以下、5月14日付けの「『ベルサイユのばら』とステファン人形(前篇)」の続き、というか余滴メモ。
『ベルサイユのばら』はまず宝塚大劇場で昭和49年8月29日から9月26日まで上演、戸板康二は、昭和49年9月某日に宝塚大劇場でさっそくこれを観劇し、5年前に上演の自作の戯曲『マリー・アントワネット』のセリフに登場するステファンという名の人形が『ベルばら』の舞台では実際に小道具として登場するのを目の当たりにしてホクホクし、さらにその直後に、「マリー・アントワネット」というテーマの鼎談に参加しているのであった。座談記事が『歌劇』昭和49年10月号(第589号)に掲載されている。
『歌劇』昭和49年10月号掲載の鼎談「マリー・アントワネット」に掲載の写真、左より初風諄、戸板康二、アキコ・カンダ。
昭和四十四年一月、劇団「マールイ」で丹阿弥谷津子さん主演「マリー・アントワネット」を上演されて以来、「ナポレオン」「マリリン・モンロー」「脂肪の塊」等を劇作、演出されている戸板康二先生が、今度はアキコ・カンダ先生にモダン・バレエの「マリー・アントワネット」をかゝれました。10月28・29日ヒビヤ芸術座で上演される「コンシェルジュリ」です。そこで9月「ベルサイユのばら」を観劇されたのを機に、マリー・アントワネットを好演している初風諄と、折よくレッスンに来宝されていたアキコ先生を配してのてい談を……。
という前口上が付されている。『ベルばら』でマリー・アントワネットを演じている真っ最中の初風諄と、翌月に戸板康二作『コンシェルジュリ』の公演を控えているアキコ・カンダを相手におしゃべりに興じる戸板さんはいわば二人のアントワネットに囲まれてご満悦の「偉い先生」といった扱い。アキコ・カンダは昭和37年より宝塚音楽学校でダンス講師を務めており、もとより宝塚歌劇団ではおなじみの存在だった。
この鼎談は「九月某日」に実施されているので、戸板さんが『ベルサイユのばら』の初演をみたのは、昭和49年9月某日の宝塚大劇場ということになる次第なのだったが、
今日はようこそ……私、丹阿弥さんの「マリー・アントワネット」拝見しました。星組時代でしたが、朝日生命ホールでしたね。カーテンコールの時のおじぎの仕方がすごく印象的でしたし、金子信雄さんのルイ十六世もよかったですよね。
アントワネットに扮した初風諄は開口一番、5年前に新演劇人クラブ・マールイで上演された戸板康二作・演出『マリー・アントワネット』に言及する。これに応えて、戸板康二は、
あの時は七〇年安保前夜で、東大の安田講堂事件の時に稽古しながら、どっちも革命だね(笑)。今日「ベルサイユのばら」を拝見して、ステファンという名のお人形が出てくるでしょ。あれは僕が考えた名前なのですよ。原作者の名前をご愛嬌にもじって作ったので、歌舞伎の場合などよくこうしたことをやりますよね。だから植田先生も僕の脚本をお読みになったんだナ、って。(笑)
というふうに、さっそくステファン人形の件を初風さんにしゃべって、ちょいと得意顔。戸板さんが『ベルばら』の舞台でステファン人形を見て、《さっそくそれを、歌劇団のいく人かに、しゃべった。》とのちに「ステファンの人形」(『歌劇』昭和51年2月→『五月のリサイタル』)に書いているとおりに、さっそくそれを初風さんとアキコさんにしゃべっている戸板さんの姿をここで確認できて、にっこり。
この鼎談は前口上にあるように、アキコ・カンダ第7回リサイタル『コンシェルジュリ マリー・アントワネットの回想』のパブリシティーを兼ねたもので、5年前に劇団マールイにて『マリー・アントワネット』を上演することで初めて劇作に手を染めた戸板康二が、今度は初めて舞踊の台本に初めて手を染めることとなり、戸板康二にとっては自家薬籠中のものであったということなのだろう、いずれも題材はマリー・アントワネットであった。
アキコ・カンダ第7回リサイタル 昭和49年芸術祭参加『コンシェルジュリ マリー・アントワネットの回想』プログラム。芸術座(10月28日・29日)とヤクルトホール(11月19日・29日)の4日間、全5公演。台本・演出:戸板康二、照明:吉井澄雄、音楽監督:湯浅康、衣装:神田すみ子、振付:アキコ・カンダ、舞台監督:岡本義次、制作:天野二郎。プログラムには篠山紀信撮影の写真とともに、戸板康二「台本を書いた事情」、江口博「アキコ・カンダの舞踊」、大島渚「至高なるもの…」、景安正夫「美しいトンボ」、桜井勤「アキコ・カンダの新作に期待して」、小田島雄志「カンダさんとの出会い」、戸部銀作「カンダはアキコに理想を求める」、滝沢修「細胞が震える感動」(国立劇場の楽屋にて、談)を掲載。
と、このアキコ・カンダの公演が成功裡に終了し、『ベルサイユのばら』が東京にやってきて、東京宝塚劇場で上演されているころ(昭和49年11月2日から27日までは「芸術祭参加作品」として上演)、戸板康二は、『歌劇』昭和49年12月号(第591号)に「「ベルサイユのばら」を見て」という一文を寄稿している。
「ベルサイユのばら」は、九月の宝塚大劇場と、十一月の東京宝塚劇場と、二回見た。
この作品が、マリー・アントワネットを主人公にしている以上、ぼくには、決して他人事ではない。という書き出しで、マールイの『マリー・アントワネット』のことを綴ったあと、
……たまたま去年の夏、宝塚歌劇団の先生でもあるアキコ・カンダさんから、何か舞踊の台本を考えてほしいといわれた時、再び思いうかべたのが、このマリー・アントワネットであった。
アキコカンダさんの場合、王妃が最後の二カ月ほどを過したパリの牢獄の名前をそのまま使って「コンシェルジュリ」という題にして、この十月末に、東京の芸術座で公開された。
ふしぎな縁で、次の十一月に、芸術座と道をへだてた劇場に、「ベルサイユのばら」が来たのである。アキコさんの方が一週間おそかったら、二つの劇場の間の道路が、「マリー・アントワネット通り」になるところであった。ちょっと残念な気がする。
アキコ・カンダの『コンシェルジュリ』が芸術座で10月28日と29日に上演された直後、11月2日に東京宝塚劇場では月組公演『ベルサイユのばら』の初日を迎えたわけで、まさしく「ふしぎな縁」であった。アキコ・カンダから依頼を受け、舞踊の台本をこしらえる話が決まったのは昭和48年の8月で、題材がマリー・アントワネットに決定したのは同年10月18日だった(プログラム所載「アキコ稽古場日誌」)。宝塚歌劇団で『ベルサイユのばら』の話が最初に持ち上がったのその少しあとということになろうが、ほぼ同時期だったと言ってもいいかもしれない。そして、アキコ・カンダと『ベルばら』、この2つの公演に密接にかかわっていたのが、大河内豪であった。
『ベルばら』の大当たりの背後には、当時東京宝塚劇場の支配人の役職にあった大河内豪の存在があった。渡辺保・高泉淳子著『昭和演劇大全集』(平凡社、2012年11月22日)の「ベルサイユのばら・アンドレとオスカル」(昭和50年収録)の項で、『ベルばら』が当たったいくつかの要因のひとつとして「優秀な宣伝マン」の存在が挙げられていて、ここで大河内豪のことが語られている。渡辺保さんの談話には、《これは僕の個人的感想なんですけど、宣伝が成功した。ま、これは、興行の裏話ですけど、もう亡くなりましたけど東宝の宣伝に大河内豪という僕の一期先輩の人がいましてね、この人は宣伝マンとしては天才だったんです。》、《まず、大河内豪の持っていた人間的ネットワークが広かった。そのネットワークを使って話題を広げるのがうまい。普通の宣伝マンは芝居の大筋だけで宣伝するんだけども、彼は芝居に関連する小ネタを上手に売るんですよ。メディアによってネタを振り分けて行って、どちらを向いても「ベルばら」が話題になっているというふうに興味の流れを作っちゃうんです。》とある。
そして、戸板康二はまさしく「大河内豪の持っていた人間的ネットワーク」のまっただなかにいたのだから、昭和49年の初演時の9月某日、宝塚で『ベルサイユのばら』を観劇した戸板康二は、5年前に自作の戯曲『マリー・アントワネット』のセリフに登場させたステファンという名のお人形が、『ベルばら』の舞台に実際に小道具として登場しているのを見て、《さっそくそれを、歌劇団のいく人かに、しゃべった》とある(「ステファンの人形」)、その「歌劇団のいく人か」のなかのひとりが大河内豪であったのは確実なのだった。というわけで、わたしは、戸板康二と『ベルサイユのばら』のステファン人形を思うとき、いつもなんとはなしに大河内豪のことを思い出す。矢野誠一著『戸板康二の歳月』に登場する演劇人のうちでとびきり強い印象を残す大河内豪のことを。
大河内豪追悼集編集会編『回想の大河内豪』(私家版、昭和62年12月19日)。今にも破れそうな元パラが付いている。函やカヴァー等の外装はもともとなかったのかな?
大河内豪は昭和9年3月31日生まれ。昭和32年3月、京都大学卒。桑原武夫教授に師事。卒論はスタンダール論。在学中は学生劇団創造座に在籍、大河内豪が1回生のとき、創造座の先輩・大島渚は4回生だった。昭和32年4月、東宝入社。昭和48年4月、演劇部東京宝塚劇場支配人。昭和53年4月、帝劇支配人に。昭和59年1月、西武百貨店文化事業部入社。そして、昭和60年12月19日、死去。その三回忌にこの追悼文集が編まれて、戸板康二は「ゆき届いたやさしい人」と題した一文を寄稿している。
菊田一夫さんが演劇担当の重役だった時代、毎月東宝で企画を立てるというような目的の夕食会が行われ、その席で、大河内さんとは、しじゅう会っていた。
やがて劇場の現場の人になり、東京宝塚、帝劇の支配人を、かなり長くしたが、その間、宝塚の『ベルサイユのばら』、帝劇の『屋根の上のヴァイオリン弾き』というロングランの当り狂言が行われ、在任中、日々繁忙でもあり、好況にもめぐまれた人である
私は暁星出身、大河内さんは京大の仏文科を出ているので、多少酔って来ると、わざとフランス語で世間話をして、周囲のひんしゅくを買ったりした。
飲み友達としても古いつきあいで、私は大河内さんや小田島雄志さんや宇佐美宣一さんと、しばしば同席してたのしい数刻をすごしたのだが、この三人が、はじめはかなり行っていた六本木の酒亭から、四谷のFに本拠を移したのに、当然同調して、いささか家から遠くなったが、みんなについて行った。
逆に大河内さんとしては、日比谷辺から四谷には近いので、劇場のかえりに、よく寄っていた。私が行っていたカウンターにいると、大河内さんから電話がかかる。「いま戸板先生が見えています」とママがいうと、予定を変えても、私に会いに来てくれた。
そして、アキコ・カンダのことについては、
アキコさんと私が親しくなるそもそものきっかけは、そのひとり息子の邦彦君を、私の書いたナポレオンの芝居『風車宮』の子役に出てもらったのが発端でその後依頼されて、『コンシェルジュリ』(マリー・アントワネット)『クララ』『小町』『マグダラのマリア』というモダンダンスの台本を私が書くことになったが、その公演の稽古場にも大河内さんはよく来て、きめのこまかい協力をしてくれた。
というふうに、ここでは書かれている。
昭和44年の新演劇人クラブ・マールイの『マリー・アントワネット』の上演を皮切りに、戸板康二は舞台制作の仕事にもたずさわるようになり、2年後の昭和46年10月には、金子信雄のために『風車宮――ナポレオンその情熱と栄光』の戯曲を執筆、三越劇場で上演された(10月12日~17日)。この三越劇場の上演は当然、慶應国文科で同窓であった岡田茂の引きなのだろう、とそれはさておき、結局、戸板康二は生涯に計17本の舞台制作を手がけたのだったが、そのうち7本がアキコ・カンダとの仕事であり、その最初がこの昭和49年の『コンシェルジュリ』であった。『風車宮』に子役としてアキコの子息の神田邦彦が出演したのが二人の結びつきのきっかけとなったという。昭和49年にステファン人形の登場する『ベルばら』と並行するようにして制作されたアキコ・カンダの『コンシェルジュリ』は、昭和46年上演の『風車宮』のあと、昭和47年1月にテアトル・エコーにて『マリリン・モンロー』、昭和48年12月にマールイで『肥った女』というふうに、順調に自作上演を重ねていった戸板康二にとって、初の舞踊作品であった。
そして、アキコ・カンダの上演については、矢野誠一著『戸板康二の歳月』(文藝春秋・1996年6月25日→ちくま文庫・2008年9月10日)に、
……戸板康二がアキコ・カンダの舞台を手がけた最初は、一九七四年十月にアキコ・カンダリサイタルとして藝術座・ヤクルトホールで上演された『コンシェルジュリ・マリー・アントワネットの回想』の作・演出で、大河内豪の仲立ちというよりも、これは大河内プロデュースによる作品であった。(ちくま文庫、255-256p)
というふうにはっきりと述べられている。
篠山紀信の写真集『AKIKO The Dancer』(駸々堂)巻末にある「アキコ・カンダ作品年譜」を見ると、大河内豪の名が初めて登場するのは一九七一年四月に藝術座で上演された第五回リサイタル『智恵子抄』の台本担当者としてである。この舞台は、演出・天野二郎、作詞・観世寿夫、美術・清家清のスタッフで、戸板康二とアキコ・カンダの出会いもここから始まる。(ちくま文庫、256p)
昭和46年4月に『智恵子抄』が上演されたあとで、同じ年の10月にアキコの子息が子役として参加した、金子信雄主演の戸板康二作『風車宮』が上演される。その昭和46年の戸板康二とアキコ・カンダの出会いの3年後、昭和49年10月には、『コンシェルジュリ』を皮切りに、戸板康二とアキコ・カンダの舞台制作がはじまる。そして、《その七本のすべての実質的プロデューサーが大河内豪であった》(『戸板康二の歳月』、ちくま文庫、257p)。
『回想の大河内豪』の口絵写真より、《昭和49年アキコ・カンダさんの芸術祭大賞の授賞式にて、左端、戸板康二氏》。戸板康二とアキコ・カンダが初めて手を組んだ『コンシェルジュリ』は、「実質的プロデューサー」であるところの大河内豪の多大な尽力の甲斐もあって成功裡に終演、芸術祭大賞受賞という社会的な栄誉をも得て、かくして、ステファン人形が誕生した昭和49年という年は暮れたのだった。
昭和41年1月に早川書房が『悲劇喜劇』が復刊し、岩田豊雄が監修者となり、戸板康二は早川清、尾崎宏次とともに編集同人となった。『悲劇喜劇』の復刊を機に、『わが交遊記』所収「わが先人」の岩田豊雄の項や、『あの人この人 昭和人物誌』所収「岩田豊雄の食味」にあるとおり、戸板康二にとっては「獅子文六」よりも「岩田豊雄」として語られる人物であるとのころの岩田豊雄との交流が急速に深まっていったのだった。同年9月に金子信雄の主宰による「新演劇人クラブ・マールイ」が発足し、戸板康二は発足当初から同人として名を連ねた。マールイの誕生は、戸板康二が昭和38年の9月から10月にかけて日本演劇視察団の一員に加わり、ソビエト、ポーランド、チェコを訪れ、芝居や関連施設を訪問したとき、同行の金子信雄がポーランドの演劇人が集うクラブ風の空間を目の当たりにして、興味津々になって、帰国後にさっそく本郷のマンションにバーカウンターをしつらえたクラブ風の空間を作ってみたのがきっかけだったという(丹阿弥谷津子「「マールイ」との御縁」、『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』所収)。マールイは発足の翌年の昭和42年1月に戸板康二の松井須磨子評伝を原作とした『女優愛と死』が霜川遠志脚色で上演、翌43年6月に再演、これを端緒として、戸板康二はいよいよ劇作に手を染めて、ステファン人形がセリフに登場する『マリー・アントワネット』が上演、「実現したのはプロデューサー役を買って出た金子信雄の尽力によるものだった」(矢野誠一『戸板康二の歳月』)。以後、戸板康二は順調に劇作の上演を重ねてゆくこととなった。矢野誠一著『戸板康二の歳月』には、
ひとり机にむかって苦吟することのなにかと多い文筆家の孤独な作業に引きかえて、共同作業という宿命を背負った芝居づくりの現場には、書斎とはまったくちがった空気があふれかえっている。その、まったくちがった世界の空気を知ってしまった戸板康二にとって、芝居づくりの現場は、もはや離れ難いものとなった。
金子信雄は、戸板康二に禁断の木の実を手にさせたことになる。
とある(ちくま文庫、p136)。
という次第で、昭和38年5月に久保田万太郎が死んだあとの、戸板康二にとっての昭和四十年代は、どんどん演劇の現場に入っていった歳月であったということになる。昭和44年に上演の『マリー・アントワネット』でセリフでのみ登場する、ツヴァイクにちなんで戸板さんが「ステファン」と命名したお人形が、昭和49年に初演の宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』では実際にかわいいお人形となって舞台に登場したのは、戸板康二が「芝居づくりの現場」に入ったからこそ生じた素敵なハプニングであり、『ベルばら』のステファン人形は昭和四十年代の「戸板康二の歳月」のモニュメントと言ってしまってもいいのではないかしらと、ちょっと胸が熱くなるものがある。そして、先にも記したとおりに、ステファン人形というと、おのずと大河内豪のことを、矢野誠一著『戸板康二の歳月』に登場する戸板康二の「若い友人」の代表的な一人だった大河内豪のことを思い出し、さらに、『オール讀物』昭和51年6月特別号より岡部冬彦から引き継いで連載された「ちょっといい話」、昭和五十年代から晩年にかけての戸板康二のいわば代表作となる一連の「ちょっといい話」シリーズは、大河内豪をはじめとする演劇人たちとの社交や座談のたまものだったのだなあということに思いが及ぶのだった。
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戸板康二が自ら、『ベルばら』のステファン人形の来歴について詳述した「ステファンの人形」(『歌劇』昭和51年2月号→『五月のリサイタル』)の末尾には、こんなことが書かれている。
東京の公演の時、ステファンの人形をいくつか複製して、抽籤で観客に贈るということがあった。見本がガラス棚にかざって劇場のロビーに置かれ、その前で少女たちが、鉛筆で用紙に住所氏名を書きこんでいるのを、ぼくはこの時も、たのしく眺めた。
突然、某月某日、ぼくは芝山内のレストランに招かれた。ロココ風の家具をととのえた一室にいたのは、マリー・アントワネットを演じた初風諄さんである。そして、王妃おん手ずから、ぼくは番外特製のステファン人形を贈られた。
まったく、思い残すことはなかった。
まあ、なんと羨ましいこと! ここにあるとおりに、昭和49年11月の東京宝塚劇場の『ベルばら』上演の折に、ステファン人形がプレゼントされるという懸賞が催されていて、翌昭和50年1月号の『歌劇』に十名の当選者の氏名が発表されている。戸板さんのもらったステファン人形は、洗足の戸板邸に大切に飾られていたのだろうなあと思う。戸板邸は去年に消えてしまったけれども、ステファン人形の方も消えてしまったのかな。
昭和49年の宝塚大劇場中継の VTR 映像から無理やり撮影したステファンのお人形。現在のステファン人形よりも細長くて、形状はだいぶ異なる。
『ベルサイユのばら 昭和・平成総集編』(宝塚歌劇団発行、1991年8月1日)には、「俳句の忌になったオスカルの命日」として、戸板さんが、1989年7月に革命二百年祭のときにフランスへ旅行したときに詠んだ句、
朝 空 の 隈 な く 晴 れ て オ ス カ ル 忌
の色紙が図版として紹介されるとともに、ステファンのお人形についてもきちんと言及されている。この句は、古稀を記念して三月書房より刊行された第一句集『花すこし』(昭和60年12年14日)に次ぐ第二句集『袖机』(1989年8月25日)に、「七月十四日」の前書きとともに「夏」のページに収録されている。この句の詳しい来歴については没後に刊行の『俳句・私の一句』(富士見書房、1993年5月)に詳述されていて、その初出は『諸君』1992年7月号、上掲の「ステファンの人形」の《王妃おん手ずから、ぼくは番外特製のステファン人形を贈られた。》のエピソードが、こちらでは、
私は私のフィクションが、好きな宝塚の台本にとりあげられたのが、うれしかった。この話を聞いた東宝劇場の大河内支配人が、せめて御礼がしたい、一夕御招待申しあげるということで、芝公園のレストランで、王妃を演じていた初風諄というスターと会食の機会をつくってくれたのだ。
この日、「女王陛下」は、毎日舞台で抱いている人形と同じものを、記念に手ずから「下賜」されたのである。
というふうに披露されている。昭和52年の時点ではぼかして綴られていたステファン人形の会食の一夜の演出者はやっぱり大河内豪だったのだなあとジーン……。とにかくも、なんと粋なはからいであることだろう!
「オスカル忌」の俳句が詠まれたのと同じ年、革命二百年を記念する「平成ベルばら」のステファンのお人形が登場する場面、星組公演『ベルサイユのばら フェルゼンとマリー・アントワネット編』1989年9月22日~11月7日宝塚大劇場上演より、少女時代のアントワネット(青山雪菜)、マリア・テレジア(恵さかえ)、フェルゼン(日向薫)。『ベルサイユのばら特集号』(宝塚歌劇団、1990年3月13日)に掲載の図版。
大河内豪は「オスカル忌」の俳句を知ることなく、この「平成ベルばら」の舞台を見ることもなく、昭和60年12月に他界してしまったのだった。宝塚歌劇百周年を記念して2014年4月5日に宝塚大劇場に「宝塚歌劇の殿堂」なるスペースが開館される予定だという。歴代のステファンのお人形はぜひとも展示してほしい! と強く願うのであった。
ちょうど、雪組公演『ベルサイユのばら フェルゼン編』が東京宝塚劇場で上演されているころ、岩波ホールで羽田澄子監督のドキュメンタリー映画『そして AKIKO は…~あるダンサーの肖像~』が上映されていて、先月しずしずと見に行った。昭和60年制作の戸板さんの姿もちらりと映る『AKIKO あるダンサーの肖像』にとても感銘を受けた身にとっては、2011年9月にアキコが世を去るまでの姿、最後の公演の12日後に世を去るアキコを追ったドキュメンタリーは、「歳月」というものがしみじみ胸にしみて、いままでここにだらだらと書き連ねた戸板康二の歳月にも思いを馳せる時間でもあって、とにかくも万感胸に迫るものがあった。見逃さなくてよかったと心から思った。
が、2013年雪組公演『ベルサイユのばら フェルゼン編』の方はあいにくチケットが入手できず、残念なことであった。(ま、『ベルばら』はフェルゼン編、オスカル編ともに2006年に1回見ただけでわたしはもういいかなという気が一方ではしているのだけれども……。)