続・早稲田大学演劇博物館の《初代中村吉右衛門展》にまつわるメモ。


小宮豊隆が『中村吉右衛門論』を書いた明治44年夏のちょうど百年後の2011年の夏、早稲田大学演劇博物館にて《初代中村吉右衛門展》が開催される! と一人で興奮しているうちに、あっという間に展覧会初日がやって来て、その素晴らしさは想像していたはずなのに、いざ始まってみたら、あまりに素晴らしくてびっくり! と大興奮しているうちに、あっという間に展覧会最終日になってしまった。それにしても、7月2日に展覧会が始まってこの一ケ月間というもの、《初代吉右衛門展》がらみで楽しいこと、嬉しいことがたくさんあった。『盛綱陣屋』の記録映画を見られなかったのはとても残念だったけれども、それを補って余りあるくらいに、楽しいこと、嬉しいことが目白押しだったなあと、展覧会が終わっても興奮が続いている。

 


『中村吉右衛門』第2巻第2号(大正15年2月5日発行)。表紙:名取春仙《吉右衛門の梅の由兵衛》。奥付は、編集兼発行人:加藤光(東京市麹町区永田町二ノ二九番地)、印刷人:小林健次郎(東京府下下渋谷千三百六十二番地)、印刷所:劇文社印刷所(東京市芝区愛宕下町四丁目八番地)、発行所:劇文社(東京市芝区愛宕下町四丁目八番地)。


と、光村利藻が関係する『劇』に引き続いて、展覧会に出品されていて強い印象を残した、吉右衛門の後援雑誌『中村吉右衛門』を1冊、このたびの《初代吉右衛門展》の記念として購入したのだったが(こちらは『劇』のように1冊数百円というわけにはいかなかった)、いざ届いてみたら、展覧会場に展示してあった梅の由兵衛の頭巾を思い出させてくれる表紙が嬉しいではありませんか! と大喜びだった。並木五瓶の『隅田春妓女容性』は黙阿弥の『十六夜清心』の典拠となっていて、この頭巾は初演にちなんで「宗十郎頭巾」と呼ばれている……ということを展示室の解説に書いてあった。近頃とんと歌舞伎熱が冷めてしまっていたけれども、江戸から近代を経て、現在へとつながる戯曲と役者の系譜といった歌舞伎史はなにかと面白いということをひさびさに体感した気がして、ウィンドウ越しに頭巾を眺めてジーンとなったものだった。ひさびさに歌舞伎への思いがふつふつと沸いてきたのが、実のところ、今回の展覧会で一番嬉しいことだったかも。


大正5年11月から大正12年1月まで刊行されていた『揚幕』に続く吉右衛門の後援雑誌『中村吉右衛門』は、早稲田の OPAC によると大正14年1月から大正15年6月までの発刊(ただし大正14年7月から12月は休刊)。ほかの号はまだ見ていないけど、『中村吉右衛門』はとても行き届いた編集で、後援雑誌といってもミーハー的な軽薄さは皆無、口絵には前月と当月の興行にちなむ写真が掲載されていて、諸家の学究的な寄稿のあと、当月の興行にちなむ解説と脚本、この号では本郷座2月興行の『松竹梅湯島掛額』と『船弁慶』の脚本が掲載されている。とても親切なつくりで、短命なのも納得の、根を詰めた編集ぶり。この号では、水木京太(「俳優と批評家」)、伊原青々園(「吉右衛門に望む」)、水谷竹紫(「或る日の『吉右衛門』観察」)、遠藤為春(廓文章『吉田屋』に就て 本郷座二月興行の内)、久保田米齊(「舞台考証」に就て)、本間久雄(「本郷座観劇漫談」)といった寄稿がある。



《一月の本郷座(二番目籠釣瓶花街)》、『中村吉右衛門』大正15年2月5日発行号の口絵より。八重子の兄の水谷竹紫による、初代左團次と吉右衛門とを比べた籠釣瓶評がなかなか面白かった。《今回の吉右衛門君の演出は、可なり複雑な神経の閃きを見せ、近代人のフィーブルな繊細味で醜男の執念を粘り強く如実に描きだ出したのであつた。》というあたりに、明治44年の吉右衛門論でロダンに言及した小宮豊隆や、大正7年に《近代人である青年が吉右衛門の舞台に随喜することの出来るのは、吉右衛門の舞台が、歌舞伎の皮袋に近代人の心理を盛つて居るからである。恰度十六世紀のハムレツトが演じ方一つで近代劇として生きて来る様に、享保時代の作家の描いた熊谷も吉右衛門の心によつて、近代人の精神を衝く活力をふきかへしてくる。》と「中村吉右衛門(現代名優評伝)」に書く灰野庄平(『演藝画報』大正7年6月)といった、一連の「近代人」としての歌舞伎見物のありよう、大正の芝居見物の気分を実感させてくれる、ような気がする。


そして、巻末の読者のページでは、吉右衛門ファンの吉右衛門への真摯な観劇態度とあふれんばかりの愛になんだか妙に感動してしまった。「読者幕の内」に本郷座での初日出待ち報告の投稿があって、その熱いことといったら。震災後の復興が本格化してゆく東京、吉右衛門一座が本郷座を本拠としていた時期の東京といったことを思う。そして、震災後の復興が本格化している真っ只中の歌舞伎興行は、大正4年生まれの戸板康二の記憶に残る舞台がはじまった時期として重要なのだ。という次第で、こうしてはいられないと、『思い出の劇場』(青蛙房、昭和56年11月)の「本郷座」を参照すると、

 そのころは芝公園の山内にいたのだが、どういうコース、どういう交通機関で本郷座まで行ったのか。もちろん、自動車に乗るはずがないから、省線でお茶の水まで行き、ずっと歩いたのであろう。
 本郷座は、湯島の切通しから来た大通りと大学赤門前に通じる大通りの交差する三丁目を頂点とした三角形の底辺ともいうべき、斜めになった道に面し、お茶の水からはいった右側にあった。
 町の区画からいえば変則的に建てられた位置が特殊である。先年モスクワの芸術座に行った時、この劇場のある場所が、本郷座を思い出させた。

というふうに、戸板康二の「東京の昔」を語る文章はなにげないようでいて、いつもぽわーんとなんともいい匂いがただよってくる。『中村吉右衛門』が創刊される大正14年の前年の本郷座、大正13年10月の本郷座では、『桐一葉』の仁左衛門と、『九段目』の由良之助と『勧進帳』富樫の中車が戸板少年に強烈な記憶を残した。そして、『思い出の劇場』の「本郷座」は以下のように続く。

 本郷座では、花道の下をくぐって、東の桟敷の裏に抜ける通路が、楽屋から奈落を通って揚幕に通じる路と、おなじ平面にあって交差していたのをおぼえている。
 その花道で、次の年に見た八百屋お七の芝居の時、紅長に扮した初代吉右衛門が、お土砂をかける。ツカツカ客席からあがって歩き出した紳士を、制止する案内嬢がいて、この二人がお土砂でグニャグニャ歩いたので、それが俳優だとわかって場内が大喜びをした。
 この時の『船弁慶』は、七代目三津五郎であった。知盛がなぎなたを背に当ててクルクルとまわりながら花道をはいった。

とあって、まあ! 手元にある大正15年2月発行の『中村吉右衛門』で紹介されている松竹梅湯島掛額』と『船弁慶』が、十歳になるやならずやの戸板少年の記憶にも残っているのだった。



《二番目松竹梅湯島掛額の稽古 (土左衛門伝吉)三津五郎 (八百屋お七)福助》、おなじく『中村吉右衛門』大正15年2月5日発行号の口絵より。

 


平塚運一《東京震災風景 お茶の水》(大正14年)、図録『近代版画にみる東京―うつりゆく風景――』(東京都江戸東京博物館、平成8年7月29日)より。聖橋の架かる以前のお茶の水風景。芝居見物を語るということはその当時を都市を回想するということなのだ。それにしても、『思い出の劇場』はいい本だなあ。ひさびさに読みふけって、すっかりいい気分。


とかなんとか、戸板少年が歌舞伎に目覚めた時期の《大正十二年から十四年にかけて、父に連れられていった芝居》とその舞台としての「思い出の劇場」の東京をおもうという点においても、このたびの『中村吉右衛門』はとても嬉しい買い物で、このたびの演博の《初代中村吉右衛門展》のよい記念になった。たのしき哉。



先日、ひさしぶりに、三宅周太郎『俳優対談記』(東宝書店、昭和17年5月)を本棚から取り出して、取り出したとたんに全ページを夢中になって読みふけってしまった。この本は本当にもう素敵に面白い名著なのだったが、さてさて、中村吉右衛門の項では、以下のくだりに「おっ」だった。

三宅「去年の満鮮の巡業先きには珍しいものがあったでしょう」
吉「……京城の誠に結構でした。これは予てお引き立てに預かっている南総督閣下のお招きによって、その節お伺いして龍山官邸の裏山に登りまして栗を頂戴致しました。その栗のおいしかった事は未だに忘れられません」
三宅「貴方は中々おえら方のヒイキを持っていますよね。例の土方与志君のお父さんの土方宮相以来の話ですけれども。」

この対談は、昭和15年3月の『中央公論』に掲載されているとのことだけど、今まで特に気に留めてもいなかったこのくだりに「おっ」となったのは、土方与志のお父さんではなくてお祖父さんの土方久元が登場しているから。このたびの《初代中村吉右衛門展》において、吉右衛門は土方久元の贔屓役者だったのかなとぼんやりと想像はしたけれどもはっきりとは把握していなかったので、土方久元は吉右衛門の有力な後援者であったのだということを、三宅周太郎の発言で知ることができて、展覧会で見た土方伯爵にまつわる二つの展示物のことを思い出して、モクモクと嬉しかった。


土方久元にまつわる展示は、鳥居清忠筆の《中村吉右衛門当り芸屏風》と土方伯爵より「秀山」の号を賜ったという書きつけの二点。屏風は、大正5年7月に市村座の田村成義から吉右衛門に贈られてそれが土方久元の手に渡り、そのあと演博に寄贈されたという経緯がある。「秀山」の俳号が土方伯爵より吉右衛門に与えられたのは、その屏風が吉右衛門の手に渡ったのと同時期の大正5年7月のこと。屏風が吉右衛門から土方久元の手に渡ったのはいつ頃なのだろう、土方久元は天保4年生まれで大正7年に没しているので、少なくとも大正7年より以前のことなのだろう。とにかくも、大正っ子だけではなくて、天保老人にもかようにも愛されていた吉右衛門であった。

 


《中村吉右衛門―最近の小照―》、『演藝画報』第5年第6号(大正7年6月1日発行)口絵より。土方久元が亡くなった年、大正7年当時の吉右衛門は33歳の青年俳優だった。若い!


三宅周太郎の「吉右衛門追憶 一周忌にのぞんで」(『歌舞伎の星』布井書房・昭和33年9月)では、皐月会の思い出とそのメンバーであった土方与志の名前とともに、土方久元のことが言及されていている。大正10年4月に市村座を脱退、松竹に加入し6月に新富座で旗上げ興行をした吉右衛門を助ける機関として、7月に「皐月会」が成立する。当時のことを三宅は以下のように回想している。

 そこで七月初め。――それは七月の新富座は再び吉右衛門が出、先代歌右衛門にこんどは十五世羽左衛門が新に加わった。吉は一番目の「曽我」に、羽の十郎に五郎、松居松葉(のちの松翁)作「養蚕の家」で、歌を母親にして現代劇を演じたが、この興行があく前の七月一日か二日かと思う。岡さんの親切な世話役で、小山内薫、小宮豊隆、阿部次郎、里見とん、土方与志、それに私を加えて吉右衛門のブレーン・トラスト、顧問機関として「皐月会」(さつきかい)が成立した。但し、この会の話が最初出たのは私が大阪へかけつける直前の五月で、そのために「皐月会」と名づけられた。そして岡氏遠藤氏は監事、私は吉右衛門一座附で、そのお二人の助手のような役目になっていた。
 しかし、その初めての顔つなぎは、前記の一日か二日の夜、閑静な八百善で夕方から開かれた。劇評家といわれ出してはいても、全くの局外者で書生っぽの私は、こうした会合は生れて初めてであった。我ながらカタクたっているのがわかる味気なさだったが、諸先輩は知合いだし、親切にして頂いたのでいつの間にか秋の興行の相談の話になってしまった。しかし、私より年下の唯一人の土方与志は、その亡父が、吉右衛門の少年時代からの大変な後援者だったから、土方氏は新劇中心ながら、吉右衛門とは特に親しいつき合いぶりで、私は吉右衛門とはこれが正式の初対面故にぎこちない思いをしていた。……

とまあ、土方久元は若き吉右衛門の大変な後援者だったという、ただそれだけのことなのだけれども、一人の役者とその後援者の政財界人から拡がる近代日本文化史といったものがしみじみおもしろいなと思った。昭和3年10月27日の演劇博物館開館式において、土方与志は余命いくばくもない小山内薫の代理で祝辞を述べている。田村成義→吉右衛門→土方久元→演博という屏風の変遷になんだか妙に胸躍るものがあった。


「秀山祭」という名称がおなじみになってきたここ数年の毎年9月の歌舞伎興行、来る今年9月は三代目又五郎襲名興行なのだった。このたびの演博の《初代中村吉右衛門展》では、初代又五郎が吉右衛門の子供芝居時代の仲間として紹介されていて、その後援誌『かたばみ』(大正8-9年)の存在を知り、その人気ぶりを伺うことができた。二代目又五郎を懐かしく思い出しつつ、来る9月の新又五郎が誕生をたのしみにしていたいなというところ。このたびの展覧会の記憶な鮮明ななかで、大正5年に土方元久の命名した「秀山」という俳号とともに、又五郎襲名興行を見物するというタイミングが嬉しいなと思う。

 


三宅周太郎『俳優対談記』(東宝書店、昭和17年5月)の口絵写真の吉右衛門。戸板康二の昭和21年1月の「吉右衛門に望むこと」(『歌舞伎の周囲』所収)は、

 「俳優対談記」の口絵に歳時記を見てゐる吉右衛門の写真があつた。吉右衛門句集を既にもつてゐる人の、堂々たる自信がカメラに把へられてゐる。吉右衛門の舞台よりも、ゆるぎない姿である。これだ。これでなくてはいけない。ここで還暦を迎へた彼が、もう一度ふつきれて、湯殿の長兵衛のやうに、どこからでも突いて来いといふ意気を示した時、日本の歌舞伎の上に、新しいジャンルが生れるであらう。

という文章で締めくくられている。この写真は戸板さんのお気に入りの写真だった。昭和29年9月の吉右衛門他界を受けて書かれた「素描による追憶」(『劇場の青春』所収)には、

 吉右衛門の思ひ出は、どうもいつも冬である。去年のくれには、松竹の地下の試写室で「盛綱」のラッシュを見に行つた時にあつた。着ぶくれの美しさが吉右衛門にはある。三宅周太郎氏の「俳優対談記」の初版についている口絵は、僕の好きな彼の肖像であるが、試写の時に、その写真の吉右衛門にゆくりなく、めぐりあつたのである。

という一節がある。しつこいけれども、いつの日か、昭和28年11月の歌舞伎座で撮影の記録映画『盛綱陣屋』を見たい!