矢野誠一さんの新刊エッセイ集『昭和の東京 記憶のかげから』を繰って、東横ホールと戸板康二をおもう。


先日、ふらりと立ち寄った教文館で、矢野誠一さんの新刊を発見して、ワオ! と手に取って目次に目を通すと、近年にいろいろな媒体に寄稿したエッセイ、追悼文等を編んで一冊の本になったもので、事前に刊行をまったく知らなかったので、思わぬタイミングで贈り物が舞い込んだような感覚。矢野誠一さんの文章をまとめて読むことができるなんて、こんな嬉しいことはない……と、もちろんすぐさまガバッと購入したのだったけど、矢野誠一さんのエッセイ集をウキウキと買って、ホクホクとページを繰ってゆくこの感覚はまさしく、戸板康二の三月書房で定期的に刊行されていたエッセイ集を手にしているのとまったくおんなじかもとしみじみ思った。矢野さんのエッセイ集を繰ると、かならずところどころで戸板康二の名前に遭遇するのが嬉しくてたまらなくて、前に読んだことがある挿話でも、新たに別の文章で読むと違った感興を得たりする。と、こんなところも、往年の戸板康二のエッセイを読んでいるのとまったくおんなじ感覚!

 


矢野誠一『昭和の東京 記憶のかげから』(日本経済新聞出版社、2012年3月22日)。装画:あべゆきえ、装幀:赤谷直宣。

 

矢野誠一さんの新刊『昭和の東京』でひときわ胸にしみたのが、「芝居の後に」(初出:『Ripers』2004年夏号)というエッセイ。

 『文学座五十年史』を引っぱり出してきて調べたら、一九七二年十二月の多分九日のことだろう。水上勉作『飢餓海峡』が東横劇場で上演され、多分九日というのは、その時分の文学座公演の招待日はたいてい初日だったからである。
 この夜、私は初めて戸板康二先生から酒を誘われた。無論、たまたま行きつけの店などで同席して、歓談する機会には何度となく恵まれていたのだが、先生のほうから誘われたのは初めてだった。たしかイサム・ノグチのデザインという、ぶ厚いドンゴロス地の緞帳がゆっくりおりて、大きな拍手につつまれた客席が明るくなると、隣の席の先生のほうから、
「こういういい芝居を観たあとは、やはりお酒をのみながらはなしをしないといけないね」
 と声をかけられたのである。いい芝居というほめ言葉は、即ち太地喜和子の素晴らしさでもあることはすぐにわかった。
 これだけはっきり覚えていながら、肝腎の酒席が当時演劇人のたまり場の感を呈していた、四谷のFまで車をとばしたのか、あるいは線路沿いのどぶ川を埋め立てたところにあったおでん屋のとん平か、それとも円山町のなんとかいう小料理屋まで歩いて行ったのか、そこらあたりの記憶は曖昧である。いずれにしてももう三十二年前のはなしで、私は三十七歳、忠臣蔵討入の日が誕生日だった先生は五十七歳を目前にしていたことになる。私もあのときの先生の年齢を、もちろんとっくのむかしにこえてしまった。

という書き出しを目の当たりにしたときは、しみじみするあまりに、本から目を離して、しばし放心してしまった。そして、おもむろに本棚から『文学座五十年史』を取り出すのだった。

 


『文学座五十年史』(文学座、昭和62年4月29日発行)より、水上勉作・木村光一演出『飢餓海峡』の舞台写真。太地喜和子(杉戸八重)と樽見京一郎(高橋悦史)。「文学座創立35周年記念公演」と銘打った公演で、初日は小浜市文化会館、昭和47年10月30日。東京公演は東横劇場、12月9日初日21日千秋楽。キャー、わたしの大好きな悦史が樽見京一郎だったのね! 矢野さんは特に言及していなかったけど! などと『文学座五十年史』を眺めて、興奮は続く。太地喜和子と高橋悦史の共演というと、森本薫の『華々しき一族』の映像をまっさきに思い出すけれども、わたしは山本薩夫の『皇帝のいない八月』の二人が大好き。

 

と、昭和47年12月の文学座の『飢餓海峡』のこと、その会場の東横劇場のこと、今はなき数々の酒場のこと……といった諸々の事柄の融合としての、矢野さんが初めて戸板康二に酒席に誘われたときの回想シーンに重層的にうっとりしていたのだけれど、今回の新刊とまったくおなじように、発売と同時にガバっと買ってホクホクと読みふけっていた『舞台人走馬燈』(早川書房、2009年8月)の「太地喜和子」の項にもまったくおなじエピソードが実は登場している。二度三度必ず読んでいるはずなのに、すっかり忘れていたのであった。この調子では、矢野さんのそれ以前の本にも何度も登場しているエピソードであるのは間違いあるまいのに、今回の新刊の『昭和の東京』で急にグッとなったのはなぜだろう。不思議である。今回の新刊も、のちのち読み返すとまた違うところでグッとくるのかも。



戸板康二とその時代を語る上で、東横ホール(東横劇場)はとても重要なのだった。東横ホールは、現在の東急百貨店東横店の西館の9階から11階にかつてあった劇場で、昭和29年11月20日、西館が開館した翌月の12月にさっそく、「第1回東横歌舞伎」が上演されている。《澁谷東横新館増築記念 松竹東横第1回 市川猿之助劇團・尾上菊五郎劇團若手歌舞伎初興行》と銘打って、昼の部は『神霊矢口渡』『男女道成寺』『新版歌祭文』『小栗栖の長兵衛』、夜の部は『本朝廿四孝』の「十種香」と「謙信館」、『棒しばり』『心中万年草』『辨天娘女男白浪』が上演、八百蔵・田之助・芦燕・半四郎・菊十郎・大川橋蔵・菊蔵・松蔦・秀調といった顔ぶれ……と、取り急ぎ「歌舞伎公演データベース(http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/)」を参照。


昭和29年12月の上記歌舞伎興行の翌月、昭和30年1月には文学座の『シラノ・ド・ベルジュラック』が上演されている(4日初日、12日千秋楽、シラノはもちろん三津田健!)。以降、新劇が上演されるとともに歌舞伎興行、いわゆる東横歌舞伎の舞台でもあり、それから東横落語会も開催されていた、昭和60年7月14日をもって閉館した東横ホール(東横劇場)は戦後の演劇人戸板康二を体現するような存在であったと言っていいかも。

 渋谷の東横ホールで、三代目市川左団次と七代目中村芝翫(当時福助)の二人で、チェホフの「犬」を出し物にした。
 久保田万太郎さんがいった。
「渋谷で犬なんていうと、ハチ公の芝居だと思やしないかな」
 同じ東横の劇場で、劇団民芸が木下順二さんの「冬の時代」を上演していた。
 ビルの壁に「冬の時代」という垂れ幕が下った。荒畑寒村さんがそれを見て、ふと目をわきのほうに遣ると、
「冬物大売り出し」
 この垂れ幕を、俗にフンドシというのだが、日経ホールで、劇団雲が小島信夫さんの「一寸さきは闇」という脚本を上演していた時に見にゆくと、フンドシに、
「一寸さきは闇・雲」

 と、『ちょっといい話』(文藝春秋・昭和53年1月→文春文庫・昭和57年8月)を繰ると、さっそく「東横ホール」が登場している。戦後の歌舞伎史と新劇史、落語史を彩った劇場・東横ホール。東横ホールという劇場がかつてあった。

 


劇団民藝公演、木下順二作・宇野重吉演出『冬の時代』のチラシ。東横ホールで昭和39年9月3日初日、22日千秋楽。日経ホールで同年11月2日初日、14日千秋楽。滝沢修が堺利彦、小夜福子が堺夫人、鈴木瑞穂が大杉栄、芦田伸介が荒畑寒村、山内明が橋浦時雄に扮しているという、古本好きにはたまらん舞台だ! 荒畑寒村の「冬物大売り出し」発言は、本作品上演時の『民藝の仲間』76号所載の座談会ですでに披露されている。戸板さん、この座談会で拾ったエピソードかな?

 

そして、「東横歌舞伎」といえばまっさきに思い出すのは、戸板さんが序文を書いた『紫扇まくあいばなし』(演劇出版社、昭和62年4月)という名著を残した、「渋谷の海老様」こと三世河原崎権十郎……と言いたいところだけれど、わたしは市川門之助のことがまっさきに頭に浮かぶ。戸板さんにとって東横歌舞伎の舞台である東横ホールは、往年の松蔦=門之助とともに思い出す「思い出の劇場」だったのではないかなと思う。

 


『わが人物手帖』(白鳳社、昭和37年2月25日)に掲載の「市川松蔦」の写真。市川門之助は、昭和21年8月に三代目松蔦を襲名し、『わが人物手帖』の刊行と同月の昭和37年2月に七代目門之助となった。この本のあとがきには《この本では、わざと旧名のままにしておく》という一節がある。『百人の舞台俳優』(淡交社、昭和44年5月13日)でも《門之助というのはむろん悪い名前ではないが、前名の松蔦もなつかしい。》というふうに書いている。戸板さんはよほど「松蔦」に愛着があったらしい。門之助になった年の9月に、東横ホールで『唐人お吉』が上演された。昭和4年の『唐人お吉』の二代目松蔦のことを愛着たっぷりに回想していた戸板さんにとって、「三代目松蔦」によるお吉は嬉しい舞台だったに違いないけど、それでも、松蔦の名前で演じてほしかったという心残りがあったのかも。



という次第で、戸板康二とその時代を語る上で東横ホール(東横劇場)はとても重要であるということを、あらためて心に刻んだ記念に、以下、東横ホール(東横劇場)にまつわるメモ。戸板康二と1950年代渋谷に思いを馳せてみたい。


前述のとおり、東横ホールは、昭和29年11月20日に華々しく開館した東横百貨店西館の9階から11階にかつてあった劇場で、昭和42年に「東横劇場」に名称を変更(同年9月29日に東横百貨店は現在の「東急百貨店」に商号を変更し、同年11月1日、東急百貨店本店が現在の場所に開店しているので、それに伴う名称変更と思われる。)、昭和60年7月14日をもって閉館した(前年6月に「東急文化村」の建設が始まっていた。)。


『東京急行電鉄50年史』(東京急行電鉄株式会社、昭和48年4月18日発行)によると、創立30周年復興事業として、戦前からある「玉電ビル」(昭和14年に鉄鋼統制令により4階までで工事中断)の名称を昭和26年11月26日に「東急会館」と変更して、戦前からの懸案だった増築が決定。翌27年に「東急会館建設委員会」が設置され、昭和29年11月1日の東横百貨店開業二十周年記念日に完成披露を目指したものの、諸々の準備に時間がかかり、工事の着工は昭和28年10月28日となり、わずか1年間の工期となってしまったという。目標としていた11月1日は間に合わなかったものの、昭和29年11月15日に工事が完成、同月20日から「東横百貨店西館」として開館した(設計:坂倉準三建築研究所、施工:清水建設株式会社)。

 


『工事年鑑 1945-1955』(清水建設株式会社、昭和30年1月10日発行)より、東横百貨店西館完成直後の渋谷駅前の風景。今も渋谷駅前でおなじみの、銀座線の線路の上にそびえたつ丸みを帯びた大きな建物が東急会館、現在は東急百貨店東横店の西館。この9階から11階部分にかつて「東横ホール」という劇場があった。

 


『東急會館』(東京急行電鐵株式会社、昭和29年11月15日発行)。A4判約70ページの、東急会館竣工直後に編まれた記念アルバム。出来立てほやほやの外観および内部の写真を中心に、工事中の写真、内部の案内図、空中写真等がふんだんに掲載されている。戦後から高度成長に差しかかろうとしている「1950年代東京」を象徴するかのような美しい写真が満載。今は古びているだけの東横店西館が当時いかにスタイリッシュで、モダンだっかがひしひしと伝わってくる。東横ホール(東横劇場)の一級資料でもある。

 


『東急會館』に、折込図版として掲載されている航空写真。上下に国鉄の、左右に地下鉄銀座線の線路が直角に交わる渋谷駅。周囲に高層の建物がほとんどなくて、渋谷駅に東横百貨店の建物が威風堂々とそびえたつ。「東急会館」すなわち「東横百貨店西館」の3階部分に地下鉄の線路が貫通していた。東横ホールの最大の課題はいかにその騒音を防ぐかにあった。『東京急行50年史』には《東横ホールの防音については、営団の協力により3階の銀座線のレールとまくら木との間に弾性帯を挿入して、電車の振動と騒音が伝わるのを防いだ。》という記載があり、『東京の建築』(社団法人東京建築士会、昭和33年7月20日)には、《このビルの中心部を貫通する地下鉄の影響を、音響上どのように処理するかに、最も苦心が払われたわけで、防振ゴムの助けをかり、フローティング床・壁およびハンギング天井をつくって振動をきりはなした》というふうに書かれている。権十郎の『紫扇まくあいばなし』によると、それでも電車の音がホールに響いてしまっていたという。

 


東急会館の断面図。8階が大食堂で、9階から11階が「東横ホール」。3フロアが吹き抜けになっていて、客席前方が9階、後方にゆくにしたがって客席は傾斜し、最後尾は建物の10階部分、ステージと客席双方の天井は11階の天井で、その上が屋上となっている。右側の曲線部分が劇場の最後尾で、この曲線部分に沿うようにして、ロビーがあった。国鉄の線路に向かうようにして客席が設置されている。すなわち、東横ホールは銀座線の線路の真上に位置しているのだった。

 


東横ホールの断面図。上掲の西館断面図を180度回転させて、右が舞台。客席は後方にゆくに従って傾斜、9、10、11階吹き抜け。赤い床と青い客席のコントラストがいかにもミッドセンチュリーという感じがして、イサム・ノグチの緞帳がよく似合う。

 


東横ホールのロビー。この写真は客席前方、すなわち9階部分のロビーで、客席後方部のロビーへの階段が設置されている。つまり、ロビーの天井の傾斜がそのまま客席の傾斜となっている。上段ロビーへの階段の下にあるもう一つの階段の向こうには劇場用のトイレがあり、このトイレの真上が10階部分のロビーとなっている。上段ロビーは東急会館の建物の曲線に沿っていて、窓から外をのぞむことができた。上段ロビーの上手側に喫煙室が設けられている。下段ロビーの下手側に劇場専用の食堂があった。客席後方部の傾斜の真下の一部がクロークがになっていて、下段ロビーにその受付があった。

 


オーケストラピットから客席全体をのぞんだ写真。座席総数1002人、客席面積680.0㎡。

 


客席上段部。

 


その上段部より舞台をのぞむ。

 


上掲の矢野誠一さんの文章に《イサム・ノグチのデザインという、ぶ厚いドンゴロス地の緞帳がゆっくりおりて、大きな拍手につつまれた客席が明るくなると……》というふうに書かれていた、イサム・ノグチデザインの緞帳は《 "No end"「無窮」》と題されていた。

 


『東急會館』にはもう1種類緞帳が紹介されていて、こちらは《太閤秀吉が醍醐の花見に用いたという幔幕を主題に野口真造氏が製作した緞帳》。

 

 

『東急會館』(東京急行電鐵株式会社、昭和29年11月15日発行)を眺めて、東横ホール(東横劇場)のあった時代に思いを馳せたところで、むしょうに現在のその場所に行ってみたくなった。東急百貨店東横店は、昭和9年11月に東京初の鉄道会社直営のターミナルデパートとして開業した東横百貨店の建物、東横線改札につながっている「東館」に、昭和29年11月竣工の東横ホール(東横劇場)があった「西館」、昭和45年10月1日に営業を開始した国鉄の線路の真上に位置する「南館」、以上3つの建物が接ぎあわされて、現在の姿となった。

 


と、その昭和45年竣工の「南館」屋上から、かつて東横ホール(東横劇場)のあった「西館」の9階から11階あたりをのぞむ。屋上の真下から11階、10階、9階というふうになり、他のフロアと比べると、10階と11階の天井の高さが明らかに低いことが伺える。

 


あの場所に行ってみたい! と「西館」へ走って、8階から9階へといたる階段は不自然に天井が低い。この小さな窓は竣工時そのまんま! 現在9階は食堂街で、10階はあるけど、11階の表示は存在しない。8階の催事場(東横ホールがあった当時は大食堂だったフロア)は毎年8月に開催の古本まつりでおなじみの場所だということにやっと気づいた。今まで特に気にとめたことはなかったけれども、今度の夏の古本市の際には、この上の階にかつて東横ホール(東横劇場)があったということに思いを馳せたいものだと思う。

 


『東京の建築』(社団法人東京建築士会、昭和33年7月20日)に掲載の、東急会館の《西側の壁面構成》。地上11階43メートル、時計台頂上までは60メートル、この本の刊行時は東京最高のビルだった。

 


ぜひとも『東京の建築』のかっこいい写真の真似をしたい! と、真似して撮影。いくぶん補修がほどこされていても、西館の大きな特徴だった四角の窓の壁面構成と屋上の煙突は竣工時とまったく同じ。さきほど、8階から9階へいたる階段にあった窓はどの窓かな?

 

そして、玉電はなくなってしまったけれども、渋谷駅前には今も昔もたくさんのバス停留所がある。戸板さんの住んでいた洗足と渋谷駅をつなぐバス路線は健在で、現在は JR の線路をはさんだ向こう側の東口にその停留所がある。『ハンカチの鼠』(三月書房・昭和37年11月→旺文社文庫・昭和57年8月)所収の「峠」というエッセイに以下のくだりがある。

 雲仙から長崎に出るバスが、長崎の市外に入る直前の峠もたのしい。山道が一瞬、都会の道に変るわけである。いまぼくの住んでいる町から渋谷へゆくバスが、代官山をぬけて並木橋の長い陸橋にかかるところの感じが、長崎のあの道と似ているので、乗って通るたびに旅情がそそられる。

戸板さんは渋谷へはバスに乗ってゆくことが多かったようだ。この文章は「西日本新聞」に昭和37年2月から4月にかけて連載されたものなので、まさに、三代目松蔦が七代目門之助になったばかりの頃の文章。東横歌舞伎の招待日にバスに乗って出かける戸板さんの見た、昭和歌舞伎の一側面に思いを馳せる。