早稲田大学演劇博物館で《初代中村吉右衛門展》を見る。


開催を知ったときから待ち遠しくてたまらなかった演博の初代吉右衛門展は、今月7月2日を初日に、現在絶賛開催中(会期は来月8月7日まで)。ソワソワと毎週見物に出かけて、この三連休で三回目の見物をしたところ。その素晴らしさは十分予想していたはずなのに、いざ開催されてみたら、館蔵と当代吉右衛門所蔵と個人蔵の資料とが三位一体になって、演博ならではのぜいたくな空間に大興奮。映像や音声もすばらしく、展覧会全体の構成がとにかく素晴らしい。会期終了まで、できるかぎり足を運びたい。そして、感動してばかりいないで、今回の展覧会で知ったことや思いついたことを今後自分なりに深めていけたらいいなと思う。

 


《初代中村吉右衛門展》チラシ。早稲田大学演劇博物館にて2011年7月2日から8月7日まで開催(http://www.waseda.jp/enpaku/special/2011kichiemon01.html)。周囲に吉右衛門の写真があしらってあり、その裏面にそれぞれの写真にタイトルらしきものが付されている、これ1枚で「プチ吉右衛門展」の様相を呈する親切なチラシ。図録はいまだに刊行がないので、そろそろ諦めた方がよいかな、残念なり。チラシに掲載されている個々の写真を眺めて、後日のよき思い出としたい。



会場に足を踏み入れると、しょっぱなで対面する鳥居清忠筆の「中村吉右衛門当り芸屏風」が素晴らしく、見ていていつまでも飽きないものがある。屏風の下には、館蔵のブロマイドがちりばめてあり、屏風と合わせて、明治大正昭和の吉右衛門の数々の役に思いを馳せるひととき。説明書きによると、この屏風は大正5年2月に田村成義から吉右衛門に贈られたもので、その後、築地小劇場でおなじみの土方与志のお祖父さんの土方久元の手に渡り、与志留学中に演博に寄贈されたものだという。土方与志といえば、吉右衛門が大正10年の市村座脱退後に結成された「皐月会」の会員に小山内薫とともに名を連ねているのを思い出し、そうそう、大正7年頃から小石川の土方邸の地下室で伊藤熹朔らと装置の研究に励んでいたのだったなあと、いつのまにか、市村座に関係していた大正期の小山内薫人脈のことで頭のなかがいっぱいになっているのだった。


明治42年11月4日の伊藤博文の国葬のときに都新聞社の前で撮影されたという写真がデーンと掲げられてあって、びっくりするくらいに鮮明な写真で、感動のあまりしばし立ちすくむ。以前に見たことがあったかもしれないけれど、「初代吉右衛門展」という文脈で見るとまた違った感慨が湧いてくる。顔の識別が苦手なわたしでも、説明書きのおかげでじっくり観察できてありがたいことであった。それにしても、それぞれの顔面が見事、見事と、いつまでも見とれてしまう。梅幸はいつもながらに見目麗しく、菊五郎はいつもながらに不敵な面構え。伊井蓉峰はやはり男前だなあと思っているうちに、喜多村緑郎がどこかにひそんでいないのかなということがちょっとばかし気になってくる。明治42年の喜多村といえば、三宅周太郎が京都で『侠艶録』を観劇して喜多村に心酔のあまり、思い余って喜多村に弟子入り志願の手紙を書いたという挿話を思い出す。とかなんとか、ぼんやり写真に見とれているうちに、さまざまな「明治四十二年」をおもって、それがとても楽しい。それにしても、見事な写真。


明治41年4月の三代目歌六・二代目時蔵襲名時の扇子のところには、上方歌舞伎の伝統に深く根ざした三代目歌六を父に持ったことが吉右衛門の重層的な芸の源となった、というふうな解説が付されていて、フムフムとなったあとで、素顔の吉右衛門の写真がたくさん散りばめてあるウィンドウを目の当たりすることになる。このすばらしい写真の数々は「個人蔵」となっていて、その「個人蔵」の文字から「どうだ、すごいだろう!」という声が聞こえてきそうな気がする。なんかもう、本当にすごいコレクションだ。『らくだ』上演時に小さんに教えを乞う写真には誰もが興奮するに違いなく、イラストと合体させた写真がチャーミングだったり、大正14年1月のひさびさの菊吉合同公演時の写真などなど、味わい深い写真の数々が見事。本当にすばらしい写真の数々!


吉右衛門といえば、一番心ときめくのはやっぱり市村座時代で、その資料群も見ごたえたっぷりだった。明治38年11月の歌舞伎座番附は、『石切梶原』を八百蔵(七代目中車)の大庭、羽左衛門の俣野、梅幸の梢、松助の六郎太夫という配役でつとめた、弱冠二十歳の吉右衛門が名題に昇進した記念すべき舞台。その明治38年の『石切梶原』は、先ほど鳥居清忠の屏風の下に並べてあるブロマイドで見たばかりだったので、もう一度見に行ったりする。菊吉が市村座に加入して丸2年となる明治43年11月の市村座では、役替わりで『仮名手本忠臣蔵』が上演されたという。先ほど目をウルウルさせて見とれていた伊藤博文国葬時の巨大パネルのちょうど1年後。そして、ここには、そのとき市村座を訪れた6人の画家が即興でこしらえた戯画が掲げられてある。すべて吉右衛門が演じた役にちなんだもので、安田靭彦の「暫」、廣瀬長江の大序、小林古径の四段目、今村紫紅の五段目、前田青邨の六段目、小杉未醒の七段目。それぞれに洒落っ気たっぷりだけど、やっぱり未醒のめんない千鳥が一番好き。山口昌男の『「敗者」の精神史』で読んだ明治末期の未醒のことを思い出したりして、明治末期のいろいろな人物の交錯にはなにかと心ときめくものがあるのだった。

 


《四十年昔の水墨六軸》、『花道別冊 吉右衛門歌舞伎』(梨の花會、昭和25年11月15日発行)より。今回展示してあった水墨画が掲載されていて、歓喜。

 明治四十三年十一月、市村座で、吉右衛門が初役で由良助を演じた時、その楽屋を訪づれた六画伯が、吉右衛門の為に即興の戯画を描いて贈つた。用ひた紙が昔の大福帳であるのも珍らしい。この画伯らは今は芸術院会員として立派な大家となつた。この六本の軸が戦災で家財殆ど焼かれた吉右衛門の許に、不思議にも無事に残つた。想へば今から四十年前のこと、感激家の吉右衛門は感慨無量の思ひであらう。

101年後の今年、演博の展示室にお目見えして、感慨無量。明治43年、吉右衛門も若かったが,画家たちも若かった。みんな若かった。

 

また、田村成義は久しく埋もれていた世話物を市村座で復活させたということはよく語られていることだが、大正5年11月に市村座が幕末以後絶えて久しかった顔見世興行を復活したということは今回初めて知って、ちょっと目から鱗だった。贔屓筋に配っていたという鴨雑煮の包装紙がおもしろかった。先ほどの忠臣蔵の役替わり興行と合わせて、田村成義の市村座がかもしだす、久保田万太郎言うところの「二長町といふ感じ」というものをなんとはなしに思う。

 


明治19年生まれの人気役者吉右衛門の生きた時代と彼をとりまく「文化人」の交錯を見ることで、いろいろと類推が広がって、「歌舞伎」にとどまらない日本の近代そのものへ思いが及ぶような展覧会になっているのだったが、そんななかで、わたしがもっとも興味深かったのは、吉右衛門の後援雑誌をはじめ、会場にエンドレスで流れるレコード、たくさん目の当たりにしたブロマイド、興行チラシ、記録フィルム、戦後の雑誌等々、明治19年に生まれて昭和29年に死んだ吉右衛門にまつわる諸々のメディアのことだった。古川ロッパ展のときはカラー写真が3点紹介されていたけれど、今回の吉右衛門展では、そのロッパ展の会期の直前に発売された『GHQカメラマンが撮った戦後ニッポン-カラーで蘇る敗戦から復興への記録』(アーカイブス出版、2007年5月刊)が紹介されていた。晩年に撮影された映画は部分的にカラー映像になっていたりする。一方、昭和24年に死んだ菊五郎のカラーの映像なり写真なりは見ることはできない。


吉右衛門と雑誌メディアということで、雑誌『劇』所載の表紙写真が紹介されている。大正11年12月に創刊された東京俳優組合事務所発行の大判の写真雑誌で、編集発行人は湯浅半月。上方屋が印刷を請け負っていたとのことで、先ほども目の当たりにした多数のブロマイドと合わせて、「上方屋と歌舞伎」にまつわる近代文化史といったようなものに興味津々。そして、圧巻はなんといってもファン雑誌。『揚幕』と『中村吉右衛門』という大正期の後援雑誌の展示が迫力満点。『揚幕』は大正5年11月から大正12年1月の発行で、吉右衛門本人が「市村座退座の事」という文章を寄せていたりする。ズラッと並んだ『揚幕』は「個人蔵」となっていて、その稀覯本オーラにうっとり。大正中期を通して毎月後援会誌を継続した役者は吉右衛門のみという解説にうーむと唸る。解説にあるとおりに人気の証左であると同時に、吉右衛門のファン層はよきスタッフに恵まれていたというか、雑誌や小冊子作りに意欲的な人種が多かったということのような気もする。『清正劇と吉右衛門』という小冊子は昭和9年5月歌舞伎座の『蔚山城の清正』初演を記念して編まれたものだそうで、このような冊子は、初代鴈治郎の『河庄』をのぞいてほかに例がないという。


また、その『蔚山城の清正』は昭和17年2月19日午後8時から吉右衛門一座により放送され、その台本が並べて展示してあった。戦前のラジオというと、JOAK にまつわるあれこれもなにかと魅惑的で、久保田万太郎文芸課長を思い出すのだったが、その在任時期は、大正15年10月から久米正雄とともに嘱託として週一回通勤するようになり、昭和6年8月に文芸課長に就任、昭和13年8月に退職。『花道別冊 吉右衛門歌舞伎』には大岡龍男(肩書は「作家・NHK 企画部員」)が、《吉右衛門は、せりふの旨い人で、だから声の俳優としても、歌舞伎役者中で、最もラジオに向く人である。》と書いていて、メディアと吉右衛門を思う上で興味深い。

 


雑誌『中座』大正15年11月3日発行。会場には、いくつかの雑誌記事のコピーをコーティングしたものが置かれていて、自由に参照できるようになっている。そのうちのひとつが、この『中座』所載の「諸家の中村吉右衛門についての感想」。しょっぱなで伊藤悌二が同年初演の夏芝居、綺堂の『権三と助十』の家主のことを書いているのを見てニンマリだった。こうしてはいられないと、コピーをとり自宅に持ち帰りあたらめてじっくり見てみると、この『石切梶原』の表紙が実にチャーミング! 取り急ぎ、早稲田の OPAC で検索したところによると、『中座』は松竹合名社宣傳部発行で大正15年9月創刊、同年12月まで『中座』として刊行され、翌年から『道頓堀』という誌名になったようだ。ああ近代大阪! そして、隣りに置いてあった、『改造』昭和14年7月号所載の邦枝完二の「素顔の吉右衛門」もとても面白かった。資生堂で震災以来ひさしぶりに遭遇する邦枝完二と播磨屋。邦枝完二は三宅周太郎の同い年。

 

会場のスクリーンには、昭和11年10月24日、三代目歌右衛門百年忌を記念して池上本門寺に三代目歌右衛門の碑を建立したときの映像が映し出されていて、ほんのわずかしか顔の識別ができないくせに、またまたウルウルと感激。このときに中村会が結成されて、その翌月、三代目歌右衛門百年の記念興行が催されたという。同年の『三田文学』5月号所載の「四月の劇界」の題する劇評で、弱冠二十歳の戸板康二が《團菊祭とは何ぞやと云ふと、當りさへすれば馬鹿の一つ覚えに、陳腐に堕するまでつゞけて行ふのが恒例の松竹が、去年の追善興行の筆法を又用ひた、おろかしい企てである》と怒っていたり、翌年の昭和12年は新派創設五十周年記念の興行があったりする、1930年代の一連の松竹の興行に思いを馳せる。


1930年代の一連の興行といえば、戦前の興行チラシの展示がおもしろかった。東劇昭和8年9月の盛遠の公演のチラシもあり、先ほど、その衣裳を目のあたりにしたばかりだったなあと、順路を逆行してもう一度見に行ったりする。安田靭彦の図案。チラシも「個人蔵」なら、並べて展示してある『寺子屋』の映画プログラムも「個人蔵」。今後のわが蒐集のよき手本としたい。

 


《四谷の新居、庭木戸の高浜虚子筆『椿門』の前に立つはりまやと万之助》、『花道別冊 吉右衛門歌舞伎』より。虚子がらみの展示が充実していたが、この写真と一緒に実際の「椿門」の板が展示してあったりするからもうたまらぬ。



ついでに、同じく『花道別冊 吉右衛門歌舞伎』より、《男之助(吉右衛門)の行司で鼠と腕相撲をとる川尻清譚氏》。年代はいつ頃なのだろう。この写真、いいなあ。

 


『花道別冊 吉右衛門歌舞伎』(梨の花會、昭和25年11月15日発行)。表紙の俳句:中村吉右衛門。表紙の絵:松本幸四郎。題箋:川尻清譚。いつかの古書展で300円なのでとりあえず買ったもの(元パラがボロボロ)。買った日以来、手にとることなく日々が過ぎていたのだったけど、今回の展覧会に際して、たいへん重宝している。とりあえず買っておいて、よかったと思う。戸板康二は「吉右衛門の演技の特質」と題した文章を寄稿している。前年暮れに東京新聞の芸談のために吉右衛門を訪問したことを導入にしている。のちに何度も話題にしている、幸四郎の告別式に際しての菊五郎と吉右衛門のことも盛り込んである。今回の吉右衛門展を機に、戸板康二の吉右衛門についての文章を概観したいと思っているところ。

 

さて、戸板康二といえば、編集を担当した岩波写真文庫の『歌舞伎』が、このたびの吉右衛門展において華々しく展示されていて、戸板ファン大喜びであった。のみならず、『盛綱陣屋』の箇所がコーティングされ自由に参照できるようになっている。戦後のグラフ誌流行のことが解説に書いてあり、菊五郎が倒れる『東劇グラフ』昭和24年4月号が展示してあり、また昭和25年4月創刊の『劇評』では吉右衛門が表紙になったのは2回だけだそうで、この時期の歌舞伎役者の世代交代について解説されている。昭和26年1月再開場の歌舞伎座の写真では、三代目時蔵、二代目猿之助、七代目三津五郎、初代吉右衛門が重鎮のようにして坐っている。……とかなんとか、戸板康二が世に出た昭和20年代の演劇史や演劇メディア史という点においても、文字では把握していても、このように展覧会で提示されることで、あらためて身にしみるものが多々あった。

 


戸板康二監修『河出新書 写真篇 48 歌舞伎俳優』(河出書房、昭和31年4月25日発行)。岩波写真文庫によく似たシリーズとして、河出新書の「写真篇」がある。昭和27年3月発行の岩波写真文庫の『歌舞伎』の4年後に、河出新書の「写真篇」の1冊として編まれた本書では、岩波写真文庫と同じく、戸板康二が編集を担当している。海老蔵の表紙に新時代の歌舞伎を思う(が、裏表紙は菊五郎の羽根の禿)。昭和26年1月の歌舞伎座再開上のときに重鎮感を漂わせて座っていた4人のうち、吉右衛門が他界し、本書の「現代の俳優」の先頭を飾るのは、猿之助(和藤内)、三津五郎(文屋)、時蔵(女暫)の3人だ。