戸板康二と新劇史の人びと:戸板康二と滝沢修の歳月に思いを馳せる・その1


去年9月、ハヤカワ演劇文庫で岸田國士作品集の第1集が出ているのを本屋で発見したときはとても嬉しくて、ガバッと買ってホクホクと1篇ずつじっくりよみふけった。前からそこはかとなく気になっていたハヤカワ演劇文庫を読んだのはそのときが初めて。手にとった感じもとてもいいし、なによりも戯曲が文庫としてシリーズ化されているのが嬉しい。戯曲を読むことで近代演劇史を体感する時間はいつも格別。もうちょっと解説が詳しければいいなとかいろいろ思うことはあるけれども、ハヤカワ演劇文庫の刊行が末長く続いて欲しいなアと思ったところで、気が向いたときに、本屋で1、2冊買って、少しずつ読んでいくことに決めて、とりあえず、アーサー・ミラー/倉橋健訳『セールスマンの死』と三好十郎『炎の人』を買って読んでみることにした。人口に膾炙するこれらの作品、戯曲をきちんと読んだのは実は今回が初めてだった。で、いざ読んでみたら、いずれも戯曲としての文学しての純度が高くて、圧倒されてしまってしまって、なんだか痛いくらいだった。いずれも滝沢修の当たり役として名高い作品。滝沢修の姿を想像して読んだだけで、その気迫に圧倒されるというかなんというか、滝沢修を頭に思い浮かべただけで、この圧迫感はこわいくらいである。などと、うまく言葉にはならぬのだけれど、『セールスマンの死』と『炎の人』を読んだ余韻はそれはそれは深いものであった。


というようなことをしているうちに、そうか、戸板康二はこれらの作品の初演を見ているのだなあという事実にゆきあたり、あらためてしみじみ感じ入ってしまうものがあった。劇団民藝で『炎の人』が初演されたのは昭和26年9月(16日から28日まで新橋演舞場。翌月に三越劇場)。1950年代に突入し、新劇がいよいよ円熟してゆく時代を象徴するようである。同じく民藝で『セールスマンの死』が初演されたのは昭和29年4月(8日から28日まで一ツ橋講堂。翌月に帝劇で上演)。ニューヨークでの初演は1949年2月で、同年度のピューリッツァー賞を受賞したことは、戸板康二が編集長をしていた『日本演劇』でも報道されていた(昭和24年6月1日発行号では「セールスマンの死」となっているが、翌月の7月1日発行号では「ある行商人の死」と表記)。日本での上演はその5年後の、ほぼ同時代といってもいい作品として上演されたのだったが、戸板康二をとりまく内外の状況は少なからず変化していた。

 


劇団民藝の機関誌と上演プログラムを兼ねた『民芸の仲間』、その第13号が『セールスマンの死』初演時。表紙:河野鷹思。昭和29年4月(8日から28日まで一ツ橋講堂で初演された翌月に、5月8日か20日まで、劇団民藝による『セールスマンの死』は帝劇で上演された(翻訳:大村毅・菅原卓、演出:菅原卓、装置:伊藤熹朔、音楽:斎藤一郎)。同誌に戸板康二は「菅原卓・素描」を寄稿。また、民藝の「第一回新人公演」として、2月18日から3月1日まで一ツ橋講堂で上演された『煉瓦女工』についての記事も載っていて、八木義徳が「『煉瓦女工』を見たあとで」を寄稿している。《私はながく鶴見に住んでいるので、この芝居に出てくる潮田とか千代田館とか橋のたもとの「鯛焼屋」だとか、みな散歩がてらの親しい風物として知っている。》と書いている。新協劇団ユニット出演で上映禁止となった昭和15年の南旺映画の、千葉泰樹監督『煉瓦女工』を思い出して、ジーン。

 


昭和29年4月と5月の上演時、ウイリイ・ローマンはもちろん滝沢修でその妻・リンダは小夜福子、その長男ビフが宇野重吉。脇では、スタンレー役の宮阪将嘉に大注目なのだった。『セールスマンの死』の初演については、前々から、矢野誠一さんが『舞台人走馬燈』(早川書房、2009年8月)の「宮阪將嘉」の項で、

一九五四年の五月だった。一ツ橋講堂で劇団民藝の上演した『セールスマンの死』に、十九歳になったばかりの私は、心底うちのめされる思いを味わった。あの芝居にちょっと出てくるスタンレーというレストランのボーイを演っていたのが宮阪將嘉で、このとき初めて知った名なのに、これまで何度かその舞台を観たような気がしてならなかった。…

と書いているのを見て以来、ずっと印象に残っていた(「小夜福子」の項にも『セールスマンの死』初演時の回想がある)。『民芸の仲間』第13号の配役紹介には、《長い年月人の頭に立って働いて来た人である。併し遂に本物に触れ得ず、或る日突然、その空虚だった生活を捨て民芸に身を投じた今彼は青年達と一緒になって、この新しい環境の下、俳優生活に悔い残すまじと敢闘中である。》云々と書かれている。「ムサシノ漸」という名でムーラン・ルージュの舞台に立っていた宮阪将嘉は昭和27年12月付けで民藝に入団していた。矢野誠一青年の脳裏に「ムサシノ漸」の記憶がよみがえった瞬間。

 


『大塚和 映画と人生』(えいけいあい企画、1992年9月26日発行)。カヴァーデザイン:和田亜紀。大塚和(おおつか・かのう)は昭和26年2月に宇野重吉の誘いで劇団民藝に参加。機関誌『民芸の仲間』の編集に携わってもいて、その充実した誌面をみると、いかにもという感じ。昭和30年には民藝に在職したまま、日活とプロデューサー契約をした。日活映画で民藝の役者たちの姿をちょくちょく見るのは、大塚和の存在に負うところが多い。新劇役者の資金調達の場としての映画撮影所。この『大塚和 映画と人生』は夫人の編集による私家版。生前の資料と評伝と各氏の追悼文とが三位一体となった構成は、尾崎秀樹編『プロデューサー人生 藤本真澄 映画に賭ける』(東宝株式会社出版事業部、昭和56年12月)に匹敵する充実度だけれど、大塚和の場合はその人望の厚さという点において、藤本真澄とは対極。大塚和は戸板康二と同じ大正4年生まれで、尾崎宏次と東京外国語大学ドイツ語学科での同期生だった。戦前は『映画之友』の編集部にいて、民藝に入るまでの一時期、映画世界社に在籍、『映画ファン』の編集長をしていた。昭和25年11月に『映画手帖』を創刊。その創刊号に戸板康二は「映画アルバイト是非」を寄稿している(『劇場の椅子』所収)。目次を見ると、戸板さんの名前の隣りに十返肇の名前がある。彼は「小説の映画化」という文章を書いている。大塚和は雑誌編集者としてベテランだったので、『民芸の仲間』の編集もお手の物だったという次第。

 


『民芸の仲間』第32号。表紙:河野鷹思。昭和29年4月初演の『セールスマンの死』の再演は昭和32年3月。滝沢修と小夜福子は初演時と同じだけれど、ビフは垂水悟郎になっていたりと、配役は大きく入れ替わっている。真ん中のグラビアページに「再演によせて」として、各氏が短文を寄稿。戸板康二は、

 戦後の新劇のベスト・テンを挙げよといわれたら、私は何の躊躇もなしに、民芸の「セールスマンの死」を推すであろう。
 劇団にとっても、ウイリー・ローマンに扮した滝沢修にとっても、里程標たるべき、記念すべき公演なのである。
 都民劇場のために、この傑作の再上演は、レパートリー・システムへの階程といった感じで、名企画である。

と書いている。また、「到着順」で掲載されている各氏の文章。どんじりは十返肇で、

 「セールスマンの死」は、アメリカ文化の裏にいかに悲惨な小市民生活がなされているかを鮮やかに描いた傑作です。民芸によって、この劇が再び舞台で展開されるのはたのしみです。初演以上の、さらに映画以上の迫力を期待しています。

とエールを送っている。

 

とかなんとか、『炎の人』でも『セールスマンの死』でも、その初演時の『民芸の仲間』をちょいと参照しただけでも、「戸板康二の歳月」に思いを馳せる芋づるが無尽蔵でとたんに収拾がつかなくなってしまうのだけど、今回はひとまず、ハヤカワ演劇文庫で、『炎の人』と『セールスマンの死』の戯曲を2篇続けて読みふけった記念に、以下、戸板康二と滝沢修の歳月を、手元の資料で概観してみたい。



戸板康二と滝沢修というと、古川ロッパ著『劇書ノート』(学風書院・昭和28年10月→筑摩叢書・昭和60年1月)の、安藤鶴夫著『随筆舞台帳』のノートのところに、《例えば三宅周太郎を中村吉右衛門に見立てて、戸板康二を滝沢修に見たてたら、この人の芸風はさァ、男女蔵あたりか。いいえ小芝居にも、田圃の太夫みたいな人もいる、然し、安藤さん、悪く言やあ、ちょこまかしているとでも言わして貰いますかね。》と書いていたのがなんだか嬉しくて、ロッパはなにげなく書いたにちがいないのだけれど、ずっと印象に残っている。


とりあえず思い出せる範囲で、戸板康二による「滝沢修」そのものを語った文章と座談会を列挙すると、

  1. 『演劇人の横顔』(昭和30年2月刊)の「滝沢修」の項。あとがきによると、「滝沢修」は本書刊行時に新たに書き足した4篇のうちの1篇。
  2. 『演劇・北京―東京』(昭和31年12月刊)所収「一枚ずつの俳優論」のうちの1篇。昭和29年10月の新劇合同公演『かもめ』のパンフレットが初出。
  3. 昭和43年4月、「日生劇場・劇団民藝提携公演第2回」のシェイクスピア作・福田恆存訳・浅利慶太演出『ヴェニスの商人』公演プログラム所収「滝沢修の魅力」。
  4. 『百人の舞台俳優』(昭和44年5月刊)の「滝沢修」の項。単行本書き下ろし。
  5. 昭和45年7月、М・シャトローフ『七月六日』上演時の『民藝の仲間』127号に掲載の、田村秋子・戸板康二・小田嶋雄志「座談会・俳優滝沢修の魅力」
  6. 『芸能めがねふき』(昭和55年8月刊)の「滝沢修・芥川比呂志」の項。
  7. 滝沢修著『俳優の創造』(麥秋社、昭和57年5月)序文

といふうになる。そして、大病の1年前の 昭和53年6月の武者小路実篤『その妹』上演時の『民藝の仲間』193号では、戸板康二と滝沢修の「対談 舞台より愛をこめて」が掲載されている。

 


『セールスマンの死』のウイリー・ローマン、『演劇人の横顔』(白水社、昭和30年2月20日)口絵より。この本の刊行当時、滝沢のもっとも強烈な印象がこのウイリー・ローマンだったのかも。

 


見開き1ページで一人ずつ文字通り「百人の舞台俳優」を戸板康二の文章、吉田千秋の写真で概観する『百人の舞台俳優』(淡交社、昭和44年5月13日)に掲載の滝沢は青山半蔵。『夜明け前 第一部』は昭和39年3月27日を初日に、新協劇団の旗揚げ公演の久保栄演出を30年ぶりに復元して劇団民藝により上演、第2部は翌昭和40年8月14日を初日に上演された。その際の舞台写真。