている。
★山崎國紀編『森鴎外・母の日記』(三一書房、昭和60年11月30日)を参照すると、母峰子の同月20日付の日記に《文学者連中を案内致したる丈、皆来る。十五人。夜半迄いと賑はし。》、鴎外日記では《二十日、友人を千駄木の家に招飲す。》。森潤三郎著『鴎外森林太郎』には、《二十一日 誕生日と凱旋の祝を兼ねて開いた観潮楼の会には、上田敏、佐々木信綱、小山内薫、同八千代、伊原青々園、大久保栄、平野万里、吉田白甲、久保田米斎、篤次郎、喜美子、わたくし、於菟が集まった。》と回想されている。潤三郎が二十日ではなく二十一日としたのは、この葉書の消印によるものか。

・日記/「鴎外日記」明治41年の1月10日・11日
★鴎外は明治40年12月29日、軍隊衛生視察のため東京を出発し、名古屋へ。31日名古屋を発ち、金沢、浜寺、善通寺、大阪を経て、10日に帰途につく。東京へ向かう汽車のなかで、篤次郎死去の電報を受け取り、11日朝9時に新橋駅到着。迎えに来た潤三郎とともに大学の病理解剖室に直行する。

・自筆原稿/鴎外自筆「本家分家」大正4年
★ノートに鉛筆で執筆。『中央公論』大正4年8月号に発表の、篤次郎歿後の鴎外の家庭事情をモデルにした近松秋江「再婚」への反論として書かれた作品(成瀬正勝「鴎外を怒らせた近松秋江の作品」、『鴎外』第5号・昭和44年5月25日)。鴎外日記の大正4年8月18日に《本家分家を艸し畢る》とある(『鴎外全集 第35巻』岩波書店・昭和50年1月22日)。生前未発表、『鴎外全集』著作篇第3巻(岩波書店、昭和12年3月30日)で初めて公にされた。その後記に佐藤春夫は、《全く未発表の遺稿にて先生が日記中に折に畳まれしを発見せりと聞知せるも、何年何月何日の個所にありしやは遂に詳聞に及ばず。又果して小説を以て目すべきか如何との問ひに応じて稿を一読、既に「半日」を小説とする以上本篇も亦当然然るべしと断じたるも、尚これ荷風先生が一閲を経て後、安んじて決するを得たり。》と書いている。
★伊原青々園『團菊以後』(青蛙房、昭和48年9月5日)の「26 種々な新劇団と鴎外博士」に、《竹二君の死後に、遺族と博士との間に妙なイキサツがあって、わたしも多少それに関係したが、今度『鴎外全集』が出版されるにつき、その見本摺りとして頒布された『本家分家』という博士の遺稿は、たしか当時における博士の心事を告白されたものである。わたしはあれを読んで、なるほど、そういう訳であったかと思った。》。青々園の『團菊以後』は「都新聞夕刊」に昭和11年10月2日から翌12年6月9日まで全185回の連載で、上記の『本家分家』が言及されている回は、昭和12年5月26日付に掲載の第173回「絵を描いた鴎外」。
★三村竹清日記(「不秋草堂日暦(四)」、『演劇研究』第19号・1996年3月30日)の大正5年4月22日の項に、《内田魯庵きての話に 此節秋声[ママ]のかきし小説に 未亡人か情人なる法学士へ泊りて 其帰りに 或女を訪ひて けふは御嫁にゆくのたといひたる話あり これは三木竹二の未亡人 森真如女史の事にて 建部遯吾へ片付く時の話也 或女とハ 岡田八千代也 此も間もなく離縁になりし也》とある。鴎外の家庭事情については、口さがない連中の間で話題にのぼっていたらしい。

・図書/『盛儀私記』大正4年・私家版
★大正4年11月8日に東京を出発、9日京都着、18日京都図書館館長・湯浅吉郎に挨拶を済ませて、午前9時24分発の汽車で帰京。大正天皇即位の大礼と大嘗祭の参列のために出かけた京都での十日間の日々を記録。「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に大正4年11月12日から22日にかけて「盛儀私記」と題して断続的に計6回連載したものを私家版として印刷。
★京都では潤三郎宅に宿泊し、潤三郎が委員をつとめた「歴代宸翰展拝会」(同年11月1日より京都図書館で開催)を見学、一緒に寺や古人の墓をめぐっている。13日夜に吉田初三郎と「絵事を談」じていたりと、いろいろと興味深い。森潤三郎著『鴎外森林太郎』(森北書店、昭和17年7月30日再版、同年4月10日初版)に、《参列した大礼の実況、わたくしが案内して市内及び伏見、嵯峨に遊んだ事などは、十二日から二十二日まで東京日日、大阪毎日両新聞に寄せた「盛儀私記」に詳しく、後に訂正して一冊とし、親戚知人に配布した。わたくしは中判罫紙に鉛筆で書いた原稿を貰ひ受けて持つてゐる。》。
★潤三郎は明治42年12月頃、上田敏の世話で京都府立京都図書館(明治42年4月、武田五一の設計により岡崎の地に新築開館)に書記として就職し、「京都市岡崎町福ノ川八十一番地」に居住、大正3年に司書に昇進、大正6年4月に退職。京都図書館が猥雑本、すなわち江戸の人情本を収納、これを無届けで複製頒布した嫌疑で大正5年3月31日をもって湯浅吉郎が館長を辞任、これに連座するかたちで潤三郎も告訴され罰金刑を受けて、辞任に至った(高梨章「森潤三郎・森鴎外と「京都図書館淫書刊行事件」、『鴎外』第68号・2001年1月9日)。
★潤三郎は明治45年3月に米原綱善の長女静子と結婚、『鴎外全集 第三十六巻』(岩波書店、昭和50年3月31日)所収の潤三郎宛書簡の宛先を追ってゆくと、大正2年5月は「愛宕郡田中村字里ノ前十二番地」、翌大正3年2月は「愛宕郡田中村中村字上畑中中村二十九番地ノ五号」、大正4年1月には「京都市出町橋東三丁目」に潤三郎は居住しており、鴎外が滞在したのはこの家。対門は西園寺公望の清風荘の竹垣だった。

・葉書/潤三郎筆鴎外宛(大正6年3月27日消印)
★『伊沢蘭軒』執筆時の鴎外に宛てた葉書。頼龍三(山陽の次男支峯の養嗣子。万延元年生まれ。)に面会できなかったことを報告。前年3月に歿した母峰子の一周忌の霊前に供えるためのお菓子を「鎰屋」で買っている潤三郎。

・自筆原稿/蘆舟手記「廉塾雑記」鴎外題箋 年不詳
★『北条霞亭』執筆時の資料。菅茶山や北条霞亭の詩を収録した自筆稿本。蘆舟は陸奥の僧で廉塾(天明元年頃、菅茶山が神辺に創設した私塾・黄葉夕陽村舎を起源とする。寛政8年福山藩主阿部正精により郷学と認められ廉塾と称するようになった。)の書生。『北条霞亭』の「その六十三」、文化10年5月20日柏原瓦全の霞亭宛書簡について記す際に初めて参照、蘆舟が筆記している霞亭の作、この年に大学助に叙せられた北小路梅荘の詩に次韻した霞亭の作を紹介している。展示で開かれているのは、まさに「その六十三」で言及されている文化10年癸酉の霞亭詩のページ。朱筆で「歳寒堂遺稿掲載」と鴎外の書き入れ。文化10年は霞亭が茶山に招かれて廉塾の講師となった重要な年であるにもかかわらず、資料が乏しかった。文化10年作の霞亭作の詩を収めているという点で、この蘆舟の自筆本は鴎外にとって貴重な資料だった。
★ついでに書くと、『北条霞亭』の「その六十三」で紹介されている文化10年5月20日の柏原瓦全書簡には、5月7日初日京都北側芝居の三代目歌右衛門の『一谷嫩軍記』公演中の同月19日に狼籍者により大道具が破壊されて大騒ぎ……というようなくだりがある。伊原青々園『歌舞伎年表』第5巻(岩波書店、昭和35年6月28日)を確認すると、さすがは青々園、『北条霞亭』が抜き書きされているが、しかし、公刊では柏原瓦全が「相原嵐全」と誤植されている。


■森家の次男、篤次郎

・図書/森静男著『仮死論』(江島喜兵衛発行・明治12年5月)
★「明治乙卯春日十一童男 篤次郎謹製」として序文を製す。前年明治11年より儒者佐竹元立(篠原小竹の門人)の塾に通っていた篤次郎の漢文力。
★森潤三郎「兄の蔵書その他」(鴎外全集著作篇第13巻附録『鴎外研究 第六号』昭和11年11月30日)に、《父に「仮死論」といふ著書のあることは、兄の逝去後鴎外全集刊行の議が起つて、与謝野寛先生の御宅に度々往く間に、船越政一郎さんと知合ひとなり、それから数月の後船越さんが大阪の書肆で図らず手に入れ、次に上京の節持参して示されたので初て知り、船越さんの要求通り兄の筆蹟一葉と交換して、わたくしの蔵書とすることが出来た。紺地紗綾模様の表紙を附けた、美濃半截判二十一枚、同郷人で二等軍医正で歿した八杉利雄氏と、十一歳になつた次兄篤次郎と二人の序各一枚とを一冊にしたものである。次兄の序に「明治十一[ネン]開醫會于東京、家大人演假死論于其席」とあるから、講演を印刷に附したものと思はれる。》。

・書簡/賀古鶴所筆篤次郎宛(明治20年1月26日付)
★喜美子の縁談についての相談。ドイツ留学中の鴎外に代わって家族の面倒を見ていた篤次郎。妹婿となった小金井良精は新婚早々に篤次郎とともに、明治21年9月8日の鴎外帰国後、『舞姫』のモデルのエリーゼの説得役をつとめることとなる。

・雑誌/『しがらみ草紙』第11号(新声社・明治23年8月25日)
★竹二「市川粂八様にまゐらす」掲載のページが開かれて展示されている。『しがらみ草紙』は明治22年10月創刊、鴎外の日清戦争出征により明治27年8月に廃刊するまで全59冊刊。明治24年から翌年にかけて坪内逍遥と繰り広げた没理想論争の舞台となる。『日本近代文学大事典』には、《「しからみ草紙」は、ほんらい鴎外の旺盛な啓蒙的意欲に端を発した雑誌であった。わが国の文壇に「柵をかけ」んとする評論活動と、「自由芸術として、最完美に発育した」ヨーロッパ文学の翻訳、紹介の作業とは、ともにその意欲の具体的なあらわれだといってよく、そこに本誌の最大の存在理由があり、また史的意義もあったことは確かである。しかし、他方鴎外には、伝記愛好、歴史愛好の念が強く、これが弟篤次郎の演劇趣味や同人たちの好尚とあいまって、雑誌の性格をかなり混濁させていったことも否めない。(重松泰雄)》と。

・書簡/饗庭篁村筆篤次郎宛(明治22年7月9日付)
★「新梨園発行所」の演劇雑誌についての書簡。「亦題号新梨園はいかゞ先頃梨園の曙といふを出して梨園離縁と通ふとて婦人に嫌はれ売れざりし由矢張ぶつつけに演劇雑誌など然るべからんか」。こんな軽口がいかにも篁村であったが、この演劇雑誌は創刊されず。竹二への宛名が「笠阿劇仙 台下」となっている。

・参考資料/帝国大学編『東京帝国大学一覧』明治23年12月【複製・国立国会図書館蔵】
★「医学科卒業受験生」欄に篤次郎の名が掲載。翌24年7月に晴れて卒業。石川淳「三木竹二」(『前賢餘韻』岩波書店・昭和50年9月29日)から孫引きすると、「医事新聞」第359号(明治24年8月20日)の雑報欄に《医学士森篤次郎氏は医科大学第一医院助手を嘱託せられて脚気科勤務となられたり》。

・参考資料/『衛生新誌』第18号(衛生新誌社・明治23年4月)【複製・国立国会図書館蔵】
★三木竹二作『市区改正痴人夢』掲載。鴎外が展開していた公衆衛生の観点での市区改正批判を歌舞伎仕立ての戯曲に仕立てたもの。『東京医事新誌』第562号(明治22年1月5日)に掲載の「市区改正ハ果シテ衛生上ノ問題ニ非サルカ」は、医学士森林太郎が《帰国後に真っ先に筆をとった論考。激しい論調で市区改正と公衆衛生の関係を論じた。当時の公衆衛生の分野の市区改正論に対する批判を展開する。》(図録『特別展 ドクトル・リンタロウ 医学者としての鴎外』文京区森鴎外記念館・2015年10月3日)というもの。その鴎外の市区改正論と連動するようにして、竹二は『衛生新誌』第1号(明治22年3月25日)に『市区改正痴人夢』第1回を寄稿し、以後、断続的に同誌に連載するもこの18号を最後に未完。と、竹二の『市区改正痴人夢』については、石川淳「三木竹二」の冒頭で詳述されている、曰く《当人としては、市区改正論の一番目の舞台は家兄にまかせて、二番目狂言はおれのものといふ料簡であつたのかもしれない。》。三木竹二単独作としての処女作。はじまりからして、竹二の文筆活動は鴎外と一心同体だった。

・参考資料/『歌舞伎新報』第1321号(歌舞伎新報社・明治25年1月8日)【複製・国立国会図書館蔵】
★この号より日本演芸協会(明治19年発足)と提携して篤次郎が中心となり誌面刷新。「歌舞伎新報大改良広告」とともに、鴎外漁史「はなむけ」が掲載されている。この号と同月の明治25年1月末、一家は本郷区駒込千駄木町五十七番地から同町の二十一番地へ、すなわち「千朶山房」から「観潮楼」に移住。

・参考資料/『歌舞伎新報』第1653号(歌舞伎新報社・明治29年9月17日)【複製・国立国会図書館蔵】
★「医学士 森篤次郎」の名で「江湖諸君へ 小生儀医科卒業後帝国大学助手ヲ奉職シ四年間第一医院ニ於テ内科及ビ脚気治療ヲ専修致居候処今般左記ノ地ニ開業仕候此段御披露申上候也」として「日本橋区蠣殼町一丁目四番地/銀杏八幡筋向フ内科診療所」の広告が掲載。銀杏八幡は新大橋通りに今も健在。日本橋川に架かる鎧橋と茅場橋方面の二又に分岐する蠣殼町交差点と水天宮交差点の間にある。
★『歌舞伎新報』(明治12年2月創刊)はこの翌年、明治30年3月発行の第1669号で終刊。第1609号(明治27年10月20日)をもっていったん休刊したあと、第1610号(明治28年3月3日)で再刊、翌月4月7日に第1612号でまたもや休刊し、同28年8月1日に第1613号が出て再刊、結局その半年後に終刊するものの『歌舞伎新報』は紙面刷新を重ねて踏ん張っていた、そんな時期に竹二の医院が開業したのであった。やがて、竹二の医院に松廼舎主人こと安田善之助が訪れ、芝居好きの二人の交友が始まり、安田の出資により明治33年1月『歌舞伎』が創刊されることとなる。『めさまし草』巻之32(明治31年10月31日)から巻之38(明治32年7月31日)まで「西澤文庫 言狂作書 安田横阿弥所蔵本」が掲載されているのも、両者の交遊の反映であろう。後年、大正5年3月9日に渋江保宛書簡に、鴎外は《昨日抽斎先生自筆本ラシキ劇神仙話ヲ安田善之助(富豪安田ノ子ニシテ亡弟ノ親友)所蔵ストノ通知ニ接シ候》というふうに、安田善之助のことを「亡弟ノ親友」と書いている(『鴎外全集 第三十六巻』岩波書店)。

・葉書/篤次郎筆潤三郎宛(明治34年7月19日付)
★鴎外の小倉赴任中(明治32年6月から同35年3月まで)の葉書。日光への家族旅行を予定と伝える篤次郎。鴎外の代わりに家族の面倒をよく見る篤次郎。
★潤三郎がのちに記すところによると(『鴎外全集 第三十六巻』後記)、《日光への旅行の事は篤次郎の主唱で、二十一日は雨のために止めて二十八日に実行された。同行者は母峰子、篤次郎、於菟、潤三郎、篤次郎妻の弟長谷敏の五人で、日光の小西旅館と中禅寺の蔦屋とに二泊して帰つた後、於菟は遊覧記を書いて送つた。》。同月24日付の母宛書簡に、鴎外は《雨のため日光行やめに相成候由遺憾と存候若し次の日曜日に行くことゝ相成候はゞ旅店にちかづきある人に頼み電報を打たせ置くがよろしからんと存候》、旅行のあとの8月3、4日頃と推定の書簡には《旅行は思ひ立ち候まではうるさく面倒なるものなれど踏出して見れば必ず愉快なものに候於菟などは山らしき山を見しことなければこれも亦学問に候此次にはどこか海へ御つれなされ度候》、同月13日付の書簡には《坊主の日光遊覧記只今ゆつくり見る積に候》と続けて母峰子に綴っている。小倉から東京の留守宅を深く思いやる鴎外。【2017年10月28日追記】

・雑誌/『歌舞伎』創刊号(歌舞伎発行所・明治33年1月31日)
★表紙絵は中村不折の阿国歌舞伎、題字は尾崎紅葉。菊判66頁、定価10銭。発行所は篤次郎の自宅「日本橋区蠣殼町一丁目四番地」。同年7月の第4号より篤次郎の転居に伴い、発行所「京橋区南鞘町二十三番地」となる。

・雑誌/『めさまし草』巻之49(めさまし社・明治34年2月15日)
★『めさまし草』は明治29年1月創刊、明治35年2月に第56号をもって廃刊。巻之12(明治29年12月28日)までは発刊所は盛春堂(本郷区元富士町二番地)であったが、巻之13(明治30年1月29日)以降は「めさまし社」となり、住所は篤次郎の自宅「日本橋区蠣殼町一丁目四番地」となり、その転居に伴い、巻之45(明治33年8月13日)より「京橋区南鞘町二十三番地」に。『めさまし草』は呼び物は合評であった。鴎外・露伴・緑雨『三人冗語』(巻之3~7・明治29年3月~7月の計5回)のあと、依田学海・饗庭篁村・紅葉・森田思軒(明治30年11月歿)を加えた『雲中語』(巻之8~31・明治29年9月~31年9月のうち計19回掲載)が続く。『標新領異録』(巻之17~27・明治30年5月~明治31年4月のうち6回掲載)では、竹二も参加して「村井長庵巧破傘」「好色一代女」「水滸伝」「浮世道中膝栗毛」「神霊矢口渡」「琵琶記」を考証している。
★竹二による劇評は、巻之1(明治29年1月31日)と巻之2(同年2月25日)に「啀権太」というタイトルで明治29年1月明治座が評され、巻之3以降は「芋あらひ」というタイトルになる。その「芋あらひ」は、巻之3(明治29年3月25日)から巻之7(同7月31日)まで、巻之12(明治29年12月29日)、巻之16(明治30年4月28日)、巻之18(明治30年6月28日)、巻之20(明治30年8月26日)、巻之22(明治30年10月31日)から巻之30(明治31年8月19日)まで、巻之32(明治31年10月31日)から巻之37(明治32年5月31日)まで、巻之40(明治32年10月27日)から巻之45(明治33年8月13日)まで、巻之49(明治34年2月15日)まで、全31回掲載。すなわち、展示されているこの号が最後の「芋あらひ」で、前月の明治34年1月歌舞伎座の『玉藻前』を評している。『めさまし草』の劇評は巻之1から巻之4までの明治29年1月~4月分の劇評が、三木竹二著・渡辺保編『観劇偶評』(岩波文庫)に収録されている。

・雑誌/『歌舞伎』第9号(歌舞伎発行所・明治34年2月10日)
★三木竹二「玉藻前の狂言について」掲載。同月の『めさまし草』と同じ題材を扱いつつも書き分けているようであったが、『めさまし草』の劇評は同月が最後。

・雑誌/『歌舞伎』第74号(歌舞伎発行所・明治39年6月15日)
★附録の三木竹二・千尋舎「『助六』の型」のページが展示されている。《編者申す。この度『助六』は原作を余程抄略して居る。俳優の動作は決して醇の醇たるものとはいへぬ。併しこれを記述して置かねば向後何年経つて再演せられるか解らぬこの劇は、遂には世人に忘れられて了つて、茫漠尋ねべからざるものとなるかも知れぬ。これ本誌が煩を厭はず、茲にその記述を試みた次第である。》という竹二の態度。本誌では、同月歌舞伎座の十五代目羽左衛門初演を受けての助六特集が大々的に組まれており、竹二による羽左衛門の助六に対する詳細を極める劇評がたいへん感動的。《要するにこの助六は荒事の内に和事を加味し、世話の中に時代を孕み、最初が派手で中頃が地味で、末が凄くなるといふ、江戸狂言の粋を一幕に納めたものだから、いくら器用な此優でも、とても十分に演つて退ける事は困難だが、その割には日が経つてからは大分見直して来て、持前の小柄も左まで邪魔にならず見て居られたのは、全く藝に掛けて巧者な処があるからだと思つた》と。明治29年5月の九代目団十郎所演以来の歌舞伎座の助六であった。

・葉書/市川団子筆歌舞伎発行所宛(明治37年12月2日付)
★『歌舞伎』第57号(明治38年1月1日)に掲載される「忠臣蔵合評会」への欠席連絡。

・葉書/坪内逍遥ほか寄書・篤次郎宛(明治39年2月17日消印)
★「文藝協会発会記念 明治三十九年二月十七日」と記載の、上部に「沓手鳥孤城落月」、下部に「喜劇誕生日」の絵のあるチャーミングな絵葉書。坪内逍遥、伊原青々園、巌谷小波、島村抱月、小山内薫、水谷不倒、安田善之助が署名。発会式は消印の同日、明治39年2月17日土曜日に芝の紅葉館で開催。同月19日付「都新聞」によると、午後2時開演の予定が遅れて3時に開演、散会は午後11時半だったという。抱月の発会の辞、鳩山和夫の演説、病気欠席の大隈重信の演説要旨を逍遥が代読したあと逍遥自身も国劇改良についての意見を演説、食事のための休憩1時間を挟んで、あとは余興として8つの演目が用意されていて、その最後の2つが、史劇『沓手鳥孤城落月』糒庫の場一幕、喜劇『誕生日』一幕であった。『誕生日』は巌谷小波による翻案作品で『太陽』明治38年6月号に発表、『小波喜劇七草』(金尾文淵堂、明治39年9月15日)に収録。文士劇団「あいづち会」による文士劇であり、田村西男、岡村柿紅、高梨俵堂らが出演。
★『歌舞伎』第71号(明治39年3月1日)にこの発会式の記事が出ており、真如女史が「文芸協会の演劇を見て」を寄稿。竹二も「二月の劇壇」で言及しており、余興の短評を書いているので、当日はしっかり見物している。都新聞が伝えるところによると、「当日式場の床の間にハ芝居の小道具与兵衛より出品せる故団菊名残の甲冑を陳列し又余興の間々にハ早稲田大学、春陽堂、文淵堂、博文館其他各出版業者より寄付せる書籍を福引として出席者に贈呈し是れ亦余興外の余興となりけり。」とのことで、とても楽しそうである。

・書簡/峰子筆賀古鶴所宛(明治40年12月29日付)
★『森鴎外・母の日記』に記録されているところによると、明治40年12月22日に咽喉の病気の療養のため別荘・鴎荘(千葉県夷隅郡東海村字日存村)へ行き、母峰子も同行している。24日に篤次郎夫妻が帰京、27日に峰子も帰京。28日に医科大学耳鼻咽喉科に入院。29日、篤次郎は岡田和一郎教授の手術をこばみ、神田小川町の賀所病院への入院を希望し、30日に賀所病院に入院する。展示されている書簡は、賀所病院への入院に際しての峰子の書簡であり、峰子日記の29日の記述を裏付けている。死が迫っている篤次郎の様子が伝わってきて、痛ましい。

・参考資料/「毎日電報」明治41年1月13日【複製・国立国会図書館蔵】
★潤三郎談話「劇評家としての兄」掲載。

・写真/篤次郎葬儀(明治41年1月14日)【複製】
★向島弘福寺で葬儀。中央に於菟、その右に潤三郎、一人おいて鴎外。鴎外日記に「十四日(火) 篤次郎を向嶋弘福寺に葬る。是日天気異様に煖し」、欄外に「午後一時弘福寺葬式五時偕楽園」(『鴎外全集 第三十五巻』)。

・雑誌/『歌舞伎』第100号・故三木竹二君追善号(明治41年11月1日)
★明治40年12月の第92号を最後に三木竹二が亡くなったあとも、よき相棒であった伊原青々園を中心に大正4年1月の第175号まで刊行が続いた。第100号では心のこもった追善号が世に送られた。次月の101号にも追録が4篇掲載されているので、三木竹二ファンは2号持っておきたい。伊原青々園については、今岡謙太郎氏の「雑誌『歌舞伎』とその時代」(『「歌舞伎」解説・総目次・執筆者索引』丸善雄松堂書店・2013年1月7日)に、《篤実さと客観性を重視する研究者的体質という面で、両者は相通ずるものがあったと考えられる。》とあり、竹二歿後の『歌舞伎』については、《百四十一からは河竹繁俊が「黙阿弥著作改題」を、時に河竹新水の名義を使いながら終刊まで連載した。河竹登志夫氏が指摘するように、この仕事は後年の伝記『河竹黙阿弥』や『黙阿弥脚本集』『黙阿弥全集』の成果につながっていく。》とある。『歌舞伎』最終号の第175号(大正4年1月1日)は「黙阿弥之巻」であり、前月に演芸珍書刊行会より刊行されたばかりの河竹繁俊著『河竹黙阿弥』の広告が掲載されている。ちなみに、『歌舞伎』の終刊号の次月、大正4年2月刊行の『三田文學』誌上において、『世話狂言の研究』(天弦堂、大正5年11月24日)のもとになる座談会「日本古劇の研究」の連載が開始されている(第1回『三人吉三廓初買』)。

・図書/小金井喜美子著『森鴎外の系族』(大岡山書店・昭和18年12月20日)
★喜美子は鴎外に関する遺著を2冊遺した。すなわち、本書と『鴎外の思ひ出』(八木書店、昭和31年1月29日)と。のちに、ともに岩波文庫化。『鴎外の思い出』(1999年11月16日日刊、解説:森まゆみ)と『森鴎外の系族』(2001年4月16日刊、解説:中井義幸)。


■森家の三男、潤三郎

・写真/鴎外と潤三郎・明治14年【複製】

・写真/潤三郎と於菟・明治28年【複製】

・葉書/坪井正五郎筆潤三郎宛(明治35年6月11日付)
★潤三郎は明治34年に東京専門学校史学科に入学(翌年に早稲田大学と改称)。早稲田在学中に考古学研究の「青蛙会」を結成。坪井が潤三郎のために「これが宜しからうと思ひます」と考案したマークが描かれている。その蛙の絵がとてもかわいい…。坪井は明治31年9月より、東京専門学校で考古学・人類学の講義を担当していたのであった。

・参考資料/『東京人類学会雑誌』第18巻205号(東京人類学会発行所・明治36年4月)【複製・国立国会図書館蔵】
★坪井主宰の東京人類学会の機関紙に「青蛙会」の規約が載っている。森潤三郎と三浦経太の2名が発起人となっている。

・参考資料/『集古会誌』甲辰巻之2(集古会・明治37年3月)【複製・国立国会図書館蔵】
★潤三郎入会時の会員名簿が掲載。

・図書/森潤三郎著『朝鮮年表』(春陽堂・明治37年1月19日)
★早稲田在学中に刊行。朝鮮半島の地理、歴史、外交等を網羅的にまとめる。

・葉書/篤次郎筆潤三郎宛(明治38年7月14日付)
★卒業試験の成績が芳しくなかった潤三郎は文部省検定の教員免許状を得られず、それを不服に思った母峰子が7月14日に高田早苗に直談判に訪れたことに関して、篤次郎が葉書で本人に伝えている。潤三郎本人が高田早苗を訪問するなら、『朝鮮年表』を持参するがよかろう、そして、時刻は朝涼しいときがいいだろうと適格なアドバイスをする優しくて頼りになる兄・篤次郎。「少しも早きが熱心解れば明朝起きなど如何」、母ともよく相談するようにと朱字で念押し。潤三郎は兄の葉書を受けて7月16日朝に高田早苗を訪問していることが『森鴎外・母の日記』でわかる。教員免許は結局得られなかったようである。

・葉書/鴎外筆潤三郎宛(大正3年2月19日付)
★潤三郎編集の『武乃世界』落手の連絡。潤三郎は『武乃世界』大正3年2月号から12月号にかけて全9回にわたり「兵器解題」を連載。その第1回を読んで「着実ナルモノニテ至極ヨロシク…」と弟をねぎらう慈父のような兄・林太郎。

・雑誌/『ほんや』第2巻第1号(細川開益堂書店・大正5年1月31日)
★京都の古書肆・細川開益堂書店(京都市下京区三条通寺町西入)が大正4年4月に創刊、古書目録を付した書物雑誌。斎藤昌三『書物誌展望』(八木書店、昭和30年5月15日)に、《丁度大阪の「古本屋」の先駆をなしたもので、編輯は初め細川から湯浅半月氏に依頼、半月氏から森潤三郎氏に押付けられたもので、発刊の辞は令兄鴎外博士であり、二十号までが森さんの手になつたといふので、新村出、藤井乙男、井上和雄、伊藤長蔵、三村竹清と云つた諸名家の寄稿を連載してゐたのは、流石に老舗細川の看板を思はしめた。》とある。潤三郎は創刊号から京都図書館を退職する大正6年発行の第19号(大正6年8月22日)まで毎号精力的に寄稿している。そして、潤三郎の手を離れて以降、『ほんや』は見るも無残に書物誌としての魅力を失ってゆき、記事が消えて目録のみとなり、第35号(大正11年10月)を最後に姿を消す。
★展示されているこの号では「見立評判記」を寄稿している。文中に《明治四十二年三月、松廼屋主人安田善之助氏の「役者評判記年表稿本」に従えば……》というふうに、亡兄の親友の名が登場している。この号を見た藤井乙男が所蔵の書籍を潤三郎に貸してくれたことから端を発し、「見立評判記」は次号の第2巻第2号(同年3月9日)から「追加」が掲載され、第2巻第5号(同年8月10日)まで続いてゆく。
★『ほんや』誌上で使用された潤三郎の号「牽舟生」は鴎外が明治12年から17年まで使っていたのを譲り受けたもの。蔵書は「牽舟文庫」と銘打っていた。

・書簡/鴎外筆小野節宛(大正6年3月25日付)
★小野泉蔵『招月亭詩抄』を恵贈された鴎外による礼状。弟潤三郎の勤める京都図書館に献本してはいかがと提案。しかし、この頃に潤三郎は京都図書館の退職するのであった。
★小野泉蔵(1767-1832)は代々、備中浅口郡長尾村の豪農。西山拙斎に儒を、菅茶山に詩文を、澄月・慈悲延に和歌を学び、頼春水・頼山陽・伴蒿蹊・木下幸文らと交わった文人でもあった(『鴎外歴史文学集 第十一巻』(岩波書店・2001年12月12日)人名注)。『北条霞亭』の「その百三十二」(初出:『帝國文學』第24巻11号・大正7年11月1日)に文政3(1820)年3月20日に霞亭を訪ねてきた人物として、「その百三十六」(初出:『帝國文學』第24巻12号・大正7年12月1日)には同年9月9日には霞亭と茶山と一緒に御領山へ遊山に出かけた一行の一人として小野泉蔵が登場。「その百三十六」では、《小野泉蔵の招月亭詩抄には三日前の詩があり……》と、鴎外は泉蔵の孫・小野節から恵贈された『招月亭詩抄』を参照しており、文政3年の霞亭伝の資料として活用している。さらに、文政6(1823)年8月17日に江戸で歿した霞亭の訃音が神辺の菅茶山にもとに達したのは9月7日のこと、その二日後、重陽の節句の日も小野泉蔵は茶山と共にいた(『霞亭生涯の末一年』の「その十五」(初出:『アララギ』第14巻9号・大正10年9月1日)、茶山の七律「九日小野泉蔵対酌、二日前子譲訃至」)。【2017年10月28日追記】

・雑誌/『書物展望』第1巻第3号(書物展望社・昭和6年9月1日)
★この号より、潤三郎の連載「古書閑談」スタート。第3巻10号(昭和8年10月)まで全22回連載。後年、森潤三郎著・朝倉治彦解説『日本書誌学大系9 考証学論攷ー江戸の古書と蔵書家の調査』(青裳堂書店、昭和54年11月30日)に収録。

・雑誌/『掃苔』第4巻第8号(東京名墓顕彰会・昭和10年8月15日)
★第一次『掃苔』は昭和7年11月創刊、昭和18年12月終刊。潤三郎は藤波剛一が主宰していた東京名墓顕彰会にも関係しており、その機関誌『掃苔』には、2巻1号(昭和8年1月)から終刊の年の12巻6号(昭和18年6月)まで多数寄稿している。
★この号では、「老樗軒の墓について」を寄稿。震災前の遠い日、潤三郎が編集に携わっていた『ほんや』第2巻5号(大正5年8月10日)に、三村清三郎が「老樗軒の墓」を寄稿しており、竹清の文章は《紺屋の白袴とかや、掃苔家の祖と云ふべき、老樗軒の墳墓の所在、世に知られざりつるを、今年大正五年六月二十五日、不図谷中三浦阪 阪町廿九 真宗宗禅寺にて見出でたり、》という一節ではじまる。「掃苔家の系譜」に鴎外も潤三郎も連なっている。

・図書/森潤三郎著『紅葉山文庫と書物奉行』(昭和書房、昭和8年7月25日)
★後年、複製版が臨川書店から刊行(昭和53年2月25日)。
★鴎出版から『決定版 紅葉山文庫と書物奉行』が2017年8月31日に刊行予定。「著者の訂正・補充を反映させ、昭和八年初版刊行以来八十四年ぶりの改訂新版。」の由。【2017年7月31日追記】

・図書/森潤三郎著『多紀氏の事蹟』(日本医学史会発行・昭和書房販売、昭和8年8月25日)
★潤三郎自筆の追記とおぼしき原稿用紙と一緒に展示。後年、『日本書誌学大系9 考証学論攷ー江戸の古書と蔵書家の調査』に収録。さらに、『多紀氏の事績』(日本医学史学会校訂第2版、思文閣出版、昭和60年5月)として刊行、昭和8年版の複製として『多紀氏の事績』(大空社・伝記叢書308、1998年12月)が刊行されている。

・図書/森於菟・森潤三郎共編『鴎外遺珠と思ひ出』(昭和書房・昭和8年12月19日)
★のちに、『鴎外遺珠と思ひ出 普及版』(昭和書房、昭和9年2月10日)、昭和8年版の複製『近代作家研究叢書59 鴎外遺珠と思ひ出』(日本図書センター、昭和62年10月25日)が刊行。

・葉書/久保田米斎筆潤三郎宛(大正9年1月14日付)
★絵師・雛屋立圃の歿年が延宝9年か寛文12年のどちらであるかを尋ねている。藤井乙男への照会を依頼している。

・書簡/与謝野寛筆潤三郎宛([大正12年5月]26日付)
★鴎外全集編集委員会の連絡。潤三郎は史伝作品収録巻の編集と校訂を担当。「多少の矛盾ハ目をふさぎ、新聞の原稿の通りにて御通過を願ひます」と校正を急かしている。この書簡で言及されているとおぼしき『伊沢蘭軒』収録の第8巻はこの次月、大正12年6月25日に無事に刊行されている。森富・阿部武彦・渡辺善雄著『『鴎外全集』の誕生ー森潤三郞あて与謝野寛書簡群の研究』(鴎出版、2008年5月31日)にて翻刻解説。

・図書/『鴎外全集』著作篇6巻「史伝一」(岩波書店・昭和11年10月30日)
★『渋江抽斎』収録の巻。巻末に25ページにわたって、潤三郎による「校勘記」を収録。本巻に先立って刊行された『伊沢蘭軒』を収録する著作篇第7巻「史伝二」(昭和11年7月5日)では40ページにわたる「校勘記」、『北条霞亭』著作篇第8巻「史伝三」(昭和12年2月28日)では34ページにわたる「校勘記」を収録。以上、潤三郎による史伝三部作の「校勘記」は、その後に書かれた補遺及び正誤と併せて、戦後の岩波書店版第2次『鴎外全集』に収録され、第3次全集にも継承されて、鴎外の史伝研究の基礎資料となった。

・雑誌/『集古』丙子第4号(集古会・昭和11年9月15日)
★潤三郎「渋江抽斎父子の雑記発見 附現存せる抽斎の著述」掲載。のちに、『考証学論攷 : 江戸の古書と蔵書家の調査』に収録。

・書簡/潤三郎筆津田繁二宛(昭和12年11月22日付)
★鴎外全集の編集に際して、書簡の借用についての事務連絡。三越の便箋を使用している。岩波版全集では、新たに書簡と日記が収録されたのであった。『鴎外全集 第三十六巻』に収録されている津田繁二宛書簡は大正5年9月から11月にかけてのもので全6通、『伊沢蘭軒』を連載中の時期であり、長崎在住の津田氏は鴎外に墓地訪問の報告などをし、鴎外に協力していた。

・図書/森潤三郎著『鴎外森林太郎伝』(昭和書房・昭和9年7月7日)
★背文字と扉文字は「鴎外森林太郎」、鴎外の自筆から集めたが釣り合いのとれる「伝」の文字がなかったと凡例にある。内題・柱・奥付は「鴎外森林太郎伝」。

・図書/森潤三郎著『鴎外森林太郎』(丸井書店・昭和17年4月10日)
・図書/森潤三郎著『鴎外森林太郎』(森北書房・昭和17年7月30日)
★昭和9年昭和書房版の改訂増補版。「はしがき」に、《その後兄の日記も刊行せられそれを読んで今迄疑問であつたものが判明したのも多くあるので、皇紀二千六百年の佳辰に際し、わたくしも還暦の齢を迎へることになつたから、その記念のために全部に渉つて書直し、漸く今年刊行の運びに至つた。》。丸井書店と森北書店は発行者はともに森北常雄で、同じ内容である。後年、森北出版より丸井書店昭和17年刊の複製が刊行(昭和58年9月)、さらにその複製が2012年1月に刊行されている。

・書簡/潤三郎筆於菟宛書簡(年不詳12月27日付)
★「遺稿叢書の竹二遺稿『劇の型』」の巻頭に載せたいと、「パッパの洋行中」に送った「篤次郎を中心に小金井叔母さんと右小生、左に三人立」の写真を依頼する文面。結局刊行されることはなかった「遺稿叢書の竹二遺稿『劇の型』」とはなんぞや。

・資料/「三木竹二遺稿集」原稿 年不詳
★刊行の計画があった様子で、『鴎外森林太郎』の版元である森北書房の原稿用紙に竹二の文章が書写されていたり(潤三郎の筆跡ではないとの由)、巻頭に使用する計画だった写真が貼りこまれたりしている。


などと、つい長々と自分用メモを残しておきたくなるくらいに、文京区立森鴎外記念館のコレクション展《森家三兄弟―鴎外と二人の弟》は、1室のみの比較的小規模な展覧会でありながらも、わたしにとってはたいへん示唆に富む展覧会で、あちらこちらで大興奮であった。鴎外と三木竹二とに焦点を当てることはこれまで何度もなされてきたように見えるけれども、ここに潤三郎が加わることで、別の次元で「森家三兄弟」が浮かび上がってくるような感覚で、とても新鮮だった。集古会や細川開益堂といった趣味人・書物愛好家ネットワークを立て続けに目の当たりにして、初めて山口昌男の『「敗者」の精神史』や『内田魯庵山脈』を読んだときの遠い昔の感動を思い出した。坪井正五郎については歿後100年の年に、川村伸秀著『坪井正五郎ー日本で最初の人類学者』(弘文堂、2013年9月30日)が刊行されたのだったが、つい先月、おなじく川村伸秀さんにより、『斎藤昌三 書痴の肖像』(晶文社、2017年6月15日)が上梓されたばかり……というタイミングで出会って嬉しい展覧会でもあった。

そして、こうしてはいられないと、会場で参考文献として挙げられていた、高梨章編著『高梨章書誌選集―湯浅半月・森潤三郎・井上和雄―』(金沢文圃閣・文献探索人叢書、2011年)を取り寄せてみると、さらに大興奮。高梨章氏による、湯浅半月・森潤三郎・井上和雄の「京都図書館トリオ」についての論考がとてもエキサイティング、『鴎外』第68号(森鴎外記念會、2001年1月9日発行)所載の「森潤三郎・森鴎外と「京都図書館淫書刊行事件」」と合わせて、《森家三兄弟》展の極上の余滴となった。高梨氏の論考「古書と京都図書館」に、

 反町茂雄は、日本の古書業界を振り返って、明治41年から大正5年を「顕著な成長」期であるとし、善本と普通本との差別がはっきりとし、稀覯善本の類の値が急激に騰貴した初めての季節だったと語っている。
 また、この時節は、新著新刊の小説よりも、昔の小説、軍談、随筆等の活版本が売れて、東京の書肆はいずれも何々文庫とか何々叢書とか名づけて古書の翻刻を盛んに行った時節でもあった。好古趣味の人、文芸愛好家の数がふえ、古典籍収集家もまた急増したのである。つまり、半月、潤三郎らは、こうした流れの中で古書、古典籍を蒐集しだしたことになる。

というくだりがある。鴎外が史伝に着手したのはまさにこの季節であり、その恩恵を多分に受けてもいた。たとえば、『寿阿弥の手紙』(『渋江抽斎』連載後、大正5年5月21日から6月24日まで全32回連載)の「九」に、

 寿阿弥の生涯は多く暗黒の中にある。抽斎文庫には秀鶴冊子と劇神仙話とが各二部あつて、そのどれかに抽齋が此人の事を手記して置いたさうである。青々園伊原さんの言に、劇神仙話の一本は現に安田横阿弥さんの蔵[キョ]する所となつてゐるさうである。若し其本に寿阿弥が上に光明を投射する書入がありはせぬか。
 抽斎文庫から出て世間に散らばつた書籍の中、演劇に関するものは、意外に多く横阿弥さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行會は曾て抽斎の奧書のある喜三二が隨筆を印行したが、大正五年五月に至つて、又飛蝶の劇界珍話と云ふものを收刻した。前者は無論横阿弥さんの所蔵本に拠つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、抽斎の次男優善後の優が寄席に出た頃看板に書かせた芸名である。劇界珍話は優善の未定稿が渋江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それを刊行會が謄写したものではなからうか。

というふうに、鴎外は「古書の翻刻」を同時代の動向としてすぐさま登場させている。三木竹二が生きていたら、古書業界の「顕著な成長」期であったこの季節をどんなにか満喫したことであろうと思う。『文藝臨時増刊号 鴎外読本』(昭和31年7月25日)のアンケートの「あなたは森鴎外の文学をどう思われますか?」という質問に、戸板康二は《感情になまなましく触れて来ない代りにすべての作品に通じる「書巻の気」を懐かしく思ひます。》というふうに書いている。このたびの《森家三兄弟》展で、もっとも心躍ってそして深く共感したのは、まさにその「書巻の気」だった。わたしは、鴎外・竹二・潤三郎のそれぞれの「書巻の気」をこよなく愛している。

 

 


京都府立京都図書館(明治42年2月2日竣工・同年4月1日開館式・武田五一設計)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真。明治43年、『三田文學』が誕生した年、同志社中学に通学し相国寺境内で下宿生活を送っていた三宅周太郎は毎週日曜日、この図書館に通っていた。2000年に新府立図書館竣工した今も、外壁が保存されていて往時を偲ぶよすがとなっている。

 



「父静男の一周忌記念 明治30(1897年4月)観潮楼玄関前にて/撮影者不詳」として、図録『所蔵資料図録第1集「写真」(全) 写真でたどる森鴎外の生涯ー生誕140周年記念ー』(文京区立本郷図書館鴎外記念室、2002年12月27日初版、2007年3月31日第2刷)に掲載の写真。《森家三兄弟》展では「大橋乙羽撮影」とあった。小金井喜美子著『森鴎外の系族』の口絵等、紹介されることの多い貴重な写真。

  • (後列 左より)小金井次女・精子、妹・喜美子、鴎外、賀古鶴所、篤次郎(三木竹二)、亀井家旧藩士・増野春直、小金井良精、久子の父・長谷文、青山胤通、潤三郎
  • (前列 左より)小金井長男・良一、於菟、小金井長女・田鶴子、母・峰子、西周夫人・升子、亀池家家老・清水路亮夫人、祖母・清子、小金井の母・幸子、篤次郎妻・久子

三兄弟が一枚の写真に収まっているのは、記念館蔵ではこの写真が唯一というが、竹二の妻の真如女史こと森久子とその父・長谷文が写っていることもしみじみ興味深いのであった。

鴎外が『本家分家』を脱稿したのは大正4年8月18日であったが、その翌年の大正5年6月から翌年9月にかけて連載された『伊沢蘭軒』において、頼山陽の「水西荘」について語られるところで、長谷文と久子が登場するくだりがある。「頼山陽書斎(山紫水明処)」として大正11年に国の史跡に指定された、この地(東三本木南町)に山陽が居を移したのは文政5(1822)年11月9日であった。「水西荘」と名付けられたこの地に、同11(1828)年正月に「山紫水明処」と名付けた書斎を建て増しして、ここが山陽の終焉の地となった。天保3(1832)年9月23日に山陽が歿したあと、賢夫人・梨影は生活のために天保5(1834)年、福井藩の医師・安藤精軒に「水西荘」を売却、明治23年、頼龍三が安藤精軒から買い戻してやっと頼家の所有に帰した……ということが綴られている『伊沢蘭軒』の「その二百十二」に

わたくしは偶然水西荘が安藤の有に帰してゐた時の事を知つてゐる。わたくしの亡弟篤次郎の外舅に長谷文さんと云ふ人がある。此長谷氏は水西荘を安藤に借りて、これに居ること三年であつた。そして篤次郎の未亡人久子は水西荘に生れたさうである。是に由つて観れば明治丁丑前後には荘が猶安藤の手にあつた。其後のなりゆきは、わたくしは聞知しない。

とある。「その二百十二」は大正6年2月13日付「東京日日新聞」に掲載されているので、そのちょっと前に執筆されたと思われる。『森鴎外・母の日記』を読むと、長谷文はさかんに観潮楼に遊びにきている様子なので、鴎外はその折に伝聞したのだろう、そんな伝聞に基づいた頼りない情報ではあるけれども、「明治丁丑前後」すなわち明治10年頃に真如女史は頼山陽の終焉の地で生まれた…というのが本当だったらとても嬉しいのであった。

 



『冬夏』第2巻第9号《鴎外特集》(十字屋書店、昭和16年3月1日)。串田孫一主宰の同人誌が鴎外特集を編むに際して、明治製菓宣伝部勤務時代の戸板康二は「森鴎外と三木竹二と」を寄稿したのだった。

若き日の伊原青々園が関根只誠の書庫を自由に閲覧させてもらっていたのと同じように、慶應義塾文科の予科3年に進学する昭和9年の春休み、戸板康二は父の友人である藤木秀吉の知遇を得て、その書斎の本を自由に読ませてもらい、のちに「学恩の大先輩」と呼んだ。その藤木さんが昭和14年4月に急逝したあと、形見として送られたのが『歌舞伎新報』と『歌舞伎』の合本だった。藤木さんの書斎でも折に触れて読みふけっていたであろう『歌舞伎新報』と『歌舞伎』の合本が手元に来たことで、さらに自在に読みこむことになったろう。戸板康二が名実ともに劇評家として世に出たのは『三田文學』昭和10年5月号であり、同年3月歌舞伎座の五代目菊五郎の三十三回忌の「追善興行の歌舞伎座」で劇評家としてのスタートを切った。岡本綺堂著『ランプの下にて』(岡倉書房、昭和10年3月2日)が刊行されたのとほぼ同時に、戸板康二は「劇評家」となった。三木竹二が伝える九代目団十郎と五代目菊五郎に思いを馳せつつ、団菊以後の、綺堂言うところの「強弩の末」を過剰なまでに意識することで、戸板康二の劇評は始まったのだった。


おりしも、岩波書店から第1次『鴎外全集』全35巻(著作篇22巻、翻訳篇13巻)が昭和11年6月から14年10月にかけて刊行され、戸板康二はこの全集を購読しており、藤木さんの形見の『歌舞伎新報』と『歌舞伎』の合本と合わせて、鴎外を読みこんで、そして、この「森鴎外と三木竹二と」を書いた。