戸板康二と歩く東京:千駄ヶ谷、代々木山谷から明治神宮へ(前篇)

 

2011年6月26日付けの『戸板康二ノート』にて、「戸板康二が幼年時代を過ごした渋谷メモ。代々木山谷と渋谷永住町。」と題して、戸板康二の渋谷時代に思いを馳せたことがあった。戸板康二の代々木山谷時代は、『回想の戦中戦後』の「うまれた町」に、

 生まれたのは三田だが、ぼくとしては、その次に移った代々木山谷の家を、かすかにおぼえている程度である。
 あとで知るのだが、代々木にいる時、近くで明治神宮が造営されていたらしい。その家も小さかったが、門とめぐらした垣根があり、似たような家の並ぶ横町に面していた。家を出て左折してしばらくゆくと、川べりに父のつとめていた会社の電線工場があった。
 ぼくは、久留島武彦という童話家を園長とする早蕨幼稚園の分園に通っていたそうだ。犬張子のついたエプロンをつけていたそうだ。

というふうに、きわめておぼろげに回想されるわずかな記憶に過ぎない。と、大正4年12月に《芝三田四国町にある祖母の女学校と、電車通りをへだてた平家の小さな家》に生まれて、大正8年頃に代々木山谷に移住し、大正9年1月に上海に渡るまでの幼年時代の日々は、戸板康二にとっては、モダン上海での異国生活とその帰国直後の実母を喪う大震災という強烈な記憶の前のかすかな思い出に過ぎないのだけれど、戸板康二の代々木山谷時代に思いを馳せることで浮かび上がる大正期の東京市外の郊外のありようがたいへん面白いなとかねがね思っていて、一度じっくりこの地を歩いて、戸板康二の代々木山谷時代についてとっくりと考えてみたいなと思っていた。


……と思っていただけで、そのまま数か月が過ぎていたところで、去年12月から今年1月にかけて、渋谷区立松濤美術館で開催された《渋谷ユートピア 1900-1945》展がとてもおもしろくて、あらためて戦前東京の郊外としての渋谷のありように目を見開かされた。戸板康二の渋谷居住時代、すなわち震災前の代々木(大正8年頃)と震災後の広尾(大正13年秋~大正15年)を思ううえでも、モクモクと刺激的な展覧会だった。と、そのあとまた数か月が過ぎ、やっと機が熟した。2012年6月30日土曜日夕方、ようやく念願の代々木山谷散歩が実現とあいなった。

 


たまに代々木駅を下車する機会があると、松本竣介がモティーフにしたアーチ型の屋根が嬉しいことに今も残っている東口の前に立って、悦に入っている。

 


《駅 1942頃》、『太陽』1987年11月号《特集:モダンシティ・ストーリー[東京・大阪・神戸]》所収、酒井忠康「都市のリリシズム 松本竣介の東京」に掲載の図版。

 

松本竣介《代々木駅裏 1943年》、『「生誕100年 松本竣介展」図録』(2012年)より。同図録には、代々木駅東口をモティーフにした作品として2作品、《代々木駅裏 1943年》と《風景(駅の裏口) 1947頃》が掲載されている。

 


というわけで、6月末日の夕方の戸板康二散歩の出発地は松本竣介のモティーフではじまったのであった。

 


代々木駅の高架をくぐって、駅前広場に出るとほどなくして、昭和49年から翌年にかけて放送の TV ドラマ『傷だらけの天使』でおなじみの老朽したビルが、NTTドコモのビルを背後に今も健在である。このビルを右手に直進すると、やがて小田急線の踏切にいたる。終点新宿はすぐ右、そしてすぐ左手に南新宿駅のホームが見える。

 


小田急線は昭和2年4月1日、新宿をターミナルに開通した。小田急の創業は大正12年5月、当初は本社を丸の内の三菱仲三号館においていたが、昭和2年12月27日、すなわち開通の年の暮れに現在の南新宿駅前に本社社屋が落成した。渡辺仁設計、昭和2年12月竣工の小田急の旧社屋はだいぶ改修がほどこされているけれども、いかにもモダーンな外見は今も鮮やか。たまに小田急線に乗る機会があると、新宿に到着直前にこの建物を車窓からうかがうのをいつもたのしみにしていたのだけれど、実際に建物のまん前に来たのは今回が初めて。まずは踏切の上の歩道橋から建物の全景を眺めて、ふつふつと嬉しい。

 


《千駄ヶ谷新田(現・南新宿)駅(S2.12)》、『小田急75年史』(小田急電鉄株式会社、2003年3月)より。南新宿は当初は「千駄ヶ谷新田」という駅名だった。昭和12年7月1日に「小田急本社前」と改称、昭和17年5月1日に小田急が東急電鉄と合併したことを受けて「南新宿」と改称し、敗戦後の新生小田急の出発を経て現在に至っている。この写真では、「千駄ヶ谷新田」駅のチャーミングな駅舎と上りホームが本社脇に位置していることが見てとれる。現在の南新宿駅は参宮橋寄りに移動している。

 

歩道橋をわたって、至近距離から旧本社ビルを眺める。建物と線路の間にかすかに駅の跡が伺えるような気がする!

 


小田急の踏切を渡って、旧本社ビルを間近に観察。脇から見ると、あらためてとってもモダーン! 『小田急五十年史』(小田急電鉄株式会社、昭和55年12月27日)の「第一章 創業期」の「初代本社と二代目本社」に、

 関東大震災直後の建物だけに、頑丈を第一とし、柱はできるだけ多くせよと言われたために太い角柱だらけのビルとなった。柱の列がちょうどいい具合に課と課の境界の役を果たしていたが、昭和一ケタ時代は組織改正など皆無であったから、この状態が長く続いた。当時給仕として勤めていた武田孝・現富士山ゴルフクラブ専務がいみじくも「課のために柱があるのか、柱のために課があるのか」と評したのは言いえて妙であった。

という記述があって、頬が緩む。そんな小田急本社ビルは戦災にも生き残り、昭和50年8月18日に新宿区西新宿に新築の小田急明治生命ビルに移転するまで、本社はこのビルに置かれていた。現在は「小田急南新宿ビル」という名称である。

 

 

戸板康二の父・山口三郎は慶應義塾の理財科を卒業して、大正3年4月、藤倉電線株式会社(現・株式会社フジクラ)に入社する。藤倉電線の二人目の大学卒の社員だった。株式会社フジクラのウェブサイト(http://www.fujikura.co.jp/)内の「先哲の室~フジクラの歴史」に明快に解説があるとおり、明治23年9月、千駄ヶ谷900番地の紀州徳川家の土地を買収して新工場を建設し、明治29年6月に千駄ヶ谷922番地に工場を移転する。それまでこの地にあった製糸工場の蒸気機関や水車の設備を活用した995坪の広大な敷地を有する大工場であった。かつてこの界隈には、湧水のほかに甲州街道沿いの玉川上水から水を引いた水路がいくつもあり、水車が点在していたという。

 

《大正初年の千駄谷本社》、『藤倉電線社史 八十八年のあゆみ』(藤倉電線社史編纂委員会、昭和48年2月25日)より。藤倉電線の二人目の大学卒社員として期待を一身に背負って、大正3年4月、戸板康二の父・山口三郎は藤倉電線に入社する。

 私が社長にお目にかゝつたのは、二十五年前(大正三年四月十六日)、千駄ヶ谷工場の社長室で、紹介せられたのが最初である。實を申せば、當時の千駄ヶ谷の本社々屋は頗る貧弱で、社長室と云つても玄關の側の五坪位の小さな室で、そのお粗末なのに私は全く驚いたのである。

山口三郎は取締役営業部長という役職にいる昭和14年、25年前の入社当時のことを以上のように回想している(「敬愛せる社長の思ひ出」、『松本留吉』松本留吉翁伝記編纂委員会・昭和14年3月24日)。

 

《大正六年一月の千駄谷本社》、『藤倉電線社史 八十八年のあゆみ』より。大正4年12月に生まれた長男康夫は、両親のもとを離れることなく戸籍だけ大正6年に祖母戸板関子の養子となり戸板姓に、さらに大正12年に康二と改名し「戸板康二」となる。そのお父さん、藤倉電線営業部の山口三郎もこの写真のどこかにいるのかな。

 

慶應義塾理財科を卒業し、藤倉電線の新入社員となった大正3年、山口三郎は戸板関子の長女ひさと三田四国町に所帯をもち、遠路はるばる千駄ヶ谷の地に通勤していた。『藤倉電線社史 八十八年の歩み』によると、同社の千駄ヶ谷工場時代は古風な大福帳が使用されており、新入社員の山口三郎が毎朝出勤して最初にやる仕事は硯に向かって墨をすることだったという。と、大正4年の長男誕生以降もおそらく三田四国町から通勤していたものの、大正7年に次男弘文(大正9年3月に上海で死亡)が生まれたのがきっかけだったのか、大正8年に一家は代々木山谷(当時の住所は豊多摩郡代々幡町大字代々木山谷)に移住する。一方、藤倉電線は大正6~7年の軍需景気の波にのり急成長を遂げ、大正9年1月21日に上海出張所が開設されることになった。山口三郎はその所長を命ぜられ、前年の大正8年に単身赴任、翌大正9年1月、母と二人の息子は神戸から長崎丸に乗って上海へゆき、父と合流、日本租界北四川マグノリアテレス十三号に居を構えた。


すなわち、大正8年に初めて、山口三郎一家は三田四国町から代々木山谷に引っ越して、《その家も小さかったが、門とめぐらした垣根があり、似たような家の並ぶ横町に面していた。家を出て左折してしばらくゆくと、川べりに父のつとめていた会社の電線工場があった。》というような郊外生活を営んだのだった。この年、明治神宮の造営がはじまっていたが、翌年の完成を見ることなく、一家はあわただしく上海に移住し、大正12年の震災の年に帰国したあとは芝に住み、二度と代々木山谷に住むことはなかった。震災の年の1月に、深川平久町に新工場が完成すると同時に、藤倉電線の本社は千駄ヶ谷から深川へ移転していたのだった(ちなみに、その深川工場は震災で全焼し、大正13年3月に復旧するまで千駄ヶ谷に仮社屋が置かれたので、山口三郎は再び千駄ヶ谷通勤生活を経験したと推測される。)。

 


『スタンダード東京都区分地図』(日本地図株式会社、昭和31年6月発行)の「渋谷区」のページより、千駄ヶ谷・代々木界隈を拡大(南新宿駅の位置が間違っている…)。旧い住居表示の残っている時期の地図。現在の住居表示では、山手線の内側が「千駄ヶ谷」だけれど、かつては代々木駅の山手線の外側から甲州街道までの一帯、すなわち現在の代々木1丁目と2丁目の一部も「千駄ヶ谷」だった。昭和44年の町名改正は、山手線の駅名にのっとって、千駄ヶ谷の一部を代々木に変えてしまったわけで、古くからの土地の由来を無視した、まったくもって乱暴な話だなあと思う。この地図の「文化服装学院」の文字のあるあたり、千駄ヶ谷のはしっこ、京王線の走る甲州街道と代々木山谷町との境界に接している位置に、かつて藤倉電線の広大な工場があった。

 

 

2011年6月26日付けの「戸板康二ノート」にて、「戸板康二が幼年時代を過ごした渋谷メモ。代々木山谷と渋谷永住町。」と題して、戸板康二の渋谷時代に思いを馳せたときに、戸板さんの一家がほんの一時期住んでいた代々木山谷は五代目歌右衛門の邸宅のあった千駄ヶ谷に隣接していて、その五代目歌右衛門の邸宅は前々から興味津々の渡辺仁設計の昭和2年竣工の小田急の旧本社ビルと同じ通りに面している、以上2点の事実にそこはかとなく感興がわいたのだったけど、よくよく確認してみると、その五代目歌右衛門の千駄ヶ谷御殿は、戸板さんのお父さんが毎日通勤していた藤倉電線の千駄ヶ谷工場と結構近所でもあるのだった。


……という次第で、まずは、小田急の旧本社ビルを左手に、甲州街道方面へと直進し、かつてその左側にあった五代目歌右衛門の千駄ヶ谷御殿に思いを馳せつつ、藤倉電線の工場の跡地に向かう。

 


『復刻 大東京三十五区分詳細図(昭和十六年)22 渋谷区』(人文社)=『大東京区分図 三十五区之内 渋谷区詳細図』(日本統制地図株式会社、昭和16年1月15日初版、昭和17年11月5日再版)より。


小田急の南新宿駅に隣接する小田急本社ビルを左に甲州街道に向かって直進する通りの左に「中村邸」の文字がある。大正4年から昭和14年まで、ここに歌右衛門が住んでいた。小田急本社ビルの向かいに「鉄道官舎」があるが、現在はこの地が「JR東京総合病院」。かつては「中村邸」の向かいの位置に「鉄道病院」があった。この「鉄道病院」のあたりが、明治23年9月、紀州徳川家の土地を買収して藤倉電線が初めて千駄ヶ谷に工場を建設した場所。藤倉電線は明治29年6月に同じ千駄ヶ谷内に工場を移転するが、その千駄ヶ谷922番地は、中村邸の裏手にある嘉悦邸の左下あたりから甲州街道、代々木山谷との境まで広がる千駄ヶ谷の角にあたる部分。上の地図の「千駄ヶ谷五丁目」の文字の左下の角の部分。

 


大正6年に編まれた藤倉電線株式会社による工場アルバム『FUJIKURA INSULATED WIRE & CABLE Co.』。「製品目録」、「本社の来歴」、「工場の設備」の文字ページのあとに、千駄ヶ谷工場の写真を39枚収める。山口三郎が入社した頃の藤倉電線の雰囲気を伝える一級資料。

 


《藤倉電線株式会社工場全景》、『FUJIKURA INSULATED WIRE & CABLE Co.』に掲載の図面。

 

 

同じく、『FUJIKURA INSULATED WIRE & CABLE Co.』に掲載の、藤倉電線株式会社事務所の写真。上の工場全景図の右寄りのところに見える事務所の写真。前面に甲州街道沿いを走る京王線の専用軌道が写っているのが嬉しい。この小さな事務所が、大正3年から数年間、戸板康二のお父さん・山口三郎が通勤していた場所。建物の左の道を代々木山谷からテクテク歩いて出勤していたのだろうなあということが鮮やかに実感できる素晴らしい写真。事務所を背にこの道を歩くとしたら、その左先の方角に五代目歌右衛門の広大な邸宅があったということになる。

 

山口三郎が藤倉電線株式会社に入社し、千駄ヶ谷通勤生活がはじまった大正3年の翌年、大正4年7月に、歌右衛門は千駄ヶ谷に新築した大邸宅に転居する。その後、昭和14年4月26日に高輪に移るまで(このとき千駄ヶ谷の家は売却)、歌右衛門はこの地の住人だった。歌右衛門の最後の舞台は昭和14年5月の歌舞伎座の『桐一葉』の淀君で、翌昭和15年9月12日に芝区車町の自宅で他界した。つまり、歌右衛門は、劇界最高峰の役者としての後半生を千駄ヶ谷の地で過ごしたのであった。

 


図録《五代目中村歌右衛門展》(早稲田大学演劇博物館、2000年9月25日発行)。表紙は『桐一葉』の淀君。12年前に演博で開催された本展覧会で、「歌右衛門御殿」「千駄ヶ谷御殿」と呼ばれた約二千坪ぼ豪邸の復元図がつくられ、その微細にわたった復元図がたいへん感動的。本図録の「千駄ヶ谷御殿」のページに、以下のように解説がある(p34-35)。

 大正2年から松竹合名社の経営となった歌舞伎座は、歌右衛門を筆頭として、十一代目仁左衛門、十五代目歌右衛門、七代目八百蔵(のちの中車)という顔ぶれを擁していた。これに対して丸の内の帝国劇場は、七代目幸四郎、六代目梅幸、七代目宗十郎の陣容で対抗し、さらに、下町の二長町にある市村座に立て籠もる若き六代目菊五郎と初代吉右衛門が勢いを得てきていた。
 大正3年1月3日、歌右衛門は、高橋箒庵を訪問して新宅に関する造作一切の指揮を依頼する。三井出身の大数寄者箒庵とは、あの東京座の「不如帰」で三井呉服店と提携するなどした旧知の間柄であった。歌右衛門と箒庵の依頼によって、大広間の地袋には田中親美が得意の金砂子をおし、杉戸の絵は川辺旭陵や久保田金僊が描き、床の間を飾る三幅対は下条桂谷が筆を揮うなど、邸の内外に贅が尽くされた。
 大正4年に完成した新宅のあった場所は、東京府下豊多摩郡千駄ヶ谷町字新町裏通八百九十一番地(現在の渋谷区代々木2-25)。敷地面積は約二千坪、建坪約二百坪に及んだ豪邸は、世に〈千駄ヶ谷御殿〉と呼ばれ、歌右衛門全盛の象徴となった。

郊外の広大な敷地に、実業家茶人・高橋箒庵に依頼して大邸宅を建立する歌右衛門は、歌舞伎役者でありながらも大会社の重役のような趣味と風格と聡明さを持っていたのであった。実際、昭和初期の歌右衛門邸の並びには、ヱビスビールの重役・橋谷農学博士と藤倉電線の重役・岩上照雄の邸宅があったというからおもしろい(『千駄ヶ谷昔話』東京都渋谷区教育委員会発行・1992年3月1日)。

 


上掲の図録《五代目中村歌右衛門展》より、歌右衛門邸の「門燈と冠木門」の写真。この門の向こうの広大な敷地が歌右衛門の千駄ヶ谷御殿。藤倉電線の重役の岩上氏の邸宅の並びにあった歌右衛門邸の前を山口三郎が歩いたとしたら、こんな感じの視覚を得ていたということになる。大正3年4月に藤倉電線に入社し、千駄ヶ谷に通勤するサラリーマンとなった山口三郎は早くも所帯を持ち、翌年に戸板康二が誕生するのであったが、下町育ちで子どもの頃からの芝居好きの山口三郎のことだから、歌右衛門の千駄ヶ谷御殿にはミーハー心をおさえられず、会社の帰り道とか休日の散歩の折とか、何度も見物していたのではないかな、大正3年は建設中で歌右衛門が転居するのは大正4年7月、歌右衛門の転居の折には大興奮だっただろうなア! と、そんな想像をするのはたいへんたのしい。

 


同じく図録《五代目中村歌右衛門展》に掲載の、「築庭前の歌右衛門邸」の写真。図録巻末の児玉竜一氏による「図版解説で辿る 五代目中村歌右衛門の生涯」によると、《大正2年に上方屋から売り出された絵葉書である。「千駄ヶ谷 歌右衛門邸」とあるが、まだ建築には取りかかっていない。》とのことで、この素敵過ぎる上方屋の絵葉書を山口三郎も持っていたかも! 持っていなかったとしたら当時の山口三郎に教えてあげたい! と、そんな妄想をするのはたいへんたのしい。

 

ちなみに、戸板康二が歌舞伎俳優・中村雅楽を探偵とするシリーズを書き始めたとき、その第1作の『車引殺人事件』(『宝石』昭和33年7月号)で初めて登場する中村雅楽は、《中村歌右衛門の歌を、酒井雅楽頭の雅楽に変えて、ごく軽い気持ち》で命名されたものだった(立風書房版『團十郎切腹事件』作品ノート)。当初はシリーズ化されるなんて考えてもいなかったと戸板さんは書く。そして、雅楽の住居は第1作ですでに「千駄ヶ谷」に設定されている。こちらも「ごく軽い気持ち」での五代目歌右衛門からの連想に違いない。その後、長きにわたって書き続けられる中村雅楽シリーズにおいて、雅楽の家はずっと「千駄ヶ谷」である。後年、雅楽が千駄ヶ谷の家の近くの花屋で働いている少女が好きになり、花屋の開店する朝十時に向かいのコーヒー店に陣取り、その少女を眺めるのを楽しむ……というストーカーまがいのエピソードが嬉々と登場したりする。戸板さんの嗜好を反映させた微笑ましげに挿入されるそんなエピソードには微苦笑するしかないのだけれども、なにはともあれ、中村雅楽シリーズの舞台は終生「千駄ヶ谷」であった。

 

 

大正から戦前昭和にかけてこの地にあった五代目歌右衛門の千駄ヶ谷御殿に胸を熱くしているうちに、甲州街道に到着(胸を熱くし過ぎて、歌右衛門邸のあった場所の写真撮影は失念)。かつては、甲州街道に沿って玉川上水があり、京王線の線路もあった。今はこの地下の京王線が走る。玉川上水をしのぶ碑が道路沿いの広場に立っている。京王線の歴史は小田急よりも古くて、新宿への開通は大正初年代前半、歌右衛門の千駄ヶ谷移転とほぼ同時代。歌右衛門の千駄ヶ谷御殿の界隈と代々木山谷は、昭和2年開業の小田急線と京王線にはさまる地域に位置していた。郊外電車の発展から見る大正から昭和初期のモダン東京の形成がイキイキと実感されるのであった。と同時に、芝居好きのお父さんに連れられて芝居見物を重ねるごとに、お父さんと同じくらい芝居好きになっていった戸板康二少年の見ていた時代の歌舞伎、すなわち、上掲の歌右衛門展図録で語られている歌右衛門の千駄ヶ谷時代と同時期の、歌舞伎座、市村座、帝劇が鼎立する、戸板康二の少年時代の歌舞伎とその背後にあるモダン東京をおもうのであった。

 


と、五代目歌右衛門の千駄ヶ谷時代の歌舞伎に胸を熱くしながら、ウェブサイト「発祥の地コレクション(http://hamadayori.com/hass-col/)」を参照して知った「株式会社フジクラ千駄ヶ谷工場発祥の地(http://hamadayori.com/hass-col/company/Fujikura.htm)」の碑の前に立つ。新宿文化クイントビルの脇(新宿駅方向の側面)にひっそりと藤倉電線の碑が建っているということはかえすがえすも嬉しいことだ。写真の正面に写る道を右に直進すると、小田急線のかつての山谷駅のあった場所(昭和2年4月1日開設、昭和21年5月31日廃止)に行きあたる。その道の途中が「千駄ヶ谷」と「代々木山谷」の境界線。このあと、千駄ヶ谷から代々木山谷への散歩が続く。